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2011年8月8日月曜日

ビヨンド・サイレンス('96)    カロリーヌ・リンク


<外部世界に架橋する解放感によって相対化した青春の自己運動の眩さ>



1  「音を占有する健常者の世界」の空気を濁色した、「音が剥奪された世界」の屈折的自我



「あの子が私から離れて行ってしまう」と父。
「あなたの親と同じ過ちを犯さないで」と母。
「同じ過ちって?」
「押し付けはダメ。本人の意見を聞いて」
「あの子は、私の子だ」
「でも、所有物じゃないでしょ」

聾唖者の、この両親の寝床での会話が、本作の基幹テーマを言い当てている。

クラリネットの練習を娘が始めたことを契機に生まれた、父と娘の微妙な温度差が、聾唖者の夫婦の会話に露わにされていた。

父の名は、マルティン。

母の名は、カイ。

ララ(左)

クラリネットの練習を始めた娘の名は、ララ。

そして、ララにクラリネットの練習を指導する女性の名は、クラリッサ。

マルティンの実妹である。

この会話で無視し難いのは、「あの子が私から離れて行ってしまう」と、妻のカイに手話で思いを語る、マルティンの心理の奥深くに潜むトラウマ。

それは、以下の児童期でのエピソードに集約されるだろう。

クラリネットを演奏するクラリッサを自慢する、マルティンの父(ララの祖父)。

手話をマスターすることなく、「聾唖者」=「社会的弱者」であるという、それだけの理由で、息子をスポイルしたマルティンの母。

父の自慢の対象であった、実妹であるクラリッサへのマルティンの嫉妬。

この屈折した感情がピークアウトに達したとき、マルティンの心理の奥深くに潜むトラウマが分娩されたのである。

ホームパーティーの場で、マルティンの父のピアノ伴奏に合わせて、クラリネットを得意げに演奏するクラリッサ。

「音が剥奪された世界」を常態化しているマルティン少年は、自分だけが味わう疎外感を、「音を占有する健常者の世界」の空気を濁色する目的で、不自由なくぐもり声を破るように、必死に笑って騒ぎ出したのだ。

マルティン少年を折檻し、部屋に閉じ込める父。

庇うだけの母。

茫然とするばかりのクラリッサ。

この日以来、クラリッサは、兄であるマルティンの前で、クラリネットを演奏しなくなってしまったのである。

このエピソードが提示したのは、「音が剥奪された世界」の疎外感をトラウマと化した、少年マルティンの屈折的自我の様態であるばかりか、クラリネット奏者としての道を断念せざるを得なかったクラリッサの挫折感である。

その挫折感を浄化できない思いが延長されたとき、既に成人となったクラリッサは、兄マルティンへの封印されていた抵抗感を解いてしまったのである。

それは、兄であるマルティンの娘のララに、クラリネットをプレゼントすることで、少女の大いなる関心を誘(いざな)って、ララにクラリネットの演奏を指導するに至った行為だった。

先の聾唖者の夫婦の会話に横臥(おうが)していたのは、この一連のエピソードであった。



2  クレズマー音楽の情感世界を表現する娘、それを心の声で受容する父



父マルティンの自我が負った、過去の詳細な事情を知らないララは、クラリネットの練習に我を忘れてのめり込んでいく。 

ヒロインのララにとって、それは同時に、自分に負わされ続けてきた、手話を介しての両親との言語交通という、普通の少女の生活レベルから些か切れた世界での行為からの、まさに打って付けの解放感の獲得だったに違いない。

この一連のシークエンスは、映像の冒頭における、氷上でのスケートのシーンのうちに象徴されるものだった。

自立的自我の様態がエゴを抑制する矮即ち、氷の下での「音が剥奪された世界」=「聾唖者の世界」と、氷上での「音を占有する健常者の世界」との対比。

幼少時から、それがなければ、もっと子供らしい、「快・不快の原理」による行動傾向に流れていくエネルギーの過半を、聾唖者の両親、とりわけ、祖母に甘やかされたことで、そこだけは過保護に育った、父マルティンの愛情独占型の視線への反応に費消されてしまったことに外部世界をネガティブに把握しやすい自我の様態を屈折させなかったのは、娘の社会的自立を願う母の包括力と、クラリネットを通じて、内部の情感を自然に表現する素晴らしさを教えた叔母の存在に因る処が大きい。 



そして、ポジティブ思考の恋人との出会い。                 

それらの外部要因が、ヒロインの青春を空洞化させない防波堤の役割を果たし、「陽気で野生的でありながら、物悲しく、自由ではない」アシュケナジム(東欧系ユダヤ人)の伝統音楽としての、クレズマー音楽の情感世界のうちに惹かれていくヒロインが立ち上げられていく。

そして、内部の情感を的確に表現する生き方を手に入れたことで、ごく普通の健常者が受容するレベルの音を感受し得ない世界に置き去りにされた父の、その屈折的自我との和解を具現していく。



以上の文脈で説明可能な、その内的世界の、危うくも、しかし決して自己を失うことがない自我の固有の軌跡を、本作のヒロインのララは辿ってきたと言っていい。


この固有の軌跡が、見事に括られたラストシーンに繋がったのである。

音大受験に反対する父の愛情独占型のエゴを振り切って、再びベルリンに向かったララの目的は、音大受験を果たすこと。

その日がやってきた。

ララが音大受験の際に選曲したのは、クレズマー音楽。

彼女には、「陽気で野生的でありながら、物悲しく、自由ではない」アシュケナジムの、心に沁み入るような伝統音楽の旋律(注)がフィットするのだ。

愛情の独占が叶わず、娘の音大受験の会場に現れた父。

それを目視して、目配せする娘。

そして、クレズマー音楽の情感世界を、クラリネットで演奏する娘がそこにいた。

受験の演奏が終わって、手話で会話する父と娘。

「今のが、お前の音楽なんだね」と父。
「ええ、私の音楽よ。いつか、分ってくれる?」と娘。
「お前の音楽を聴くのは無理だ。でも、理解できるよう努力するよ。もう、私から離れてしまったのか?」
「生まれた時から、ずっと大好き。パパからはずっと離れないわ」

クレズマー音楽
このラストカットは潔く、余情が残るものだった。


(注)このイスラエルの伝統音楽は、イスラエル国歌として有名な「ハティクヴァ」を聴けば分るように、軍歌系統の強い他国の国歌と比較すると、あまりに物悲しい旋律が心を打つ短調の曲調で、これもクレズマー音楽の情感世界を表現するのだろう。



3  外部世界に架橋する解放感によって相対化した青春の自己運動の眩さ



内部の情感を的確に表現することで、青春は解放感を手に入れる。

外部世界に架橋するこの解放感によって、青春は限りなく自己を相対化し、青春の内側に封じ込めていた鬱積した思いを浄化していくのである。

母の死によって、決定的に孤独感を深めた父との距離感は、理解ある母の介在によって保持されていた、比較的、適正な均衡を一気に崩していくのだ。

適正な均衡を崩された娘の、父に対する不満はストレートに吐露され、愛情独占型の父もまた、占有し切れない娘の感情への苛立ちを吐き出していくのだ。

これは必ずしも、聾唖者の父と、その言語交通をサポートしてきた娘との特殊な親子関係のうちに限定される何かではないだろう。

親子とはそういうものなのだ。

カロリーヌ・リンク監督
それでも、ごく普通のレベルの思春期に収斂し切れない娘の自立への思いは、クラリネットの演奏を通して手に入れる表現世界への自己投入によって、沈黙と孤独の世界に縛られた父との関係を相対化する意味を持ったと言えるだろう。

それが、ラストシーンにおける、手話による父と娘の言語交通の結びのうちに昇華されたのである。

「理解できるよう努力するよ」という父の言葉と、「パパからはずっと離れないわ」という娘の言葉が重なったとき、「ビヨンド・サイレンス」のテーマ性が眩いまでに立ち上げられ、受験の合否はどうであれ、自分の思いを表現し切ったララの笑みで閉じる、心地良いラストカットに結ばれたのである。

「ビヨンド・サイレンス」は、幼少時から、屈折的自我が抱えるトラウマを延長させてきた、父との葛藤と和解を通じて、自立的な青春の困難な壁を突き抜けていく自我の、その自己運動の断片を、感傷に流されることなく淡々と描いた秀逸な人間ドラマだった。

(2011年8月)




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