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2011年3月21日月曜日

キューポラのある街('62)      浦山桐郎


<「風景の映画」としての「青春前向き映画」>



  1  「平等の貧困」が崩れていく時代の揺籃期の中で



 均しく貧しい時代を保証していた「平等の貧困」が、いつしか崩れていった。

 高度成長以降、この国は大きく変わってしまった。

 固形石鹸で髪を洗っていた時代は、永遠に戻らない。

 あの頃、私たちは、近隣から洩れ聞こえてくるピアノの音色に何の反応も示さなかった。

 それは、一切の空気を変える嵐のような尖った時代の到来だった。

 波動する日常が目眩(めくるめ)く快楽にすっかり呑みこまれ、彩り鮮やかにしていくばかりだった。

 人々はいつしか、隣から洩れ聞こえるエレクトーンの音色や、その子弟の勉強風景や、ガレージに納まる新車の眩しさを無視できなくなってきた。

 高度経済成長による豊かさの獲得は、自分だけが豊かでなくなることへの新しい不安の様態を、人々の内側に過剰なまでに張り付けていったのである。

 「絶対的な貧しさ」が崩れることで、共同体の秩序が波動したのだ。 

 「頑張ること」のメンタリティから、「急げ」、「速く」という「駆け足の美学」が生まれた。

 それを可能にしたのは、「頑張って、急げば何とかなる」という時代の気分であった。

 この時代の気分の根柢には、この国の人々に根強い公平観念や平等主義がある。

 「横一線の原理」の中で仕立てられた、これらのイデオロギーは、殆ど人々の精神性の襞(ひだ)に深々と張り付いていたのだった。

 さて、本作のこと。


 本作は、均しく貧しい時代を保証していた「平等の貧困」が、いつしか崩れていく時代の揺籃期にあって、未だ共同体の扶助精神という幻想が、人々の推進力になっていた下町を舞台に、「労働」、「扶助」、「連帯」という概念が包括する価値を特定的に切り取って、それらが支配する風景のうちに呼吸を繋ぐ思春期を、明朗に、且つ、前向きに描き切った映画である。

 従って本作は、良かれ悪しかれ、幾つかの概念で説明できる映画である、と私は考えている。

 それらは、既に挙げたような概念を含み、更に包括的に羅列すると、「貧乏」、「労働」、「努力」、「向上心」、「自立」、「扶助」、「純粋」、「連帯」、「戦後教育」、「幻想」等々である。

 そして、それらの概念を象徴する生活臭溢れるエピソードがあり、そのエピソードが生み出した言葉がある。

 以下、生活臭溢れるエピソードが生み出した言葉を拾っていくことで、本作の本質に迫りたい。



 2  「向上心」の強い少女の迷走と希望



キューポラのある街・川口市(イメージ画像
鋳物工業の町として著名な荒川北岸の町、埼玉県川口市。

 キューポラとは、鋳物製造で銑鉄(鉄鉱石を溶鉱炉で還元して取り出した鉄)を溶かす溶銑炉のこと。

 京浜工業地帯の大企業の下請生産のための中小企業であるという、構造的な脆弱性を持つ鋳物業者は、高度経済成長による都市化の急激な進展で、その産業風景を大きく変えつつあった。

 本作のモデルとなった家族もまた、その風景の変容の影響を受けつつあったが、昔気質の職人の典型のような家族の父は、大工場の買収によって解雇されるに至った。

 家族の生活が困窮する中で、本作のヒロインである元気一杯の中学三年生は、健気に頑張っていた。

 その名は、ジュン。

ジュン(左)とうめ
パチンコ屋でバイトしながら、高校進学の学費を稼ごうと必死に頑張るのだ。

 しかし、高校進学の学費を捻出するのに四苦八苦する家族の母は、我が子を「労働力」として期待する思いを隠せない。

 「勉強、勉強って言うけどさ、お前、少しはウチのこと考えてみな。高校行くたって、大変なんだから、ウチは」

 「向上心」の強い長女も負けてはいない。

 「父ちゃんの我がままで、自己中心主義だからいけないんだわ。あたい、家の犠牲になんか、なりたくないもん!」


 昔気質の職人の典型のような家族の父は、労働組合を「アカ」と断じて、その援助を拒むのだ。

 
 そんな父を「自己中心主義」と決め付けるジュンの自我には、既に「戦後教育」の洗礼を受ける者の価値観が抱懐されていて、それを親に向かって主張する態度においても、まさしく少女は「戦後教育」の申し子と言っていい。

左から母、父、ジュンと弟のタカユキ
優等生であるが故に、受験勉強して県立第一高校への進学を諦め切れないジュンが、家庭の事情で断念せざるを得なくなったとき、持前の「向上心」だけが空回りし、次第に未来への希望を失っていく。

 担任教諭の尽力で、修学旅行の費用の心配をしなくなっても、高校進学への希望を失ったジュンは、結局、修学旅行に行くことをせず、その生活態度に捨て鉢な言動が目立っていく。

 担任教諭がジュンの家を訪ねたのは、そんな折りだった。

 「勉強したって、意味ないもん」

 担任教諭を前に、ジュンは投げやりな態度を露わにした。

 教育熱心な担任教諭は、声を荒げながらも、諭すように言った。

 「バカなこと言っちゃいかん!受験勉強だけが勉強だと思ったら、大間違いだ。高校は行かなくても、勉強はしなくちゃいかんのだ。いいか、ジュン。働いてでも、何をやってでもだな、その中から何かを掴んで、理解して、付け焼刃ではない自分の意見を持つ。昼間の高校へ行けなかったら、働きながら定時制の学校に行けばいい、それがダメなら、通信教育を受けたっていい」

担任教諭の野田先生(右)
それは、「向上心」の強い少女の、未来への希望を決定的に繋ぐに足る言葉だった。

 以下は、その直後の少女が書いた作文の一節である。

 「私には分らないことが多過ぎる。第一に、貧乏な者が高校へ行けないということ。今の日本では、中学だけでは下積みのまま、一生うだつが上がらないのが現実なのだ・・・皆、弱い人間だ。元々、弱い人間だから、貧乏に落ち込んでしまうのだろうか。それとも、貧乏だから弱い人間になってしまうだろうか、私には分らない」


 「金持ち=悪」⇔「貧乏=善」という二元論の提示が気になるが、少女の作文を介して、作り手の極めてシンプルなメッセージが仮託されている描写であった。

 それでも、この一連のシークエンスは、「向上心」の強い少女の迷走と希望が、思春期の揺動の中で、なお未来を捨てない自我のうちに、一定の秩序を結んでいく清冽さを表現していた。



 3  「手のひらの歌」を歌う少女の構図 ―― 或いは、健気な少女の決意宣言



 担任教諭の「檄」を契機に、ジュンは自分の近未来の方向を固めていった。

 少女は家族の前で、定時制高校に通う決意を語った。

 「これは家のためって言うより、自分のためなの。たとえ勉強する時間は短くても、働くことが、別の意味で勉強になると思うの。社会のこととか、何だとか。そして、その日暮らしじゃなくて、何年でこうするって計画を立てて生活したいの」
 「まいったぜ、これは。よくそんなこと考えついたな」と親しい職工。
 「そうではないわ。色んな人が教えてくれたの。周りの人が」

 ジュンは、そこだけは強調して答えた。

 この短い会話、と言うより、決意宣言のうちに、本作のエッセンスが殆ど全て包括されている。

 即ち、「貧乏」、「労働」、「努力」、「向上心」、「自立」、「扶助」、「戦後教育」、「純粋」、「連帯」、等々の一切が収斂されているのである。

 従って本作は、健気な少女の、この決意宣言に流れていくまでの映画であると言っていい。


 そして、工場見学に行ったジュンは、そこで女子工員たちの合唱を耳にして、決意を新たにしていく。

 元々、「米帝」の象徴としてのジャズ、ポップスへの文化的アンチテーゼとして立ち上げた、「うたごえ運動」から生まれた職場、大学等での歌声サークルの一つがそこにあり、大空の下で、高らかに歌われているのだ。

 その曲の名は、「手のひらの歌」(作詞 伊黒昭文 作曲 寺原伸夫)。

 みんなで笑いあって見つめてみよう 
 汗に塗れた手のひらを
 一人いては何にもできぬ 
 みんなみんな手を結べ
 話してみようよ 
 語り合おうよ 
 積もり積もった胸のうちを


女工員と工場見学に行ったジュン
帰途、自転車に乗って「手のひらの歌」を歌う少女の構図こそ、本作の括りとなったと言えるだろう。



 4  「地上の楽園」への帰還という幻想



 ここでは、「幻想」について簡潔に言及する。

 「幻想」とは、「帰国事業」のこと。

 言うまでもなく、1950年代から実施された、在日朝鮮人の北朝鮮への集団移住のことである。

 朝鮮総連を指導下に、金日成国家主席の呼びかけに端を発した、「地上の楽園」への帰還の実態が如何に苛烈なものであったかについては、今では知らない者がいないだろう。

 朝鮮総連系の血縁や、日本共産党員を除く多くの「北送者」(韓国政府による把握)の生活の実態は、糊口(ここう)を凌ぐのに手一杯で、何より、「在日」というラベリングによって被る差別は尋常ではなかったと言われている。

 
日本を出港する帰還船(ウィキ)
然るに、本作では、「帰国事業」が肯定的に描かれていて、常に批判の対象になっているいる。

 ただ、ここで私たちが注意しなくてはならないのは、現在の価値観によって、当時の価値観や、それに基づく行動を安直に指弾することの危うさである。

 この映画が作られた当時の、我が国の社会的・文化的風景を俯瞰するとき、社会主義についての幻想を希薄化させた現在からみれば、驚くほど楽天的な視座によって北朝鮮を語っていたように思われる。

 
 所謂、「進歩的文化人」と言われる者の多くは、「リベラル」と言うより「レフトウイング」寄りに蝟集(いしゅう)していて、「北朝鮮の怖さ」を指摘する韓国政府や、一握りの保守派の論壇を一刀両断する雰囲気が漲(みなぎ)っていたことを忘れてはならないのである。

 
 朝日新聞や日本赤十字、或いは、寺尾五郎(「38度線の北」)、大江健三郎に象徴される「進歩的文化人」のみならず、「邪魔者は追い払え」という思惑を持った、時の政府にまで及んだ、「帰国事業」へのサポートの現実は、まさに社会的・文化的風景の求心力としか言いようがないのだ。


 「北鮮は新国家建設だから、ビー玉なんかねえだろ」

「帰国事業」で日本を去るサンキチ
これは、ジュンの弟のタカユキが、北朝鮮に行く「在日」の親友に贈った言葉。

 この言葉こそ、当時の時代状況の社会的・文化的風景を投影させていたのである。

 その意味で、本作は何よりも、時代の風景を切り取った映画なのだ。

 残念ながら、映像を含む表現作品が、後の歴史の評価に晒され、検証されるという事態から回避されない現実を否定できない怖さが、そこにある。

だからこそ、映像が普遍性を持つには、そこで提示されたメッセージにどれほどの瑕疵が含まれていようとも、そこで描かれたものの構築力の高さにおいてのみ、後の世代に繋がれていくと思うのだ。

 時代の風景を切り取った映画である本作が、果たして、どこまで高い構築力を表現していたかにつては、既に言及した通りである。



 5  「風景の映画」としての「青春前向き映画」



本作は、吉永小百合のワンマン映画である。

 しかし、アイドル映画の範疇を突き抜けている。

 因みに、アイドル映画とは「憧憬・熱狂・スター・清純・偶像・愛玩」等々と言った、「アイドル性」を保有する映画のこと。
 
 本作は、この「アイドル映画」の要件に縛られていないのだ。


 そんな本作を一言で要約すれば、「青春前向き映画」であると言っていい。

 「青春前向き映画」である限り、どうしても、それを表現するための説明的な台詞と、それを包含するエピソード挿入が不可避となるだろう。

 その意味で、これほど分りやすく、批評の余地のない映画も少ない。

 この類の健全な映画を表現することに価値を持つ時代があり、そんな時代を支える社会的・文化的風景があった。

 労働運動に覚醒していく女性の自立を描いた、サリー・フィールド主演の「ノーマ・レイ」(1979年製作)というアメリカ映画を、「プロパガンダ映画」と見ない限り、決して本作はプロパガンダ映画には堕していない。

 「労働」を価値とし、その「労働」によって形成された「連帯」を価値とし、その価値を前面に押し出す映画が高く評価された時代の典型的な作品でありながら、そこで描かれた、「青春前向き映画」の力強い力動感と明朗さは、ジュンを演じた吉永小百合という、良くも悪くも、稀有な女優のキャラクターの内に収斂されているが故にか、本作は、単に時代限定の狭隘な「青春前向き映画」のトラップに嵌っていなかったとも言える。

但し、この時代の、このような青春の普通の有りようが、均しく貧しい時代の只中にあって、普通サイズの「生活苦」に押し潰されることも、「向上心」を捨てることもなく、当時としてはごく普通の青春を、普通に繋ぐ、普通の風景が存在していたことは否定できないのだ。

 その意味で、そんな時代を特定的に切り取った映画の完成度は、決して低くはないだろう。

 だからこそ本作は、文部省推薦の定番的な作品というカテゴリーの内に押し込められた息苦しさを、ほんの少し突き抜けていたと言える。

 繰り返すが、それは何より、吉永小百合という、当時10代の女優が表現する能力をマキシマムに生かし切った作品であるという意味性において、特段に評価し得る何かであるのかも知れない。

 「風景の映画」―― それは「下町の風景」であり、「時代の風景」であった。

 そして、その時空で呼吸を繋ぐ、一人の少女の「青春前向き映画」であったのだ。

(2011年3月)

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