<「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」が蒙った、苛酷な「試練」が自己完結したとき>
1 「近代合理主義」と「権威的・排他的形式主義」、そして「非合理的・純粋信仰」のパワー
本作は、「近代合理主義」と「権威的・排他的形式主義」という両極のスタンスに、「非合理的・純粋信仰」のパワーを、巧みな映像表現で描き切った物語である。
「近代合理主義」を象徴するのは、ベスの義姉(愛する実兄の未亡人)であるドドや、彼女が勤める病院のリチャードソン医師(ヤンの主治医)に代表される。
また、厳格なプロテスタント信仰を堅持するかの如き、「権威的・排他的形式主義」を象徴するのは、言うまでもなく、物語の舞台となった、北海に面したスコットランドの寒村の「長老会議」である。
この両極のスタンスと一線を画すのが、夫のヤンを救うために、彼の指示通りに「娼婦」を遂行する、本作のヒロインであるベスである。
彼女の行動は、当然の如く、両極の立場から厳しく指弾され、或いは、教会からの追放を受けるに値する何かであったが、ここでは、「非合理的・純粋信仰」と把握しておこう。
2 「神との対話」を繋ぐ女の「非合理的・純粋信仰」
まず、ベスの存在は、「神との対話」を遂行する熱心な信仰者として、観る者の前に出現する。
新婚のセックスのときでも、歓喜を与えてくれた夫に、「ありがとう」と呟くベスには、「神との対話」を可能にする「才能」が与えられていた。
以下、その例。
「ベスよ。いかなるときでも善良であれ」
ベスの中の神の声だ。
「ヤンは10日後に戻る。お前は耐えることを学ばねば。もう待てません。仕事仲間がヤンを必要としているのだ。帰って来さえすれば、お願いします。どうかヤンを家に送り返して下さい。本当にそう望むのだな。はい」
これは、北海油田の労働者であるヤンが、仕事に出発する際に、取り乱した振舞いをしたベスの「神との対話」。
人気(ひとけ)のない崖に向かって、独りぼっちになる寂しさを絶叫したばかりか、別離の際もヘリコプターに乗り込んだ夫を追い駆けて行った一連の振舞いを、彼女なりに深く反省しているのである。
その折りも、不安を鎮めるべく、ナースである義姉のドドから安定剤を飲まされていた。
しかし、ベスの最も恐れていた事態が出来した。
海底油田で爆発事故が置き、意識だけが明瞭なヤンは、脊髄損傷による四肢麻痺の体になってしまったのである。
そのときの「神との対話」。
「何が起こったのです?お前がヤンを返せと望んだ。どうしてあんなことを言ったのかしら。なぜなら、お前は愚かだからだ。これは試練だ。お前の、ヤンへの愛を試しているのだ。生かして下さって、感謝します。礼には及ばん」
しかし、自殺未遂すら図ったヤンは、「ベスを解放させてあげたい」と口走った後、信じ難き言葉を放ったのだ。
「俺は不能だ。お前は愛人を作れ。だが、離婚はできん。教会が許さん」
ベスに命令口調で、言い放つヤン。
病室を出て、号泣するベス。
「ギリギリまでいくと人間は変わる。そして、死にそうになると悪い人間になる」
「あなたは死なない。私には分る」
夫婦の重苦しい会話の一端である。
それ直後、ヤンは、ベスからの「愛の話」を聞くことで、自分の命を救えるとまで吐露するのだ。
その言葉を信じるようになったベスは、その事実をドドに話したのである。
「愛はヤンを救うの。ヤンは愛に生きてるわ。どうすればいいか、彼が教えてくれたわ」
「ヤンに従うのはいいけど、感化され過ぎないで。病人は影響力が強いから」
自分の耳を疑うドドは、ベスの不道徳な行為を止めさせようと、必死に説得するが、今や、ヤンの言葉を「神の啓示」の如く聞く、「純粋無垢」のベスをコントロールし得なくなっていた。
「私はヤンを救ったわ」とベス。
「止めて、バカなことは!」とドド。
「私はバカじゃないわ!」
「空想の世界にのめり込んでいくのが心配なの」
二人の会話は、その後も繋がっていく。
「彼の妄想のために、男と寝るの?」とドド。
「でも、治ったわ」とベス。
「治ってないわ」
「夫を敬え、と主は言った」
「それが敬うことなら、願い下げね」
「よそ者だから、そう言うのよ」
「よそ者で良かった。この土地の人は、陰口ばかり」
「あなたも、土地の教会に行くわ」
「でも、自分の眼でものを見ている」
「出て行けば。夫が死んだんだから」
「出て行かないのは、あなたがいるからよ。自分の頭で考えなさい。自分の意志で選ぶのよ」
以上の会話の本質は、ドドに象徴される「近代合理主義」と、ベスに象徴される「非合理的・純粋信仰」の衝突であり、「宗教」に対するスタンスの決定的な落差感であった。
3 「権威的・排他的形式主義」との、終わりのない「内面的闘争」の爛れた様態
「私は地獄へ堕ちると思う?お前が救いたいのは、ヤンか自分か?」
ベスの「神との対話」は、究極の選択にまで流れ込んでいった。
究極の選択に流れ込んでいったベスには、ヤンを救うためには、彼が与えた「試練」を遂行するだけだった。
そんなベスから見れば、聖書に書かれた文字のみに拘泥(こうでい)する、村の教会の「権威的・排他的形式主義」の欺瞞が我慢し難かった。
「聖書に書かれた掟に、無条件に従うことです」
牧師の説教に、ベスは反駁(はんばく)していく。
「あなたの言っていることは、全然分らない。どうやって言葉を愛するの?言葉なんて愛せないわ。言葉とは愛し合うことはできない。愛し合えるのは人間だけよ。そうして人は、完全になるの」
このベスの批判に対する牧師の反応は、「権威的・排他的形式主義」の濃度を深める文脈でしかなかった。
「女性は発言してはならん。長老会議で今、決定が下された。お前は、二度と教会に近付いてはならん。追放する!」
「追い出さないで!」
「神の家から出て行け!」
この一言で、ベスは教会から追放されるに至った。
その会議には、ベスの母も出席していて、沈痛な表情を浮かべていた。
その足で病院に向かったベスは、今度は病院からも、ヤンとの面会を拒絶されるのだ。
既にヤンは、ベスの精神病院への措置入院にサインをしていたのである。
表に出れば、子供たちから「売春婦!」と蔑まれ、石を投げられる女。
家に戻って、母を呼んでも、家には鍵がかけられていた。
教会の敷地で倒れても、牧師の助けはなく、そこにドドがやって来て、ヤンの危篤状態が知らされるに至った。
遂に、ベスのハードルは、ここでマキシマムに上がっていくのだ。
彼女は、大型船に屯(たむろ)うヤクザの世界に入り、そこで体を売るが、その体は傷だらけ。
密室と化した大型船の中で、嫌がるベスに無理難題を強いて、それを拒む彼女を殺傷したのである。
覚悟の上とは言え、ベスの「試練」のハードルは、彼女の耐性限界を超えてしまっていたのだ。
そんなベスが、這う這う(ほうほう)の体で、再び病院にやって来た。
時、既に遅かった。
「全部、間違っていた・・・」という言葉を残し、ベスは昇天したのである。
まもなく、法廷の場で、リチャードソン医師は、最初に書いた報告書を訂正し、ベスの行動を「神経症」とか「分裂症」とかいう診断ではなく、「善意」による行動であると弁明したが、受容されなかった。
昇天してもなお、ベスの受難は終わらないのだ。
「埋葬は認めるが、葬儀は一切執り行わない。我々は死んだ娘をよく知っているが、そのために、この決定が揺らぐことはない。ベスは追放されたものとして埋葬される」
教会での長老会議の決定だった。
「神との対話」をも拒絶されたベスの受難は、彼女が痛烈に批判した「権威的・排他的形式主義」との、終わりのない「内面的闘争」の爛(ただ)れた様態を露わにしたのである。
4 「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」が蒙った、苛酷な「試練」が自己完結したとき
ここで重要なのは、「非合理的・純粋信仰」をマキシマムに体現するベスの行動が、かつての聖フランチェスコのような、自分に苛酷な鞭を打つラジカルな修行という文脈で把握することが可能であるということだ。
「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」であるベスは、「現代の聖フランチェスコ」だったのである。
観る者は、ベスに卑猥な行動を要求するヤンの心理のアンチモラルに拘泥することで、「物語の無秩序さ・荒唐無稽さ」を厭悪(えんお)し、その一点だけで強制終了する向きもあるかも知れないが、しかしそれは、「宗教」に対する無理解と言うよりも、本作の基本構造の誤読であると言えるだろう。
なぜなら、物語の中のヤンの存在は、私見によると、単に、自分の妻に「試練」を与える役割として仮構された人物造形であると思うからだ。
不慮の事故によって、繰り返し外科手術を必要とされ、人工呼吸器なしに生存不能と化した、完全な四肢麻痺患者の夫である、ヤンの病状が全く好転しない現実を目の当たりにして、「全部、間違っていた・・・」という言葉を残して昇天したベスは、救済のシグナルを送波し続けた夫の言葉を、いつしか、内なる「声」を失っていく「神」に代わって、苛酷な「試練」を与える、「愛の殉教者」の対象人格の「啓示」として受容し、その「試練」を「純粋信仰の実践者」として体現していったのである。
しかし、「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」であるベスの苛酷な「試練」は、常識的には有り得ない、ヤンの奇跡的回復によって報われるに至った。
ここだけは、リアリズムが蹴飛ばされているのだ。
こういう映像を、私たちはもっと包括的に読み解く必要があるだろう。
「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」の遺体を盗み出したヤンは、「埋葬は認めるが、葬儀は一切執り行わない」と指弾した、「長老会議」の「権威的・排他的形式主義」の圧力を弾き返して、海上油田での海葬に付した。
ラース・フォン・トリアー監督 |
それは、「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」が蒙った、苛酷な「試練」が自己完結したことを意味するだろう。
ごく自然な流れのうちに、ファンタジーに包んだラストシーンの切れ味には、特段の違和感を持たなかったのは事実。
毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする本作だが、私としては、とても良く仕上がった作品だと評価している。
但し、デンマークの一群の映像作家たちのマニフェストと言っていい、「ドグマ95」(手持ちカメラ、ロケーション中心、等々の製作上のルール)に依拠したラース・フォン・トリアー監督による本作の内実は、ヒロインを演じたエミリー・ワトソンの圧倒的な表現力のみが際立ち過ぎていて、そのインパクトに収斂される「初頭効果」(出会い頭の印象効果)だけが記憶の奥に張り付く類の一篇だった。
従って、「5分経ったら忘れる映画」ではないものの、それでも残念ながら、私の中では、「余情」の粘着力の不足する映像としての評価を突き抜けられないのだ。
エミリー・ワトソンが占有し切った映像の「初頭効果」が、ここでは負の効果となって、それ以外の要素を蹴散らせてしまったのである。
(2011年7月)
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