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2011年6月28日火曜日

悪人('10)     李相日


 <延長された「母殺し」のリアリティに最近接した男の多面性と、「母性」を体現した女の決定的な変容 ―― 構築的映像の最高到達点>



  1  無傷で生還し得ない者たちの映画



 言わずもがなのことだが、本作は、主要登場人物8人(祐一、光代、祐一の祖母、祐一の母、佳乃、佳乃の父の佳男、佳乃の母、増尾、)のうち、物理的に生還できなかった者(佳乃)を除いて、無傷で生還しなかった者は一人もいなかった映画である。

 そこに複雑な事情が込み入っていたにせよ、物語の中枢に歴とした殺人事件が存在し、近未来において、その殺人事件が立件されていくに違いないからだ。



 立件された殺人事件には、特定された加害者と被害者(画像)がいて、それぞれに家族が存在する。

 更に、立件された事件の被告でなかったにしても、事件に直接的・間接的に関与したことで、この事件から被った何某かの因子によって無傷では済まされないからである。

 そんな登場人物の中で、本作を支配し切っていた登場人物が、「ラブ・ストーリー」の体裁を仮構して物語を推進していった、二人の若い男女であることは言うまでもない。

 そして、この重層化された物語の中で、主題に関わる振舞いを見せることで、本作を、その根柢において支え切っていた人物もまた、二人いる。

 まもなく立件されるだろう、殺人事件の被害者である佳乃の父の佳男と、事件の被告となる祐一の祖母である。

 その辺りから書いていく。



 2  憤怒のエネルギー変換を成就させた被害者の父 ―― 「ひた向き」に生きる大人の象徴として①



 殺人事件の被害者である佳乃の父の佳男と、事件の被告となる祐一の祖母。

 この二人の大人の存在は、物語の中で、「ひた向き」に生きる大人の象徴として人物造形されていた。

 その一人、被害者の父である佳男の場合は、「対象喪失」の懊悩を最も精緻に描かれていたと言える。

 当初、そのやり場のない憤怒を、娘の進路を自由にさせた妻に当り散らしていたが、同時に、「対象喪失」の懊悩を一身に受け止める妻の精神状態のうちに、概念的把握とは無縁に、「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)の危うさを見るに及んで、限りなく自己を相対化しようと努めていく。
 
 彼にとって、今や、やり場のないその憤怒を、娘を遺棄したと信じる軽薄な大学生(増尾)に向けられたのである。

佳男の娘・佳乃(左)
無論、彼の中で、不肖の娘の振舞いの全てが正当化されている訳ではなかった。

 現に、福岡の保険会社のOLをしている娘が、都合のいいときにのみ自分を利用する要領の良さを熟知していたし、それに対して不満も持っていた。

 育て方の失敗の一因が自分にもある、と認知していたであろう。


 それでも、娘を遺棄した男である増尾に、彼の憤怒が集中する心理は理解し得るものだ。

 遺棄された行為によって被る、精神的・身体的ダメージの甚大さを想像することで、遺棄した男の非人間性だけがイメージとして肥大していくからである。

 だから、彼は男に向かっていく。

 その軽薄な男に、徒手空拳で向かっていくのだ。

 「何で佳乃を置き去りにした!お前のせいで、佳乃は死んだんだぞ!謝れ!」

 軽薄な男に足蹴にされる、「ひた向き」に生きてきた男。

 映像は、娘と同様に足蹴にされ、遺棄された構図を再現したのである。

増尾に向かっていく佳男
今度は、右手にスパナを携えて、軽薄な男が屯(たむろ)っている飲食店に向かっていくのだ。



 軽薄な男の軽薄な雑談を目の当たりにして、「ひた向き」に生きてきた男は、後から入って来た男の友人に、噛んで含めるように吐露していく。

 「あんた、大切な人はおるねん?その人の幸せな様子を思うだけで、自分まで嬉しくなってくるような人は。今の世の中、大切な人がおらん人間が多過ぎる。自分には、失うものがないちゅう思い込んで、それで、強くなった気になっとる。だけんよ、自分が余裕のある人間と思い腐って、失ったり、欲しがったりしている人をバカにした眼で眺めとう。そうじゃないとよ。そうじゃ、人間はダメとよ」

 映像は、佳男の吐露がナレーション効果に昇華して、逃避行中の二人の主人公と、祐一に代って、夫を介護する祖母を映し出す。

 この説明的な台詞を耳にして、正直言って愕然としたが、この台詞なしに、そこに含まれる本作の基幹テーマの一つを役者に表現させることの困難さを先読みすることで、より分りやすい映像の創出を狙ったのだろう。

 それにしても、分りやす過ぎないか。

 いずれにせよ、「大切な人」を持つことで、自我を安寧にさせていく努力なしに、「日常性の秩序」を構築し得ないのである。

 そう言いたいのだろう。

それこそが、人生を疎(おろそ)かにせずに、「ひた向き」に生きる者の証であるというメッセージが、「ひた向き」に生きることを忘れた者たちを相対化する精神的パワーとして、本作を貫流していた。

 「大切な人」を喪った男は、それでも、自分を待つ妻がいる場所へ生還する意志を捨てないことによって、右手に握られたスパナを、最も憎き男に降り下ろすることなく、憤怒のエネルギー変換を成就させたのである。



 3  逆境を憤怒のエネルギーに変換させた加害者の祖母 ―― 「ひた向き」に生きる大人の象徴として②



 この佳男のケースとは違って、「ひた向き」に生きた、もう一人の人物である祖母の心痛は、「対象喪失」のそれではなく、事件の被告となるであろう孫を、娘に替わって育ててきた責任の総体と、その孫に夫の介護を依存せねばならないハイリスクな現実のうちに顕在化されていた。



 加えて、孫のために貯めた金の一部を、「催眠商法」に掠め取られた経済的心痛も加わって、彼女もまた、無傷で生還できないリアリズムの世界に持っていかれるのだ。

 祖母にとって、孫の祐一の存在は、彼女の自我を安寧にさせる決定的に「大切な人」であった。

 映像の作り手は、最も「ひた向き」に生きてきたこの二人の人物が、後の世代に、その生き方をリレーさせることの難しさをシビアに描き切ったのである。

 「世代間の内的交通の希薄さ」を炙(あぶ)り出してしまう程の、時代状況の大きな変容が障壁となっている現実が、そこに晒されたのである。

 ここで注目すべきは、「加害者の祖母」という最悪の逆境下に置かれた祖母が、勝算のない闘いに打って出たことである。

 それは、「ひた向き」に生きてきた人生を踏みにじる悪徳に対する、それ以外にない直接的な自己表現であったと言える。

「加害者の祖母」の「ひた向き」な人生が破壊されたとき
祖母もまた、「被害者の父」という、逆境下に置かれた男が選択した行動と軌を一にするように、逆境を憤怒のエネルギーに変換させたのである。

 本作の中で、最も「ひた向き」に生きた二人の人物が、観る者に投げかけたメッセージは、「あるべき正義」の推奨というような大袈裟なものではなく、「ひた向き」に生きてきた者だけが選択し得る、その人生の内実の直截(ちょくさい)な異議申し立てにあるということだろう。

 だから、被害者の父である佳男は、軽薄な男を殺害するに至ることなく、その思いのみを全人格的に投入したのであり、加害者の祖母もまた、ただ単に、その人生の中で培われたものの結晶を、それが分らない連中の前で身体表現したのである。

 作り手は、この二人の行為のうちに、「大切な人」を持つ、「『ひた向き』に生きる者の変わらなさ」の美徳を拾い上げることで、それに背馳(はいち)する者たちの振舞いを浮き彫りにしたのであろう。



 4  「出口なしの閉塞感」を突き抜けて ―― 「大切な人」を手に入れた男と女の絶望的な逃避行①



 ここでは、最も心の闇が深い人物、祐一の自我のうちに封印された情感体系の掴み所のなさについて言及する。

「トラウマ」、「愛情」、「尊厳」という克服課題の困難な獲得がクリアされずにいた祐一の心の闇
彼の封印された情感体系のルーツには、幼少時期における、「母から捨てられた子」という自己像に関わるトラウマが横臥(おうが)している。

 幼児自我の中枢に穿(うが)たれた空洞感を埋めるには、「母から愛される自己」という自己像の獲得が必要だった。

 しかし彼には、その決定的なものが手に入らなかったのだ。

 既に彼は、幼少時から、他の子供には一般的に見られない、「トラウマ」、「愛情」、「尊厳」という克服課題の困難な獲得がクリアされずにいた。 

その克服課題の困難なテーマを一言で要約すれば、「承認欲求」と言っていい。

その「承認欲求」を、思春期以降、彼は、自分を捨てた実母へのリベンジの含みを持って、彼女から、なけなしの金をせびるという屈折した行為に結ばれたのである。

 常に、「母性」を求める祐一の自我は、青春期にまで延長されていて、それでもなお得られないことでストックしたディストレスを、孤独なドライブと、「出会い系サイト」という安直なツールによって満たしていくしかなかったのだ。

 当然ながら、祖父の介護をする行為にアイデンティティを獲得し得る訳がなく、ワーキングプアでもある、闇深い屈折した青年が、「出会い系サイト」へのアクセスによって手に入れたのは、「買春」による下半身の処理以外ではなかった。

 それも、自分を見下す女=被害者との希薄な利害関係で被る精神的リスクは、偶発的な出来事との遭遇によって、遂に、「買春」の肝心な「パートナー」を殺害するに至るという、最悪の状況を惹起したのである。

 事件直後、そんな祐一が、ただ単に、飽和状態の恐怖感を一時(いっとき)の忘却目的で、下半身の処理を図ろうとして、再び、「出会い系サイト」を利用する。


光代と祐一の出会い
そこに出現したのが、孤独なハイミスの光代だった。

 初めて会っても、流暢に会話が弾まない二人のドライブの行き着く先は、下半身処理の空間である一軒のモーテル。

 そのときの、二人の会話。

 「でも、変なか感じよね。さっき、会うたかばっかりとに、もう、こがんとこに、おるとよもね」と光代。
 「ごめん」と祐一。
 「別に、謝らんでよかとよ。ちょっとびっくりしたけど、女でもさ、そがん気持になることだって、あるとよ。そがん、気持ちになるけん、誰かと出会いたかって」

 そこだけは、祐一と同様に、光代もまた、「大切な人」を特定し得る心の旅を繋いでいたのだった。

 今度は、それだけを求めるかの如き、激しいセックスの後の、二人の会話。

 「ここに来る途中、安売りの靴屋があったやろ?あそこを右に曲がって、まっすぐ田んぼの中を進んだ所が、あたしの高校だったとよ。そのちょっと手前に、小学校と中学校。今の職場もあの国道沿い。何か考えてみたら、あたしって、あの国道から全然離れんやったとね。あの国道を行ったり来たりしよっただけで」
 「俺も似たようなもん」
 「でも、海ん近くに住んどっとるやろ?海に近くとか、羨ましかあ」
 「眼の前に海あったら、もうその先、どこにも行かれんような気になるよ」

 この会話が象徴するのは、「出口なしの閉塞感」である。

ところで、この映画に関しては、二人の男女の濃厚な性愛描写なしに成立し得ない状況性を確認する必要があるだろう。

 二人の、この性愛描写のうちに、現代の軽薄な世俗文化の端っこにぶら下がっているかの如き、「最も弱き者たち」が、「最も大切な人」という、それ以外に考えられない把握のもとに、全人格的に求め合い、慰撫し合い、扶助し合う「関係の濃密さ」が、哀切なまでに表現されていた。

 もとより、安ホテルの一室で、「闇」と思しき空間の陰翳感の映像効果の中で、初対面でセックスに及ぶ行為の心象風景を覆う、負の感情(殺人の恐怖からの逃避)を推進力にした、二人の出会いの「異常性」の根柢には、大都市と接続し得ない地域に集中的に現れているとされる、地域経済や人心の「閉塞感」が漂流していた。

 その「出口なしの閉塞感」の只中で、妹に揶揄されながらも、彼女なりに「ひた向き」に生きてきた光代だが、事件直後の殺伐とした心象風景を露わにする祐一との接合点は、常に「母性」を求める青年の自我を許容する抱擁力以外ではなかった。

 しかし、この時点において、その接合点が繋がることはなかった。

 それ以上に、最悪の状況が、そこに露呈されたのだ。

 「これしか、なかとけど」

 祐一は、そう言って金を渡したのである。

 相手の女を、セックス目当てで付き合っていた、「出会い系サイト」の延長上でしか考えていなかったのだ。

 だから、この日も、その目的のためだけに会いに来た。

 「あたし・・・あたしね。本気でメール送ったとよ。普通の人は『出会い系サイト』とか、ただの暇つぶしでするとかも知れんけど、あたしは、本気やったと。ださかやろ」

 先に受け取った金を祐一に戻して、車から降りて、帰って行く光代。

 ハンドルに頭を叩き付けて、後悔する祐一。

 堪えていたものを、もう閉じ込められず、自転車置き場で嗚咽する光代。

 翌日、祐一は、佐賀の紳士服量販店に勤める光代の職場を訪ねた。

 「謝りとうて・・・仕事中、そんことばっかり考えよったら、もう、どうにもならなくなって・・・」
 「そいで、わざわざ長崎から来たと?」



 他の女性店員の視線を意識する光代は、祐一を試着室に連れて行った。

 「本気やった。俺も、本気でメール送ったとよ・・・本気で、誰かと出会いたくて」

 一旦、別れた後、祐一は、光江のアパートに行って、彼女を連れ出した。

 警察が来ていることを、電話で祖母から聞いたからだ。

 「もっとはよう、光江に会うとけばよかった」

 闇深い屈折した青年が吐露する、切実な心情である。

 この流れの延長上に、遂に祐一は、「事件」について告白するに至る。

 食堂でのことだった。

 そして、二人のドライブ行の到達点は、最寄りの警察署。

 自首するつもりなのだ。

 弾丸の雨の中、初めて「大切な人」を手に入れた青年が、その「大切な人」に別れを告げ、警察署に向かってゆっくり歩いて行く。

 一度、振り返った。

 祐一の心中のどこかで、「大切な人」との別れ難さが張り付いているのだ。

 車内からガラス越しに、嗚咽を堪える女の哀切な表情が捕捉された。

 このとき、女の中で抑制された感情が解き放たれてしまったのである。

 後方を振り返った後、再び、歩行を繋ぐ男。

 しかし、女の中に入ったスイッチが、男を引き戻させたのである。

 執拗に鳴らすクラクションが、そこから開かれる、二人の絶望的な逃避行のシグナルとなっていくのだ。



 5  「出口なしの閉塞感」を突き抜けて ―― 「大切な人」を手に入れた男と女の絶望的な逃避行②



 二人が向かった先は無人灯台。

 そこでの絶望的な「逃避行」の日々の中で、「母性」を求めて止まない祐一の自我の空洞を埋めるように、切に求めて止まないものが侵入してきたのだ。


これは、「ラブストーリー」という名の、「母性」による「無限抱擁」と、それを求める者の、全人格的投入の濃密なる時間の物語でもあった。

 「光江と会うまでは、何とも思わんかった。悪かこと思わんかった。あの女が悪かことやけん、当然やろと、そがん思いこんどった・・・けど、今、光江といると苦しか。一緒にいればいるほど、苦しゅうなる。俺だって、今まで生きとるかも、死んどるかも、よう分らんかった」

 「大切な人」を初めて手に入れた者が知った感情こそ、それを失うことへの恐怖感だった。

 愛することは苦しむことである。

 相手の苦しみを受容し、自分の思いを投入し合うことで共有される時間の重さは、最も内面的な営為であるが故に、人は初めて、失うことの怖さを知るのだ。

 これは被害者の父である、佳男が吐露した言葉。

 この言葉が、物語の主人公の睦みのうちに具現されていくとき、「ひた向き」に生きる者が、拠って立つ自我の安寧の基盤を、そこだけは誇る者のように立ち上げていくのである。

 失うことの辛さを初めて経験した祐一にとって、その内側で騒いで止まない心の痛みこそ、〈愛〉と呼ぶべき何かだろう。

 そんな男が、逮捕直前に、女の首を絞める行為に走ったのは、自己防衛の衝動の産物であったのか。


必ずしもそうであると言えないのは、ラストシーンにおける、男の柔和な表情が検証するものだった。

 善意に解釈すれば、男は女を「共犯者」にしたくなかったのだろう。

 そのような配慮が生まれる心の余裕が僅かに残っていた、その最後のエネルギーの自給の臨界点 ―― それが、「大切な人」を手に入れた者の屈折された自己史への最後の反乱であったとも言える。



 なぜなら、「母性」を求めてきた自我が、初めて出会った本物の「母性」を前にして、その「母性」を屠ることによって、屈折された自己史を最終的に克服する、最も危うい行為であったとも考えられるからである。

 「俺は、あんたが思うとるような男じゃなか」

 祐一は、そう言い放って、「逃避行」を誘導した自己のエゴを深く謝罪する、光代の首を絞めたのだ。

 祐一が逮捕されたのは、その言葉が未だ虚空に浮遊している只中だった。

 それは、「大切な人」を手に入れた男と女の、その絶望的な逃避行の終焉を意味していた。



 6  延長された「母殺し」のリアリティに最近接した男の多面性と、「母性」を体現した女の決定的な変容 ―― 構築的映像の最高到達点





 ここに、李相日(リ・サンイル)監督(画像)の言葉がある。

 「絶対的な悪人や善人は存在しない。この映画のテーマの一つに、『人間の多面性』がある。1人の人間は、悪意と善意を持ち合わせ、せめぎ合いながら過ごしている。それが光のあて方で片面しか見えないときがある。その片面だけを見て、裏側を押しつぶしてしまうような見方に慣れてしまっているのではないか。祐一の知られざる面まで想像するのが、この映画が提示している課題でもある」(「佐賀新聞 ひびのニュース 監督インタビュー2010年09月10日」)

 「人間の多面性」という表現は、普通に人生を繋ぐものなら誰でも認知している、人間の性(さが)であると言っていい。

 単に、「道徳的質の高さ」の違いでしかない「善」とは、どこまでも相対的な概念でしかなく、国が変れば、「名誉ある殺人」(貞操を破った妻を殺害する行為の正当化)のように、「殺人」ですら「絶対悪」にならず、「姦通」という「罪」の方が「重罪」に値するのである。

 では、「殺人」ではなく、「姦通」を犯した妻はどうなるのか。

 石打ちによる死刑が待っているのである。

 国法より、部族の慣習法が優先される国家が存在するということだ。

 このことは、相対的な概念でしかない「善」と「悪」の由々しき問題に、境界線を引くことの困難さを説明し得るであろう。

 ともあれ、この「人間の多面性」が最も象徴的に造形された人物が主人公の祐一であることは言うまでもない。

 何より、祐一の中で見せた様々な表情が、それを物語っている。

 「母性」の代償を求めてアクセスしたはずの「出会い系サイト」で、彼が手に入れたものは、単なる性衝動の処理でしたかった。

 それ故、祐一が殺害した女は、「母性」にすら昇華し得ない、単なる「女」であった。

 祐一の「母殺し」は、ここでもまた延長されてしまったのである。


「悪人」のロケ地となった五島市大瀬崎灯台
延長された「母殺し」のリアリティに最近接したのが、そこだけは限定的な、睦みのスポットと化した、無人灯台での非日常のゾーンであった。

 祐一の中の、「善」と「悪」の均衡感が、そこで切断されたのではないか。

 切断された「善」が、ラストシーンでの輝きの微笑であるとすれば、もう一方の「悪」が抑制されずに自己運動を起こして、それが「大切な人」の首に手を伸ばしたのではないか。

 それは、「ロールプレーイング」の範疇に留まる何かであったとも考えられるし、そうでないとも言える。

 自己運動を起こした本人にも、不分明だったのではないか。

 「しかし、世の中にはひどか男がいるもんやね。若か娘さん絞め殺して、人間のできることじゃなかですよ・・・」
 「そうですよね。世間で言われよる通りなんですよね。あの人は悪人なんですよね。人を、殺したとですもんね」

 これは、被害者が殺害された場所に献花に行った際に、タクシーの運転手に吐露した、光代の言葉。

祐一に最近接した彼女には、祐一の屈折した自己史の風景の痛々しさが理解できていたのだろう。

 それでも、彼女にとって祐一と共有した濃密な時間は、彼女の人生を決定的に変容させる契機となった大事件だった。

 彼女の変容は、復帰した職場での、明朗な笑みのうちに象徴的に表現されていたのである。

 今や、その変容は、クリスマスイブの夜、妹とその恋人が睦み合った布団を傍目にして、彼らが食べ残したケーキを食べ、「国道を行ったり来たりしよっただけで」と嘆息した女ではなかったのだ。

 以上、縷々(るる)言及してきたが、この映画の作り手は、このような厄介なテーマを内包する人間ドラマを構築したのである。

 人の心の奥深くにまで踏み入って、内面世界の複雑な振れ方をする不定形のさまを抉り出し、それを精緻に表現する映像を構築し切ったのだ。

 それは、延長された「母殺し」のリアリティに最近接した男の多面性と、「母性」を体現した女の決定的な変容の様態であり、それこそが、構築的映像の最高到達点だったと言えるだろう。

 良作でありながら、情感系の濃度の深い「フラガール」(2006年製作)と違って、本作は、部分的に商業ベースで譲歩したベタな描写や、BGMのフル稼働が気になったものの、その印象を希釈させるに足る、近年稀に見る、傑作と言う名に値する邦画の一篇だった。

(2011年7月)






 

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