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2011年12月1日木曜日

インド行きの船('47)       イングマール・ベルイマン


<大いなる旅立ちに向かう身体疾駆の内的必然性>




1  「顔を強張らせて、怖い目」を身体表現する、父と子の歪んだ関係



ベルイマン映像の初期の到達点と言える「不良少女モニカ」(1953年製作)に比較すれば、映像の完成度は必ずしも高くない。

だから、そこから受ける感動もフラットなものでしかなかった。

それでも、ベルイマン映像で繰り返し描かれていく「人間の愛憎」というテーマを、いつものように、限定された登場人物の関係の縺れの中で露わになる、人間の孤独の裸形の様態を容赦なく抉り出していくような筆致は、長編3作目である本作において鮮明になっていた。

物語は簡単である。

身勝手で横暴なサルベージ船の船長である、父の愛人の踊り子と恋愛関係になった息子の激しい相克と、その板挟みとなって懊悩する母の4人の物語を、踊り子との7年後の再会を約束して、長い航海へ旅立った息子の帰還による回想を通して描かれるだけ。

そんな本作で拾いあげられたテーマは、殆ど救いようがない父と子の葛藤であり、その葛藤の中で露わになる人間の「人間の愛憎」と孤独の裸形の様態という、いかにもベルイマン映像らしい人間の実存的根源性を有するものであった。

背中に障害を持つ息子が生まれたことに悩み、充分に愛情を注げない父に対する反発から、既に思春期前期から反抗的な態度を繰り返していく息子。

その息子の名はヨハンネス。

父のアレクサンデル、母のアリスと同様に、沈没船の引き揚げ作業を仕事にする、サルベージ船の仕事で身過ぎ世過ぎを繋いでいた。

その辺りの事情を、アリスはサリーに吐露している。

因みに、サリーとは、夫の愛人であると同時に、息子の恋人になっていく件の踊り子の名である。

「あの子、よく病気したわ。死ねば良いと思った。扱いにくい子で、怒りっぽくなったわ。だから放っておいたら、すぐ家を出て、どこかに隠れて、何日も帰って来なかったわ。帰って来ると、夫はベルトであの子を殴ったの。ひどく傷ついても、あの子は泣いたりしなかったわ。ただ顔を強張らせて、怖い目をしていたの」

父に嫌われる原因になったヨハンネスの障害は、「僕の背中は曲がっている」とサリーに吐露することで、年来のコンプレックスを相対化しようと努めているようにも見えたが、母の言うように、「顔を強張らせて、怖い目」を身体表現する歪んだ関係を実父との間に形成してしまっていたのである。

現代の巨大サルベージ船(イメージ画像・ブログより
青年期に入ったヨハンネスは、父母と共にサルベージの仕事に従事するが、権力的で横暴な父親との関係が円滑に推移する訳がない。

愛人を船に乗せ、息子自分の部屋を貸す父に反発する息子。

「すぐ甲板に戻って、仕事を続けろ。何も言うな。黙れ!」
「僕は、ここから出たいだ。チャンスを取り上げるな!何もかも取り上げてる!死にたいよ・・・」

息子の反発を意に介せず、非難する一方の父親。

「父さんは僕をいじめて楽しんでる」
「アリス、ひどい息子を産んだな。ヤクザだよ」

愛人との共存を強いられた妻に、アレクサンデルの悪意が止めを刺す。

「やめて!」

最も惨めな心境に捕捉されたアリスの叫びが、閉塞的で狭隘な空間を劈(つんざ)いた。

「自分の父親を殴りたいと思ってる。でも結局、殴らんだろうな。なぜだと思う?こいつには度胸がないんだ。腰抜けさ。父親からの仕返しが怖いんだ」
「この野郎、覚えてろ!女たらしのブタめ!」

ここまで愚弄されたヨハンネスは、精一杯の反撃を加えていく。

「自分の父親に向かって、何て口を聞きやがる!いい加減にしろ」
「くたばっちまえ!」

この一言に切れた父は、息子を殴りつけた。

ナイフを握ったまま、部屋を出て行く父を睨むだけのヨハンネスが、そこに置き去りにされたのである。



2  「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」



父と子の歪んだ関係を延長させるだけの激しい相克が、遂に、決定的な対立を生むに至る。

事の発端は、女との三角関係。

港町の劇場の踊り子であるサリーとの関係を知られ、父から殴られたヨハンネスは、思わず、その父に殴り返したのだ。


若者の恋は一気に駆け走り、一気に関数的な鋭角性を描いていく。

サリーと睦み合う関係を露わにしたヨハンネスに、愛人を奪われた父の憤怒を惹起させ、あろうことか、息子の命を絶とうとさえしたのである。

潜水夫に代わって海に潜ったヨハンネスに、あろうことか、命を繋ぐエアーポンプを駆動させていたアレクサンデルの手が止まったのだ。

この一件の後、「父さんは病気だよ」と言われても、攪乱した情動が収まらない父は自殺未遂を起こすに至る。

密かに用意された秘密の部屋に閉じ籠って、絶望を一身に体現したような初老の男は、その部屋の窓から飛び降りたのである。

永久に変わり得ないと思わせるような、父子の相克が行きつくところまで行ったとき、この絶望的な閉塞性を克服するために、若者は旅に出るしかなかった。

それも、若者の自我を深々と覆う、くすみ切った風景を浄化し得るような、未知なる世界への大いなる旅に出るしかなかったのだ。

そして実際、若者は大きな旅に打って出たのである。

思えば、その旅は、失明の危機にあったアレクサンデルが、愛人の踊り子のサリーと共に打って出る冒険行でもあった。

当然の如く、この冒険行は、後遺症を残したアレクサンデルの自殺未遂によって自壊するに至る。

そこもまた、存分に閉塞的な愛憎の世界を相対化するかのように、感傷的なBGMを挿入した暗鬱なる物語は、未知なる世界への息子の大いなる旅を具現させていく。

the World (global) Ocean(イメージ画像・ウイキ)
モノクロで写し取った暗鬱な画面が、広大な大海の、ブルースカイの空を突き抜けるようなイメージのうちに変容していくのである。

そして今や、いずれかの者が物理的に消えない限り、収斂し切れない爛れ切った父と子の歪んだ関係だけが生き残されたのである。

置き去りにされたのが、孤独に悩む踊り子のサリー。

ヨハンネスは、そのサリーを残して、船員としての大いなる旅に打って出たのである。

サリーを捨てたのではない。

自分の帰還を信じて待つことを、世間の印象とは切れた、決してすれっからしではない、純朴な心を持つサリーに求めたのである。

思うに、青春の一人旅の本質は「定着からの一時的な戦略的離脱」であると私は考えるが、ヨハンネスの旅は、このような甘さとは切れて、それは未知なる世界に全てを賭けていくに足る人生の自己投入以外ではないだろう。


そして、その旅から帰還して来たヨハンネスは、サリーとの愛を復元させようと努めるが、彼女の心は深く傷ついていて、殆ど孤独の極みにあった。

心の中で蟠(わだかま)る辛い真情が誰にも理解されず、相変わらず風景の変わらない閉塞的な世界に閉じこもっているばかりだったのだ。

そんな彼女を救わんとするために戻って来た遠い国からの旅人だが、閉塞的な世界に閉じこもる彼女に、その旅人は明言した。

「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ。戦わなければ、障害はどんどん大きくなり、あとは窓から身投げだ」

紛れもなく、若きベルイマンのメッセージである。

ヨハンネス=ベルイマンのメッセージが刻まれた後、その力強いメッセージに誘(いざな)われるようにして、未知なる世界に旅立つ二人。

39歳のときのベルイマン(ウイキ)
未知なる世界に旅立つ二人をイメージさせるカットが、映像の括りとなったのは言うまでもない。



3  大いなる旅立ちに向かう身体疾駆の内的必然性



大いなる旅への希望のイメージで閉じた映像の余韻は、その後のベルイマン映像の、容赦ない愛憎の描写と切れものであったが、それでもベルイマンには、このような物語を映像化せねばならない内的必然性があったのだろう。

それはまるで、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(1987年製作)や、ダニエル・ベルイマン監督の「日曜日のピュ」(1992年製作)で描かれたように、代々の牧師であったが故にか、厳格な父エーリックに育てられたベルイマンの、雄々しき自立への旅立ちを告げるマニフェストだったと言えるものであった。


映像イメージとしては、「ファニーとアレクサンデル」(1982年製作/画像)を彷彿させるような、典型的ブルジョワ家庭で育った母と、自立心が強く、苦労して北欧最古の大学(ウプサラ大学)で、神学を学んで優秀なる牧師になった父との関係に亀裂が入り、その両親の不和を絶えずセンシティブに感受していた幼児期のベルイマンにとって、多くの男の子がそうであるように、母親に対する深い同情心が、悪さをしたら衣装部屋に閉じ込められるというような体罰を辞さない父への反発を必至にし、それが自我の確立運動の中で憎悪に転じていったと思われる。

具体的には、ベルイマンのシュトルム・ウント・ドラングとも言うべき、果敢な青年期に踏み込んでも、演劇の世界に入ることを父に拒まれ、その父が最も嫌ったはずの女性関係の縺(もつ)れなどで、積年の反発感情が炸裂した挙句、直接対決の修羅場を作り出してしまうに至った。

若きベルイマンは、梃子でも信念を変えない頑固一徹な父を殴り倒し、家出を敢行したのである。

その後のベルイマンのシュトルム・ウント・ドラングについては、本来の才能を開花させていく精神疾駆によって語られる通りである。

以上の経緯を見ていく限り、ベルイマンの精神疾駆には、狷介(けんかい)とも思えるような、梃子(てこ)でも信念を変えない厳格な父との、ダイレクトな葛藤と相克なしに生まれなかったとも言えるのである。

ここで重要なのは、父エーリクは厳格であっただけで、ミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン」(2009年製作)の牧師のように、偽善・欺瞞的な人間ではなかったということだ。

まさにその事実こそが、思春期のベルイマンの自我を、出口なしのダブルバインドで捕捉してしまうような、歪んだ自我を作らせなかった決定的な要因であるように思われるのである。

それ故、ベルイマンもまた、本作の主人公のように、横暴な父の暴力に対して殴り返すことで社会的自立を意味するだろう、大いなる旅立ちを可能にしたのである。

ベルイマンにとって、殴り返した後、大いなる旅立ちに向かうという身体疾駆を、「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」という印象的なメッセージで、この映画を括り切る必要があったのだろう。

その意味で本作は、自立に向かった若き映像作家が、通過儀礼の如く、越えなければならない障壁と対峙し、それを克服していく思いが深く滲み出ていた一篇だったと言える。


そんな本作は、台詞の応酬だけで物語をまとめていく、ベルイマン流の物語世界がフル稼働していたが、そこもまた、本来のベルイマン(画像)らしい内面的掘り下げが脆弱な瑕疵が目立ってしまっていた印象を拭えないのである。

しかし、父親との直接対決の修羅場で、殴り返して旅立っていくという映画を作らなければならない内的必然性があるという思いは、ひしと伝わってきた作品だった。

秋のソナタ」(1978年製作)と同様の文脈において、若きベルイマンの内的必然性が、このようなドロドロの相克を描き切る表現に結ばれた映画だったと私は見ている。

(2011年12月)

2010年11月4日木曜日

冬の光('62)       イングマール・ベルイマン


<物語に縋って生きる「職業的牧師」の欺瞞と孤独>



1  「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」


本作の主題は、拠って立つ自我の安寧の基盤である物語に亀裂が入ってもなお、その物語に縋って生きていかねばならない男の欺瞞と孤独である、と私が考えている。

物語とは、キリスト教への深い信仰の念である。

物語の主人公は、スウェーデンの寒村の教会牧師。

その名は、トマス。

5年前に愛妻を病気で亡くしていて、現在は、トマスに献身的愛情を注ぐ小学校の女性教諭のマルタが、彼の身の回りの世話をしている。

然るに、キリスト教への深い信仰という物語に拘泥し、信仰熱心だった肝心のトマス牧師は、今ではすっかり変心してしまっている。

その辺りの事情については、ラストシーン近くでの、トマスを愛するマルタにアドバイスした、オルガン奏者の言葉の中で示唆されていた。

即ち、トマスは亡妻への愛情を介して信仰の世界に入り、その亡妻との関係の中で信仰を繋いできたが、その物語が彼女の死によって形骸化され、本来そこに潜んでいたであろう牧師の、人間としてのドロドロとしたエゴイズムが根を張って、今ではもう、義務だけで信仰の世界と繋がる「職業的牧師」の一人でしかなくなったのだ。

その辺りを、主人公である牧師の亡妻が、生前中に夫に残した手紙から検証してみよう。

「関係は終わったわ。証明されたの。愛の欠けていたことが・・・あなたの信仰を疑うわ。宗教的な苦悩を味わった経験がなかったからよ。あなたの信仰は幼稚に見えたわ。特に不可解だったのは、あなたがキリストに無関心だったことよ」

以上は、亡妻からの手紙の要約である。

「祈り」を信じると自負する夫の牧師が、妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す。

彼は亡妻を愛すると言いながら、彼女を最も苦しめた疾病に対して、全く何の対応もしなかったのだ。

こんな男の振舞いのうちに垣間見えるエゴイズムを糾弾するのは容易だが、果たして、「神のメッセンジャーとしての『職業的牧師』」の欺瞞性を安直に糾弾するに足る資格を、無前提に有する「神に近き者」が何処に存在すると言うのか。

妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す「職業的牧師」が、「愛情欠損の輩」であると断じる態度こそ傲慢過ぎないか。

詰まる所、トマスもまた、「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」でしかなかったのである。



2  「神が宿る」小さなスポットの隅で



トマスは牧師としてのオーソリティをギリギリに保持しながら、その心は、真剣に悩む者たちを救う使命感から乖離してしまっていた。

と言うより、トマスの個人的な信仰の能力では、対応できない課題が加速的に増幅されていく事態のリアリティこそ深刻なのだろう。

そのことを象徴するシークエンスがあった。

それは、ファーストシーンでのミサの後、風邪気味のトマスが、信仰熱心なペショーン夫人から相談を受けたことに端を発するもの。

ペショーン夫人は、夫の漁師のヨナスの「心の病」についての相談を、トマス牧師に持ちかけたのである。

「新聞で中国の記事を読み、中国人は憎悪が強いので、核を持つのは時間の問題であり、彼らは失うものはないと言って、夫は毎日塞いでいるんです」

このとき、ヨナスがトマスを凝視した。

しかし、ヨナスの視線を受容できないトマス。

「生きねば・・・」

トマスには、そんな反応しかできなった。

「なぜ、生きる?」

ヨナスは、すかさず反駁した。

答えに窮するトマス。

そこに一瞬、「間」が生まれた。

「牧師さんは病気だ。話は無理でしょう」


そう言って、もう口を開くことのないヨナス。

見透かしているのだ。

数十分後、ペショーン夫人の懇望で教会に戻って来たヨナスは、もう会話を開く気分に乗れなかった。

中国の核の脅威に怯えるヨナスを前に、トマス牧師は暗鬱な表情を湛(たた)えながら、自己の過去の誤謬や懊悩を吐露するが、「汎人類的テーマ」を内化する男が抱える、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に接続する努力が叶う訳がなかったのだ。

「私は牧師として失格だ。自分だけの神を信じた」

トマスは自嘲し、「汎人類的テーマ」を内化したことで怯える相手との関係を、何とか「職業的牧師」の範疇のうちに保持しようとするが、彼自身、「世界救済」に対する問題意識など初めから持ち得ないのだ。

「堕落した牧師」を強調する相手の心を見透かした漁師は、「帰ります」と一言残して、去って行った。

結局、ヨナスへの「救済」に頓挫したトマスは、その直後、「汎人類的テーマ」を内化する男を猟銃自殺させてしまったのである。

無論、トマスの責任ではない。

「世界救済」に対する問題意識を持ち得ない彼に、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に呪縛されるトマスの、底が見えない「心の病」にコネクトする能力を求める方が筋違いだったのだ。

「神は存在しなくてもいいんだ。人生は説明がつく」

これは、トマス牧師がヨナスに添えた力なき言葉だが、紛れもなく彼の本音である。

より複雑化している現代社会に惹起する困難な問題に対して、もはや信仰によって解決可能なテーマは限定的でしかないのだろう。

「神よ。なぜ、私を見捨てる・・・」

このトマス牧師の独り言が、「神が宿る」小さなスポットの隅に捨てられていた。



3  「イエスの孤独の叫び」 ―― 「神の沈黙」の極点



「どうか私を棄てないで」

これは、トマスを真剣に愛する小学校教諭のマルタの訴え。


その愛を受容できない牧師。

トマスは今、最も残酷な言葉をマルタに吐露する。

「結婚しないのは、牧師の体面のためだ。しかし正直に言うと、君を求めていないんだ」

牧師とは言え、自分の愛を求める他者を、全人格的に愛する能力を持ち得ない。

当然過ぎることだ。

牧師は「神のメッセンジャー」である前に、一個の人間である以外にない、そんな存在を生きる何者かなのだ。

「愚かな日常から脱出したい。飽きたんだ。君の全てに。君に言わなかったのは、思いやりだ。大事に扱うべき生き物だ。妻が死んで、全く人生に関心がなくなった」

そこまで吐露する男を諦め切れない女は、ペショーン夫人に夫の自殺を報告するためのトマスの外出に随伴し、その帰りにフロストネス教会に立ち寄った。

そこで用務員をしている、脊柱側湾症(せむし)という疾病を持つ男の相談を受けるためでもあった。

脊柱側湾症の男の相談の内実は、本篇での由々しき問題提起とも言えるものだった。

「キリストが受難で肉体的に苦しんだとは思えないのです。主の苦痛は短い。4時間ほどでしょう。キリストが味わったのは、寧ろ心の苦しみです。ゲッセマネの園で、弟子は眠ってしまった。連中は最後の晩餐の意味すら分っていないのです。兵士が来ると弟子は逃げ、主を拒みました。キリストは3年も弟子と暮らし、教えを続けたのに、弟子はまるで理解せず、主を捨てたのです。主は一人きりに。誰も主の苦しみを理解しませんでした。見捨ててしまったのです。大きな苦しみです。それだけじゃない。主は十字架に架けられ、苦しみのあまり叫びました。“我が神、なぜ、私を見捨てるのですか”(注)。大声で、そう叫んだ。父に見捨てられたと思い、教えを疑ったのです。死ぬ直前に恐ろしい疑いを抱きました。それが最大の苦しみでしょう。神の沈黙という苦しみ・・・」

この言葉に、トマスは静かに同意した。

因みに、私自身、この解釈を支持する者であるが故に、本作で最も印象深いシークエンスとなっている。

「イエスの孤独の叫び」こそ、「神の沈黙」という名の、由々しき問題の根柢に横臥(おうが)していると把握するからである。

神は沈黙しているのではない。

存在していないのだ、という把握である。


「イエスの孤独の叫び」こそ、「神の非在」に震えるイエスの孤独の極点であった。(画像は、『ゴルゴファ(ゴルゴタの丘)の夕べ』ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンによるハリストス(キリスト)の埋葬準備の光景)

私はそう考えている。


(注)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というヘブライ語のことで、イエスが処刑される際に叫んだ言葉として有名。「旧約聖書詩篇」や、「「新約聖書」の中の、「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」が出典となっている。



4  欺瞞的牧師の変りなさが検証された円環的構成



イエスの生身の人格に宿る苦悩に肉薄しないトマスの欺瞞こそ、ベルイマンが指弾したい何かであったと思われる。

同時に、トマスの孤独は、欺瞞を認知する自己の存在性への疑問に由来すると言えるだろう。

その意味で言えば、「イエスの孤独の叫び」に収斂される問題は、脊柱側湾症の男の問いに肯くトマスの懊悩に重なるものではないだろう。

本作の主人公の牧師に対するベルイマンの視線には、相当程度厳しいものがあるからだ。

それは恐らく、ビレ・アウグスト監督の「愛の風景」(1992年製作)や、ダニエル・ベルイマン監督(ベルイマンの息子)の「日曜日のピュ」(1994年製作)の中でシビアに描かれていたように、ベルイマンの父であるエーリックと重なるものがある。


牧師=エーリックではないが、ベルイマン(画像)にとって一貫して、思想的にも、その生き方においても対立してきた、彼の父の拠って立つ精神世界への深い疑義が、本作に投影されていると見ることが可能である。

なぜなら、この直後の映像に、閑散としたフロストネス教会のオルガン奏者による厳しい指摘があるのだ。

それは、マルタに放たれたものだった。

「彼は亡妻が目当てだった。彼女だけしか目に入らなくなった。彼はこう言った。
“神は愛、愛は神だ。愛は神が存在する証である。愛は人間世界の現実だ”くだらん。もう聞き飽きたよ。村を出ろ」

トマスの信仰の根柢を撃ち砕くオルガン奏者の指摘は、本作の主人公の牧師に対する痛罵と言っていい。

それは、「アドバイス」の範疇を逸脱する悪意に満ちていたのである。

そして、極め付けのラストシーン。

ミサの参会者がいない閑散としたフロストネス教会で、淡々とセレモニーを続けるトマス。

ファーストシーンとラストシーンが繋がったのだ。

ファーストシーンとラストシーンの円環的構成によって、この欺瞞的牧師の変りなさが検証されたのである。


本稿の最後に、私個人の宗教観について一言。

私は無神論者だが、宗教否定論者ではない。

高度に発達した現代文明にあっても、当然の如く、様々に解決困難な非合理的な問題だけは常に存在するだろう。それらの厄介な問題に直面した人々の不安を吸収する「文化装置」の一つとして、宗教は切に求められ、人々の不安が集合する空間である「教会」が求められるのは、殆ど必然的である。

いつの時代でも、私たちは宗教の存在価値を否定する程に傲慢である訳がないのだ。

自我によってしか生きられない、私たち人間の「不完全性」と「脆弱性」を認知するが故に、その欠如を補完する「文化装置」が求められるのは当然なのである。

(2010年11月)

2010年7月10日土曜日

秋のソナタ('78)   イングマール・ベルイマン


<母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇>



1  炸裂する母娘の愛憎劇の極相を炙り出して①



「私は日々、生きる術を練習している。問題は自分が何者か分らないことだ。答えは見えない。誰かが、ありのままの私を愛してくれたら分るかも。でも、今の私にはそんな希望はない」

これは、牧師である夫のヴィクトールが、映像の冒頭で、苦労して記者になった妻のエヴァの、その処女作の一文を読み上げたシーン。

「いつか彼女に告げたい。ありのままの君を心から愛していると。だが、上手い言い方が見つからない。言葉にならないのだ」

これは、カメラに向かって語る牧師自身の思い。

そのエヴァが夫の許可を取って、国際的に著名なピアニストである母のシャルロッテに手紙を書いた。

7年ぶりに会いたいという内容だ。

13年連れ添ったレオナルドの逝去の報を知って、母を慰めたいというのが、その理由。

快諾する夫。

そして、母シャルロッテが牧師館にやって来た。

ヴィクトールとエヴァが静かに暮らす牧師館は、ノルウェー北部にある、風光明媚な平和な村にあった。

牧師館に到着早々、シャルロッテは、痛みで苦しむ中で死んでいったレオナルドの壮絶な最期の様子を、涙ながらに娘に語った。

「私、変わったと思う?」

話疲れたのか、母の声のトーンは一転する。

「昔のままよ」

エヴァ(左)とシャルロッテ
遠慮げに、娘は答えた。

笑顔を振り撒く母に、娘は身構えながら言った。

「ママ、話があるの」
「え?」
「ヘレーナがいるの」

母の表情が、途端に変容した。

「不意打ちね」
「そう手紙に書いたら、来ないでしょ?」
「来るわよ」
「いいえ、来ない」
「レオナルドが死んだ上に、ヘレーナと対面だなんて」
「2年前に引き取ったの。ヴィクトールと相談して決めたのよ。手紙に書いたでしょ」
「知らないわ」
「読まずに捨てた?」
「何てこと言うの?」
「ごめんなさい」
「今日は会う気になれない」
「ママ、ヘレーナはとてもいい子よ」
「ママに会いたがっている」
「なぜ、療養所から引き取ったの?」
「一緒にいてやりたいの」
「その方が良いと?」
「ええ。私が世話できる」
「あの子の病気、昔よりもずっと進んでいるの?」
「ええ。そういう病気だもの」
「案内して」
「いいの?」
「仕方ないわ。自分勝手な人間には参るわ」
「私のこと?」
「早く参りましょう」

母はそう言って、嫌なことを早く片付けたい思いで隣室に入って行く。

この母に、脳性麻痺を病む実妹のヘレーナに会わせることが、エヴァの目的だったのだ。

聞き取りにくいヘレーナの言葉を、エヴァの説明つきで、形式的な母娘の会話が成立するが、部屋で一人だけになったとき、堪えていた母の不満が小さく噴き上がった。

それでもシャルロッテは、脳性麻痺の娘と会ったときの複雑な感情に捉われていく。

「恥をかかせるために、私を呼んだのよ。負い目を持たせるために。・・・でも、泣いてはダメ。あの子の大きな瞳。両手で顔を挟んだとき、喉の引きつれが見えた。何てこと!昔は抱き上げて、ベッドへ運んでやったのに…あの柔らかい弱々しい体。あれが私の娘?泣いてはダメ・・・こんなの沢山」

一方、エヴァは夫に満足げに報告する。

「母はショックを隠して、笑顔を作ってたわ。非の打ちどころのない演技だった」

そして、夕食の場に現れた母は、「きっと喪服を着て来るわ。演技で」というエヴァの予想を裏切って、赤いドレスで颯爽と姿を見せたのである。

それもまた、エヴァの感情を見越して、逆手に取ったもの。

夕食後のシャルロッテは、「不安に怯える母」というイメージを発信するのを回避するかのように、敢えて饒舌に振舞っていた。

そんな母に、エヴァはピアノを弾いてみせた。

ショパンのプレリュード(前奏曲)を、たどたどしく弾く。

緊張感を隠し切れなかった。

「良かったわ」
「ホントに?」
「あなたがね」
「どういう意味?」
「折角だから、何か別の曲を」
「批評を聞きたいの」
「悪くなかったわ」
「ママの解釈を教えてよ」
「それほど言うなら。技術的にはまあまあだけど、曲想の話だけをしましょう。情感と感傷は違うわ。冷静かつ明瞭に表現しなくては」

そこに、ピアノの本格的な教授が開かれた。

目八分に見る態度こそ露骨に示さなかったが、結局、母は娘のピアノの技巧を否定したいのである。

彼女は自らピアノを弾き、模範を見せた。

得意げにプロの腕前を見せる母に、劣等感を感じる娘は距離感を覚えるだけだった。

「分ったわ」
「怒ってるのね」
「怒ってなんかいない。昔はママを尊敬したけど、うんざりした時期も少しあった。今は別の意味で尊敬している」

打ちのめされて、萎縮する娘がそこにいた。

その直後の映像は、散歩を勧める母を、4歳の愛児エーリックを喪ったエヴァが、その愛児の部屋で過去の辛い思いを語るシーン

劣等感を抱かされた娘が、母に対して明らかに心理戦争を挑んでいるのだ。

「人間は素晴らしい生き物。想像を超えた存在よ。人間の中にあらゆるものがある。悪人、聖者、預言者、芸術家、偶像破壊者、一人の中にその全てがある。現実は一つではないのよ。無数の現実が重なり合って、お互いを取り巻いているの。境界はない。思考にも、感情にも。恐れが境界を作るだけ」

それは、自分の劣等感を相対化し、境界を作って生きる母に対する存分のアイロニーだったが、その後のヴィクトールの言葉によって、それが愛児を喪ったエヴァの複雑な感情を表現したものであることが判然とする。

このとき、母が無言だったのは、噴き上がりつつある感情を封印するためだったのか。

死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、ヴィクトールはシャルロッテに語りかける。

「プロポーズしたとき、彼女は“あなたを愛してない”と。恋人がいるのか?と聞くと、“誰も愛したことはない。愛し方を知らない”と。そして数年が過ぎた頃、エーリックが生まれた。私たちは子供を諦め、養子を考えていました。だが、エヴァは別人のように変った。前よりも陽気に優しく、活発になった。だが、急に何もかも変った。エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」

エヴァは、エーリックの死を受容してないのである。

そう言っているのだ。



2  炸裂する母娘の愛憎劇の極相を炙り出して②



その晩、就寝中にうなされて、ベッドから起きてきた母に気付いたエヴァは、共に寝衣のまま会話を繋ぐが、その話題の発端も二人の不和の原因となった母の駆け落ちだった。

「私が憎いのね」
「分らない。なぜかママをここへ呼んで、会おうと思い付いた。もう、昔のことは水に流せると思ってた。ヘレーナの病気のことも。でも、まだダメみたい」

ヘレーナの叫びに呼応するように、エヴァは妹の部屋に駆けつけた。

妹の手を握り、眠りの世界に戻してあげたのだ。

「ママにとって、私は都合のいいお人形。手に負えないときはメードに任せっきり。ママの練習の邪魔をするのは厳禁だった。ピアノの音が止むと、そっと中へ入った。ママは優しかったけど、いつも上の空。気に入られたかった。私は醜い娘。足は大き過ぎ、泣きたいほど不格好だった。ママは言ったわ。“男の子なら良かったのに”そして優しく笑った。傷ついたわよ。そのうち突然、スーツケースが用意され、ママは外国の言葉を誰かと電話。ママは私に近づいて、体に腕を廻し、キスして抱き締めにっこり笑った。心はもう遠くにあり、眼は私を見ていなかった。そして去った。悲しかったわ。死んでしまうかと。パパの膝で泣いたわ。そして日が過ぎた。二人で孤独に耐えた」

酔った勢いで、内側で溜まっていた母に対する不満を、娘は吐き出した。

「留守にしても責め、家にいても責める。私だって、あの頃は苦しんでいたのよ。背中を痛めて練習できず、仕事はキャンセル続き。人生に絶望していた。家族と離れ離れの生活にも罪悪感が・・・」

母の弁明を拒絶し、エヴァは感情を噴き上げた。

「愛し合う親子だと思い込んでいたから、ママへの憎しみは歪んだ形で現れたわ。悪夢にうなされ、爪を噛み、髪を引き抜いた。泣き喚きたくても、声を出せなかった!叫び声すら上げられない!恐ろしかったわ!正気を失うかと思った」

殆ど絶叫だった。

その二人の話を、扉の向こうで夫が聞いていた。

「産みたかったのに、ママが引き裂いた。一度でも他人を思いやった事がある?」
「中絶が嫌なら、なぜ承知したの?」

母も絶叫していた。

「不安だったのよ!ママに支えて欲しかった!」
「努力したわ!だからこそ、中絶を勧めたのよ!今まで、恨みつらみを隠していたのね!なぜなの?」
「話したって、ママは逃げるだけ。感情が欠けているわ。私とヘレーナを嫌っている。自分のことしか眼中にない、心の狭い人間。いくら愛しても、ダメな子としか思ってくれなかった。自分が傷ついた腹いせに、私を傷つけた。弱い部分を全て痛めつけ、命あるものを全て殺した・・・私だけじゃない・・・ママは自分を愛さない者を絶対に許さず、私に愛を強制した。自分の愛情を口実にして、“あなたとパパとヘレーナを愛してる”と。そして愛を演技して見せる。ママのような人間は害よ。閉じ込めておくべきなのよ」

ここまで言われて、シャルロッテは表情を歪めて、両手で顔面を覆った。

「娘と母。恐ろしい関係だわ。互いにいがみ合い、憎み合って、傷つけ合う。全てが愛を理由に為される。母の傷は娘に受け継がれる。母の失望を償うのは娘。母の不幸は娘の不幸になる。ママ、教えて。娘の不幸は母の喜びになるの?」

シャルロッテは黙しているのみ。

ヘレーナの叫びが劈(つんざ)いた。

暫く時間が経って、母が口を開いた。

「私は愛情を知らない。優しさも触れ合いもぬくもりも、何一つ。気持ちを表現する手段は音楽だけだった。時々、思うのよ。自分は本当に生きているのか。生きるのは特別な才能が必要なのか。才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?そう思うと、怖いわ。自分自身の姿が恐ろしく見えるの。顔と体は年老いたわ。でも本当は、生まれてもいない。姿が見えない。あなたやヘレーナや、レオナルドの姿も。二人を産んだことは覚えているわ。ひどい痛みだったことも覚えている。でも、どんな痛みだったか思い出せない。レオナルドが言った。“現実感を持つことは一つの才能だ。多くの者は才能がない。その方が幸せだ”・・・あなたを恐れていた」
「私を?」
「本当は労わって欲しかった」
「私は子供よ?」
「娘の愛を知り、私も愛したかった。でも、あなたの要求が怖かった」
「要求なんて・・・」
「されていると思ったのよ。“母親らしさを求めないで。弱い人間よ”と言いたかった」
「本当なの?」

涙ながらの母親の静かな吐露が、そこに繋がった。

ヘレーナが自分のベッドから這い出して来た。

母に対する娘の心理的復讐劇がピークアウトに達したとき、疲弊し切った母は、娘に赦しを乞うたのである。-

「ママ」と叫ぶヘレーナ。

床を這っている。

その夜の、鋭角的に母娘が尖り切った時間が、こうして閉じていった。



3  終章 ―― 母娘の愛憎劇の後で



牧師館を後にして、列車内でのシャルロッテの言葉。

「ポール。一緒に来てくれ助かったわ。ちょっとショックでね。娘のヘレーナがいたの。前より悪くなっていた。死ねばいいのに。私、冷たいと思う?」

そんな母の思惑とは無縁に、エヴァは散歩の中で瞑想していた。

「可哀想なママ。逃げるように帰って行った。おどおどして急に老けこんだようで。頬はこけ、泣き過ぎて鼻は真っ赤だった。もう会うこともない。じきに日が落ち、寒くなる。夫と妹に夕食を作らないと。今は死ねない。命を断つのは怖い。いつか神の恵みがあって。呪縛が解かれるかも・・・」

散歩に出ているエヴァの代りに、ヘレーナはヴィクトールに叫びを結んだ。

「“愛してる”って、悲しそうな顔をして泣いていた。再会を楽しみにしてたのに。あまり期待するなと言っておくべきだった」

その後、ヘレーナは何かを訴えていたが、それが何であるか、ヴィクトールには特定できなかった。

少なくとも、ここで言語化されたヘレーナの訴えを見る限り、彼女もまた、姉の心情が痛いほど理解できているのだ。

そして何より、姉が憎悪する母の心情もまた殆ど把握できていたのである。

「シャルロッテが帰ってから、エヴァは打ちひしがれている。眠れないようだ。母に冷たく当たった自分が、どうしても許せないと・・・」

これは、ヴィクトールのナレーション。

そんなエヴァが書いた、母への手紙。

「私、ひどいことをしたわ。闇雲にママを責めて。昔の恨みで苦しめてしまった。私が悪かったの。どうか、許して。これを読んでくれるかどうかわかりません。もう、手遅れかも。でも今は、今頃になってようやく気付いたの。許しは存在すると。相手を思いやるのは不可能ではないと。互いに支え合い、労わり合えると。二度とママを失いたくない。たとえ手遅れでも、諦めないわ。私は信じているの。まだ、間に合うと」



4  母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇 ―― まとめとして①



母娘の愛憎劇を、その裸形の様相を極限まで描き切った演劇的な室内劇は、或る意味で、母に対する娘の心理的復讐劇であると見ることができる。

この復讐劇の象徴的人格像、それは一人の障害者である。

その名は、ヘレーナ。

一歳のときに母に捨てられ、思春期までに脳性麻痺を発病し、それを悪化させたが故に療養所送りになった娘である。

このヘレーナを、エヴァは施設から牧師館に引き取り、手厚い看護を継続させていた。

そのエヴァは、母のシャルロッテを牧師館に招いたのである。

事情を知らないシャルロッテが牧師館を訪れ、エヴァの案内でヘレーナと対面させられたとき、思わず呟いた。

「不意打ちね」

この言葉に包含されたネガティブな感情は、本作を貫流させる意味を持つと言っていい。

エヴァが母を呼んだのは、ヘレーナと対面させるためであった。

対面させることで、かつて自分たち姉妹を捨てて駆け落ちした母の反道徳的行為を指弾し、追い詰めたいのである。

母が捨てたものの現実のスティグマを象徴する、その人格像を当人の前に晒すことで、7年間も会うことをしなかった母に罪責感を負わせ、娘は決定的な心理的復讐を自己完結したかったのではないか。

そう思えるのだ。

過去からなお延長させている現実のスティグマを、有無を言わさず、エヴァは母に負荷させたいのだ。

その現実を見ることを拒みながらも、「愛を演技して見せる」(エヴァの言葉)母は平静さを装って見せた。

しかし、心理的復讐劇のピークアウトは、その夜にやって来た。

罵り合い、怒号が飛び、泣き叫び、へとへとになって、もうそれ以上何も言うことがないという辺りに辿り着いてもなお、娘は枯渇し切れない感情の残滓を、今度はくぐもった声で結んでいく。

最後は、母が嗚咽の中で謝罪し、赦しを乞うた。

「私の間違いを許して。やり直したい。どうすればいいか、教えて頂戴。もう、耐えられない。その憎しみに」

心身ともに疲弊し切った母は、まもなく知人の助けを借り、母娘の愛憎劇の極相を炙り出した牧師館を後にした。

その愛憎劇の中枢に竦む母を謝罪させたことで、封印していた内側の感情を相対的に濾過できた娘は、最後に、母に謝罪含みの手紙を書いた。

帰路の列車の中から、自分が訪れた長閑な風景を見遣りつつ、ほんの少し前に謝罪を結んだ母が、「愛憎劇の館」から自分を「救出」してくれた知人の前で、ヘレーナに向けたその一言を洩らしたのだ。

「死ねばいいのに」

凄い表現である。

イングマール・ベルイマン監督
しかし、ベルイマンの映像の凄みは、30代後半に、老教授の心象風景を描き切った「野いちご」(1957年製作)がそうであるように、常にこんな尖り切った表現に心理学的な説得力を与えてしまうのだ。

本作でもまた、人間の変わりにくさを抉り出した、その心象風景の凄惨なイメージは、母娘の愛憎劇が容易に軟着陸できないシビアな現実を検証したものになった。

そんな自己中心的な母でも、娘からの謝罪の手紙を読むラストカットでは、涙交じりに裸形の感情を身体化するのだ。

この振舞いは、この女の徹底したエゴイズムの発現であると見ることも可能だが、しかし、一人の人間の内側に、相手の誠実な対応に対して、率直に同化し得る人間性が同居していることの証左であるとも言える。

エゴイズムと感傷や同情、罪責感による自己嫌悪などの感情が、一個の人格の中で棲み分けることができるのだ。

それが、人間であるということだ。

母の涙は決して〈状況〉合わせの演技ではなかったし、それを指弾する娘の憤怒も、決して計画的な心的現象の逢着点であると決め付けられないのである。

濁った感情が噴き上げて、炸裂したときに形成される〈状況〉の中では、予想外のことが往々にして起こり得ると同時に、想像ラインの正反対の現象も出来し得るのだ。

この夜、母娘の愛憎劇のピークアウトの中で作られた〈状況〉もまた、そのイメージに近い何かだったかも知れない。

〈状況〉から一歩引いて客観視すれば、シャルロッテもまた、懊悩を抱える生身の人間だった。

「私は愛情を知らない。優しさも触れ合いもぬくもりも、何一つ。気持ちを表現する手段は音楽だけだった」

「私だって、あの頃は苦しんでいたのよ。背中を痛めて練習できず、仕事はキャンセル続き。人生に絶望していた」

これは、エヴァに吐露したシャルロッテの当時の胸の澱だが、強(あなが)ち嘘ではないだろう。

牧師の妻となったエヴァにも、母の懊悩が理解できない訳がない。

しかし、エヴァの懊悩の深さが、そんな母への包容力ある対応を一貫して拒絶してしまうのである。

次稿では、その辺りに言及してみよう。



5  母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇 ―― まとめとして②



元より、この復讐劇の起動点となったエヴァの喪失感。

これが、本作のドロドロの愛憎劇を最後まで支配し切っていた。

彼女は二重の意味で、深いトラウマを負っていたのである。

最も愛情を求め、それを受容する権利があることを実感し得る、思春期という難しい時期に、彼女は母から捨てられたのである。

自我のルーツである母から捨てられた子供は、「母から捨てられるしかない価値のない娘」という自己像を結んでしまうのだ。

この自己像が、芸術家である母との対比による劣等感を決定的に植え付けられ、いつしか、「生きていく価値のない子供」というネガティブな自己像を肥大させ、人生に対するポジティブな関わりを回避していく狭隘な生き方を内的に要請してしまうのである。

そして、もう一つの喪失感。

それは、ようやく安定した家庭を築けたと信じられる只中で、愛児を喪ってしまった由々しき現実。

最も可愛い盛りの4歳のエーリックを喪ってからのエヴァの人生は、PTSDに捕縛される者に、得てして多い「感覚鈍磨」の感情傾向を際立たせていった。

「エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」

これは、死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、エヴァの夫のヴィクトールがシャルロッテに語った妻の心的風景である。

エヴァの感情傾向を決定付けた、この「感覚鈍磨」の本質は、「もう、これ以上喪失感を味わいたくない」という自我防衛機構が作動したものである。

自らの感覚を鈍磨させる戦略によってしか、彼女は人生を繋げなくなってしまったのだ。

しかし、そんなエヴァが、どうしても感覚を鈍磨させることができないものがあった。

母に対する憎悪である。

「アンビバレント」という言葉が示すように、切望しても手に入れられなかった愛情は憎悪に変わりやすいのだ。

言葉を換えれば、エヴァは、憎悪に変換した感情のエネルギーを保持し得ていたのである。

この感情のエネルギーだけでも、人間は生きていけるのだ。

何より、彼女はこの二つの喪失感の原因を母に還元させていた。

だから、彼女は母に対する心理的復讐を遂行する必要があったのだろう。

少なくとも、それなしに済まない固定化されたモチベーションが、彼女の内側を不必要なまでに支配していたのである。

「自分の人生の全てを奪った母」という憎悪の物語によってギリギリに生き、それを自己完結することで、自分の過重な精神的リスクを少しでも払拭したかったのだ。

ヘレーナの存在は、エヴァにとって、エーリックという愛情対象を喪失した代替人格であったと言っていい。

そして、それ以上に、母娘の憎悪劇の象徴的存在として、彼女の中で特定的に位置付けられた人格像であった。

ヘレーナが生きている限り、母への憎悪は希釈化されないのだ。

なぜなら、ヘレーナの病状悪化の原因もまた、母にあるとエヴァは確信しているからだ。

シャルロッテがレオナルドを伴って娘たと会ったとき、ヘレーナはレオナルドに恋をした。

そこで母だけが仕事に出かけて行き、レオナルドを失望させた。

その思いを態度に表したことで、ヘレーナの病状を悪化させた、とエヴァは母に説明したのである。

以下、彼女の言葉。

「駆け落ちしたとき、ヘレーナは、まだ一歳。病状が悪化すると、療養所送り」

遂にエヴァは、ここまで母への憎悪を言語化したのだ。

「自分が傷ついた腹いせに、私を傷つけた。弱い部分を全て痛めつけ、命あるものを全て殺した・・・私だけじゃない・・・ママは自分を愛さない者を絶対に許さず、私に愛を強制した。自分の愛情を口実にして、“あなたとパパとヘレーナを愛してる”と。そして愛を演技して見せる。ママのような人間は害よ。閉じ込めておくべきなのよ」

返す返すも、凄い表現である。

然るに、自我の中枢の一画を空洞化させたエヴァの、「感覚鈍磨」と「憎悪に変換した感情エネルギー」の保持を並存する自我防衛戦略は、危うさに充ちていると言えるだろう。

母への炸裂によって、一時(いっとき)、憎悪感情が希釈化されたものの、どこまでもヘレーナが生きている限り、母への憎悪は氷解されないのだ。

ヘレーナの存在は、愛情対象の喪失の代替人格であると同時に、母娘の憎悪劇の象徴的存在なのである。

と言うより、エヴァの憎悪が結晶した人格像こそヘレーナであると言っていい。

ヘレーナとは、エヴァの内面の闇を投影した、ネガティブな象徴的人格像なのだ。

ヘレーナへの献身的な介護を通して、エヴァは自己を見つめ、封印し得ない過去を想起することで、反転して母への「憎悪に変換した感情エネルギー」を再生産させてしまうのである。

だから簡単に、エヴァの全人格的な復元と再生は予約されないのである。

ベルイマンは、そういう映像を構築してしまったのだ。

いつもながら凄い映像だった。

殆ど心理学の世界だった。

人間の愛憎の極相を精緻に抉り出し、それを二人の登場人物の会話のみで描き切ったベルイマンの映像は、ここでも、殆ど彼なしには創造し得ない芸術作品の域にまで高め上げていったのである。

(2010年7月)

2010年6月23日水曜日

サラバンド('03)      イングマール・ベルイマン


<圧倒的な女の包括力と強靭さ ―― ベルイマンの女性賛歌の最終的メッセージ>



序  肉塊の襞をも裂く人間の孤独の極相を抉り出して



ハイビジョンデジタルビデオカメラ(HDカメラ)の技術を駆使して抉り出された世界は、体性感覚の微細な揺らぎの見えない刺激まで捕捉して、自我の支配域をファジーにした、人間の愛憎の闇の深い辺りで迷妄する肉塊の襞をも存分に裂いてしまうのだ。

85歳のベルイマンが、20年ぶりに撮り上げた本作の凄みは、テーマに関わらない一切の装飾を剥ぎ取って、ひたすら人間の孤独の極相を、これ以上入り込めない心の奥にまで潜り込んで、ベルイマン特有の冷徹な眼差しの内に描き出したところにある。

圧倒されて、震え慄く程だった。

もうベルイマンの新しい映像と出会えないと思うと、観初めて10分も経たないうちに、そこで捨てられた遣る瀬ない気分の揺曳の中で、乾燥し切った被膜の頬を、液状の細いラインがうっすらと濡らしていた。

「サラバンド」―― 全10章から成る、この最後にして、或いは、最高の作品になるやも知れない映像には、追い詰められた男たちの孤独を小さく包み込む、優しい眼差しも投げ入れられていた。

そこだけはベルイマンらしくない、「大いなる調和」への、それ以外にない渇望の疼きだったのか。



1  マリアンの訪問



プロローグ。「写真を見せるマリアン」


広いテーブルの上に山積みになった写真を見せながら、カメラ目線で語りかける一人の女。

マリアンである。


「ヨハンは老年に入り、富豪になった。莫大な遺産を受け取ったから。経済的に余裕のできたヨハンは大学の仕事を辞め、祖父母の持ち物だった森の中の別荘を買い取った。ヨハンとは、ずっと疎遠だった。私たちの二人の娘は、遠くで暮らしている。マッタは療養所。独りで病気の世界に沈み込んでいるわ。私が行っても、母親だと分らない。サーラは結婚している。夫は優秀な弁護士で、オーストラリアへ移住した。子供はいない・・・私は今も現役の弁護士よ。でも自分のペースを守って、家族の揉め事や離婚を扱っている。ずっと考えていたの。ヨハンを訪ねようと・・・」


第一章。「マリアン計画を実行に移す」


「私は断ったんだ。今も同じだ。君とは会いたくない。なのに押しかけて来た。理由を聞こう」
「それは、言えないわ」

ヨハンとマリアンの30年ぶりの会話が、こうして開かれていく。

マリアンは、近くの小屋に住むヘンリックとカーリンのことを聞いていく。

「ヘンリックは妻の死に耐えられず、早期退職したんだ」
「父親似ね」
「とんでもない。私がくだらん伝統主義と揉めたことは確かだが、ミシガン大の名誉博士号を授与されて収まった」
「それで、ヘンリックは?」
「ウプサラ室内管弦楽団で、責任者をやっている。だが、じきに止めるだろう」
「カーリンは?」
「あの子ももチェロ好きで、この秋、音楽大学を受験する。父親が教えているよ。来る日も来る日も、小屋で二人で練習している」
「あなたは?」
「孤独な隠居生活が、時に地獄に思える・・・過去を充分に振り返り、整理もつけた」
「楽しくなさそう」
「そりゃ、つまらんよ」
「どんな人生だったという結論なの?」
「クズみたいな人生だった。全く無意味で、くだらない一生だ」

ヨハンとマリアン
息子を嫌い、自らの隠遁生活をネガティブに語る、ヨハンの毒気含みの言葉が、元妻の前で捨てられていった。


第2章。「およそ、1週間後」


ヨハンの留守に、孫娘のカーリンが訪ねて来た。

マリアンがカーリンを迎えたのである。

カーリンは、父親ヘンリックからチェロの個人指導を受けているが、そこでストックされたストレスをマリアンに吐き出していく。

「私はパパに言った。“これはレッスンじゃない。拷問だ”パパは怒っているくせに笑って、“最初からやろう”って。ミスをしたら、わざと失敗したと責められた。だから私は言ったの。“仕方ないでしょ。パパは教師の才能がない”。その時のパパは、世界一寛容で、敏感な先生で、こう返したわ。“教える側に責任はない。意欲と練習の問題だ。お前は怠けるからだ”私は立ち上り、震える手でチェロを置いたわ・・・パパは青ざめた。そんなの初めて。そして言ったの。“家から出さん”。私は構わず靴を履き、扉へ向かったわ。するといきなり、肩を掴まれた。“出て行くのは許さん。絶対に出さないぞ!”」

森の中を彷徨するカーリンを、映像は映し出した。

「でも、分ったの。パパがいなければ、私は何もできないということを。もう一つ、分った。ママは死んでしまった。もう何も聞けないの。自分が哀れで、また泣き叫んだわ」

カーリンの話を真摯に聞いていたマリアンは、父親ヘンリックの自殺の不安を指摘した。

「なぜ私は、ママのように愛されないの?ママは死の床で、私に“愛してるわ”と言ったの」

カーリンの訴えに、マリアンは結婚に失敗した自分の経験について語った。

「何度も浮気されたけど、世間知らずで疑うことをせず、純粋な愛情を持っていた。ヨハンっていう人は可哀想なのよ」

マリアンは、カーリンの祖父に当たるヨハンとの関係を涙交じりに話し、カーリンのストレスを吸収し、相対化しようとするのだ。

こうして、年齢の離れた二人の女の距離は一気に縮まっていった。



2  父と娘、そして父と息子



第3章。「アンナについて」


ヘンリックの山小屋。

一つのベッドで、添い寝する父娘がいる。

父ヘンリックと、娘のカーリン
娘の家出に衝撃を受けた父は、亡妻のアンナと起こした由々しきトラブルについて、傍らの娘に語っていく。

「“不満を吐き続けるなら、もう別れるわ。”そして廊下へ行くと、荷造りを始めたんだ。私は不安に襲われて、ますますいきり立った。止めようとしたが、アンナはきかない。だが、彼女の気持ちが体越しに伝わってきた。“私は出て行く。もうお別れだ”とね。私は自分でも驚く声で言った。“許さない!私を捨てて出て行くなんて。絶対に許さない”と。言った後で気付いた。“もう、終わりだ”だが、台所で気配がした。彼女がコーヒーを入れていた。その晩はずっと無言で、ただ縫物をしていた。子供が母親に言うように、“もう、二度としません”と、私は謝った。お前にも同じことを言いたい。あの晩、私はアンナの寝顔を見て、“私にとって、どれほど彼女が大きな存在か、本人は知っているだろうか”と・・・お前が出て行けば、私は困窮する。他に言いようがない。やがて、お前は自由となり、音楽大学へ行く出ろう。お前と過ごして来た時間は、神の恵みそのものだった・・・そのうち私には、恐ろしい罰が下る気がする・・・」


第4章。「一週間後、ヘンリックが父親を訪ねる」


父親ヨハンを訪ねた、ヘンリックの第一声は借金の申し込みだった。

「遺産を前借りしたい」
「返す気配もないくせに」
「息子を見下す気ならもう一つあるよ。僕は小屋の家賃を払ってない」
「一銭も払ってない。車を買ったな」
「借りたんだ。持ち主は海外に行っている・・・僕が来てから、ずっと厭味ばかりだ。金が必要なければ、とっくに帰っているさ」
「では、帰れ」
「僕のためじゃない。カーリンのためだ」

ヘンリックは帰りかけて、振り向いて言った。

「そうか。父娘喧嘩をしたそうだな。金で引き止めるのか?女々しさの中に、まともな憎悪が垣間見える」

ヘンリックは必死に、カーリンの才能のアピールをする。

拒絶の姿勢を崩さないヨハン。

「父さん、なぜそんなに僕に冷たい?」
「勝手な言い分だ。お前が18歳の頃、私は歩み寄ろうとした。反抗のひどいお前と話すよう、母さんが望んだからだ。私は言った。“悪い父親だったが、改善したいと思っていた”すると、お前は叫んだ。“父親なんかじゃない!あんたがいなくても、生きていける。”とも言った。偽りのない気持ちだ。尊重すべきだろう。私は憎まれても平気だ。お前はいないのも同然だ。母親似のカーリンが生まれていなければ、お前は私にとって存在しない。敵意すらない」

ヨハンとヘンリック
遥か昔の出来事への拘泥を言語化する父と、その父の話を茫然と聞く息子。

涙が滲んでいた。


第5章。「バッハ」


淡い光が差し込む澄んだ朝の教会で、ヘンリックはオルガンを弾いている。

そこに入って来るマリアン。

マリアンに話しかけるヘンリック。

「アンナが亡くなって2年。でも、まだ辛い。本当です。今は惰性で生きている。何かが欠けている。無能になった。今はカーリンだけが生きがい。あの子がいなければ、生きる意味がない。近頃、死を考えるのです・・・人は生涯、死について思い、死後のことを考え続ける・・・」

別れかけに、ヘンリックは弁護士のマリアンに信じ難きことを相談した。

「父を訴えられませんか?財産を抱え込んだまま、全然死なない」
「彼が正気なら無理ね」
「法的に言えば、正気だ」
「お父さんが、そんなに憎い?」
「言葉に尽くせないほど、憎いですよ。恐ろしい病気で死ぬのを、喜んで見送りたいものだ。毎日病院に行き、苦しむ様子を臨終までメモしたい・・・話を聞いてくれてありがとう。自分でも異常だと思うことがある。あまりに辛いから」

マリアンは言葉を失って、教会の中で静かに祈りをあげた。



3  絶望的な絡み合いの中での、自立への決意表明



第6章。「提案」


カーリンはヨハンに呼び出されて、書斎に入った。

カーリンの母、アンナの写真
書斎には、カーリンの母、アンナの写真が飾ってあった。

そこで、ヨハンがカーリンに語ったこと。

それは、ヨハンがレニングラードにいた頃の友人音楽家からの手紙の内容だった。

その音楽家が、あるコンサートで聴いた若いチェロ奏者の才能に驚嘆し、その父親に連絡したが、殆ど門前払いの無礼な態度に憤慨したと言うのだ。

若いチェロ奏者とはカーリンで、その父親とはヘンリックのこと。

その音楽家は、カーリンの祖父がヨハンである事実を知り、カーリンに入学試験を促し、教育を受けさせたい旨を求めたのである。

「どうするかね?必要な費用は全て私が負担しよう」とヨハン。
「何と言えばいいか。あまりにも良い話で・・・」とカーリン。
「確かに、お前の人生は一転するからな」
「感謝します」
「但し、打撃を受ける者がいる」
「打撃?」
「お前の父親のことだ・・・アンナの存在は、この世の救いだった。彼女の死で闇が深まり、光が弱まった」
「パパは、生きるのも辛そうよ」
「いずれにせよ、お前は母親似だ」

ヨハンとカーリン
ヘンリックを介さず、カーリンへの援助を申し出るヨハンの心から透けて見えるのは、ヘンリックへの憎悪とアンナへの深い愛であった。


第7章。「アンナからの手紙」


ヘンリックに宛てた、母アンナの手紙を、カーリンは偶然発見した。

アンナが亡くなる一週間前の手紙である。

それをカーリンはマリアンに見せた。

以下、アンナの手紙である。

「“あなたが来られず、良かった気がします。二人とも鋭すぎるもの。顔を見れば、お互いに取り繕ってしまう。それでも、あなたの表情で自分の病状に気付くわ。愛するヘンリック。今まで触れなかったことを書きます。カーリンのことを話したかった。でも、ずっと私がいたから必要なかった。今、私は病に倒れ、そこにはいない。勿論一緒にいるけれど、私は仲間外れだわ。あなたと私は愛し合い、私はその愛に守られていた。でも、愛は儚い。私の病のような悲劇の前には、破壊されてしまうの。あなたはカーリンを愛し、一方で縛っている。教えるのは構わない。でも、限度があるわ。私が死ねば、限界が曖昧になる。カーリンも父親を愛してる。でも、あの子の愛を利用しないで。傷つけるわ。一生の傷になりかねない。どうか、あの子を解放してあげて・・・あなたは繊細で思いやりがあって、愛情が深い。長年、共に暮らした私はよく知っている。でも私が死んで、行き場を失った愛情をカーリンに注げばきっと危険なことになる・・・”」

ここで、「もう読めない」とカーリンは嗚咽した。

「何で私の所に来たの?」とマリアン。
「事情を知っているでしょ。自分の考えを整理するのに、言葉にしたいだけ」とカーリン。
「付き合うわ」
「ママは見抜いていた」
「ええ、そう思う」
「ママの心配は、すべて現実になった。留学の話は断るわ」
「理由は何なの?」
「私が去れば、パパは死ぬわ。一人残されたら生きていけない・・・見捨てられないわ。うんざりすることもある。でも、私の将来のためにしてくれるの・・・今、私とパパの人生は絶望的に絡み合っているの」

「絶望的に絡み合ている」というカーリンの言葉は、あまりに重すぎる。


第8章。「サラバンド」


ヘンリックの小屋で、父娘がチェロの練習をしようとしているが、カーリンは自らの意志を父に語っていく。

「手紙のことを話してくれたら違ったと思う。でも、パパは黙っていた。それが間違いよ。だからこうなった」
「どうなった?」
「来週、エマとハンブルクへ行くわ。楽団員になるための学校に入るの・・・エマがビデオを撮って、遊び半分で事務局に送ったの。そうしたら合格通知が届いた。自分で決めたことよ」
「音大には?」

涙を滲ませながらを、首を振るカーリン。


驚きの表情を隠せないヘンリック。

「何と言うことだ・・・」

娘は父の頸に両腕を絡めて、なお思いを伝えるのだ。

「私はソリストになる自信がないの。楽団で演奏したい・・・自分で将来のことを決めて、つましく暮らすわ。私はごく普通に行きたい。ママの哀れな代役として、過剰に褒められながら過ごすのは嫌。いつか止めたい。それが今よ」
「せめて、良い別れにしてくれ」
「つまり?」
「組曲第5番のサラバンドを弾いて欲しい」
「今、ここで?」
「頼むよ」

父の頼みの応じて、「組曲第5番のサラバンド」を弾くカーリンを、ヘンリックは茫然と見つめ続けていた。



4  精神を吐き出させる下痢のような凶暴な不安



第9章。「決定的な瞬間」


病院からヨハンの邸に電話が入った。

電話を受けたのは、マリアン。その内容をヨハンに伝えた。

「ヘンリックが自殺を図ったそうよ。睡眠薬を飲んで、腕と喉を切ったらしい。今は集中治療室に入っている」

「何てことだ」
「一足遅れたら、危なかったらしい。小屋の脇を通った人が、倒れている彼を見つけたの。たまたまね・・・」
「全く・・・」
「ドアの鍵は開いていたけれど、意識はなかったと言ってた」
「信じられん・・・」
「カーリンに連絡したいけど、ハンブルクへの道中だわ」
「全く失敗ばかりだな。死ぬことすらできん」

その顔を訝しげに見続けるだけのマリアンに、ヨハンは洩らした。

「何か言ったらどうだ」
「今の言葉に?」
「一度くらい、思ったままを言ってみろ」
「やめてよ」
「言えんだろう」
「あなたって・・・時々、古い映画の注目されない脇役みたい。現実感がないの」
「やはり、言えないか?」
「今は・・・やめるわ」
「言い出したんだ。続けろよ」
「いつからそうなの?あれもこれも侮辱して」
「侮辱するのは、自分のことのつもりだがね」
「気の毒なヘンリック」
「そうだったか・・・ヘンリックは父親似なことに気付いていたのだろう。だから小太りで、愚鈍な息子を好きになれなかった。粘っこい愛で寄って来るヘンリックを拒絶したんだ。犬のような忠実なあの子を足蹴にしたくなった。精神的にだぞ。これから、どうなる?」
「カーリンが心配だわ。きっと自分を責める」
「ヘンリックのせいだ。衝動的に自殺など図りおって。カーリンを罪悪感から守らねば・・・皮肉だ。何も言えん。私はアンナを愛していた。彼女の死がまさに悪夢だった。どうしてヘンリックが彼女に愛されたのか、理解できんよ・・・」


重苦しい会話の中に、苦渋を深める心が炙り出されていった。


第10章。「夜明け前」


薄明である。

自宅の壁にもたれて、ヨハンは嗚咽の感情に耐えていたが、それを洩らした後、堪らずにマリアンの部屋に行った。

「どうかした?」
「分らない・・・恐らく不安のせいだ。眠れない。うなされた・・・」
「悲しいのね・・・」
「そうじゃない。もっとタチが悪い。私自身より大きな凶暴な不安だ。体中の穴を通って、私から出ようとする。まるで、精神を吐き出させる下痢のようだ。不安に比べ、私は小さ過ぎる」
「死が怖いの?」
「とにかく大声で叫びたい。君は泣きやまない赤ん坊をどうやって宥める?」
「来て。一緒に寝ましょう」

そう言って、マリアンはヨハンを優しく包み込んだ。

全裸になってくれ、というヨハンの要求を素直に受け入れて、マリアンも着衣を脱いで裸になり、かつての夫をベッドに導いた。

「なぜ突然来たか、教えてくれないか?」
「呼ばれたと思ったの」
「私は呼んだりせん」
「そんな気がしただけ」
「奇妙な話だな」
「ほらね、思った通りだわ」
「いつまでいる?」

10月27日の裁判に出るまで、とマリアンは答えた。

それだけの会話だった。 



5  アンナの愛、娘と心が通った奇妙な感覚



エピローグ 


マリアンの自宅。

プロローグのときのように、厖大な写真に支配されているテーブルの前に座って、マリアンはカメラに向かって語りかける。

「10月初めまで、ヨハンの家に滞在した。とても心安らかな毎日を過ごしたわ。微妙な話題には殆ど触れずじまい。最後の晩は乾杯をした。ささやかだけど、楽しかったわ。連絡を取り合おうと約束もした。ヨハンの体調が悪く、手紙の交換を約束したが、その後、私も書いたけれど、返事は来なかった。静寂が戻ったの・・・時々思うの。アンナのことを。彼女はどんな風に生きたのだろうと考える。彼女の眼差し。微かな、気付かないほどの微笑。アンナの気持ち、愛。もしかしたら、何かがその後の私の人生に影響したのかも知れない。ヨハンの家から帰った後、娘のマッタを見舞いに行った」

マリアンはマッタから眼鏡を外し、愛する者の深い思いの中でその顔に触れたとき、マッタの視線が復元したのである。

「そのときだった。奇妙な感覚を味わった。初めて娘と、同じ時が過ごせた気がしたの。そして感じた。娘と心が通ったと・・・実の娘と・・・」


嗚咽の中で、映像は閉じていった。



6  羽ばたく娘に絡みつく絶望的な関係の呪縛 ―― まとめとして① 



遺産で買い取った森の中に隠遁生活するヨハンと、そのヨハンの子ヘンリックが、娘カーリンと住む村の小屋には、共通の写真が飾ってある。

2年前に病死したアンナの写真である。

人間の愛憎を殆ど極限まで描き切ったような本作を、その根柢において支え、支配しているのは、このアンナである。

物語は、かつての妻であったマリアンがヨハンを訪ねるところから開かれるが、それは単に物語のプロローグでしかない。

実は、この映画で描かれた過剰な愛像の物語は、既に2年前に開かれていた。

誰からも愛されていたアンナの死によって開かれた物語が、マリアンのヨハンの森の中の別荘の訪問によって動いていく。

ヨハンから聞く、ヘンリック父娘の異常な関係の現実、カーリン自身から聞く、父ヘンリックの偏愛の様態。

そして、ヘンリックとの教会での、常軌を逸した会話。

物語の詳細は前述した通りだが、明らかにカーリンに対するヘンリックの偏愛は、最愛の妻アンナの死によって空洞化した、彼の自我を埋める代償行為であると言っていい。

ヘンリックにとって、アンナの存在は「亡くなって2年。でも、まだ辛い。本当です。今は惰性で生きている。何かが欠けている。無能になった」と、マリアンに向かって言わさしめる程の絶対的存在だった。

「今はカーリンだけが生きがい。あの子がいなければ、生きる意味がない」

これも、ヘンリックの言葉。

アンナの存在は、ヘンリックにとって、己が自我の安寧の絶対基盤だった。

自我の安寧の基盤を喪失した男には、それを補償するに足る対象人格が必要だった。

それなしには、彼はもうこの世と繋がれないのだ。

Uppsala Kammarorkester(イメージ画像
「ウプサラ室内管弦楽団の責任者」という高い立場にありながら、世俗との普通の交流を継続できない性格が、この男の偏頗(へんぱ)な自我を支配しているのである。

「近頃、死を考えるのです」

これも、ヘンリックの言葉。

大人の父娘が一つのベッドで添い寝しながら、「お前が出て行けば、私は困窮する。他に言いようがない」と本音を吐き出すことで、ヘンリックは漸次、そして確実に娘の自我を把握し、心理的且つ、物理的に支配していくのだ。

「やがて、お前は自由となり、音楽大学へ行く出ろう。お前と過ごしてきた時間は、神の恵みそのものだった」

そう言いながらも、ヘンリックににとって、才能溢れた娘が、その才能を大きく開花する世界に羽ばたいていくことは、「あの子がいなければ、生きる意味がない」と感受させる孤独に捕捉される恐怖そのものだった。

彼はベッドを共にする娘に嘆くことで、「自死」という究極のカードを、四六時中ちらつかせて見せるのだ。

しかも、そのカードがブラフでない現実を、娘は感受していた。

だからこそ、カーリンは、「私が去れば、パパは死ぬわ。一人残されたら生きていけない・・・見捨てられないわ」という感情の呪縛から放たれないのである。

「今、私とパパの人生は絶望的に絡み合っているの」

凄い言葉である。

これも、マリアンに吐露したカーリンの言葉。

この関係は、見方によっては、「共依存」の関係であると言っていい。

未だ学術的に認知されていない「共依存」とは、その関係性において、特定的な相互の人格が依存し合う嗜癖症である。

特定的な対象人格からの特定的な評価を常に配慮し、そのために、献身的な行為の必要性を再確認する類の強迫的メンタリティを、自我に内包しているケースが往々に見られるとも言われるものだ。

少なくとも、「共依存」の関係に陥る危機が、この父娘の間に存在しなかったとは思えないのである。

そして、そのことを何より恐れたのは、亡きアンナがだった。

本稿で紹介した、ヘンリック宛てのアンナの手紙の一部を、もう一度確認しておこう。

「あなたはカーリンを愛し、一方で縛っている。教えるのは構わない。でも、限度があるわ。私が死ねば、限界が曖昧になる。カーリンも父親を愛してる。でも、あの子の愛を利用しないで。傷つけるわ。一生の傷になりかねない。どうか、あの子を解放してあげて・・・あなたは繊細で思いやりがあって、愛情が深い。長年、共に暮らした私はよく知っている。でも私が死んで、行き場を失った愛情をカーリンに注げばきっと危険なことになる・・・”」

これは、アンナが病死する一週間前の手紙である。

しかし幸いにも、カーリンの自我は母親のDNAを受け継いでいた。

カーリン
彼女は「絶望的に絡み合っている」関係の呪縛を、自ら断ち切り、羽ばたいていったのだ。



7  「共依存」の関係に捕縛されない、「不安に耐える強さ」の突破力を身体化して ―― まとめとして②



思うに、ヘンリックにとってアンナの存在は、普通の男女の性愛の対象を遥かに超えた、拠って立つ愛情が集合する、殆どマキシマムな何かだった。

だから、過剰になってしまったのだ。

因みに、愛情の究極の本質を、私は「援助感情」と考えている。

対象人格の不安が自己に同化され、自らの煩悶になり得るような感情である。

相手の不安を払拭しなければ、己が自我の安寧が保証されないと感受されるような感情、それを私は「援助感情」と呼ぶ。

アンナとヘンリックの関係を考えて見よう。

ヘンリックの過剰な愛情を受容したアンナは、彼女なりに誠実に応えていった。

彼女もまた、夫を愛していたからだ。

しかし過剰な愛情は、しばしば相手の人格の自在性を奪ってしまうのである。

過剰な愛情が対象人格の許容範囲を超えて、知らず知らずの内に暴力性を帯びてきてしまうことがあるのだ。

アンナは、夫の過剰な愛情を常にコントロールし、上手に吸収していく包括力と優しさを併せ持っていたであろう。

だが時として、暴力性を帯びるほど、過剰な愛情が返報されない不満を吐き続ける夫の行為に対して、アンナはイエローカードを突き付けた。

それなしに、相手の感情のクールダウンが困難であると考えたからであろう。

“不満を吐き続けるなら、もう別れるわ”

これは、添い寝する娘に、ヘンリックが語ったアンナの言葉。

寡黙な彼女の性格に相応しい、このときのアンナのクレバーな対応は、ナイーブな夫に相当の安定感を保証した。

その夜、彼女は縫物をすることで、夫に出したイエローカードを反故にしたのである。

恐らく、こんな風にして、アンナは厄介な夫を巧妙に、且つ、愛情豊かにコントロールしてきたに違いない。

自分がコントロールされることへの甘えの情感もまた、ナイーブなヘンリックには認知できていたはずだ。

だから、この二人の関係には特段のトラブルもなく、長く恒常的に保持されてきたのであろう。

しかし、思いも寄らないアンナの発病は、夫の拠って立つ自我の安寧の基盤を根柢から揺さぶり、慄然とさせた。

足が地に着かない夫の振舞いを目の当たりにしたアンナは、死の床で書いた手紙を書いた。

それが、娘の将来を案じる、例のヘンリック宛ての手紙である。

アンナは、何もかも認知していたのだ。

自分の死によって空洞化された夫の自我を埋めるのは、自分と同じDNAを持つ娘以外には存在しないことを。

そして現実に、亡妻の予言どおりに事態は進行し、自己完結的な閉鎖系の空間に籠る父娘の関係は、闇の奥深くに踏みこんでいく。

もうそこには、差し伸べるべきアンナの包括的な優しさが届かないのである。

ヘンリックが妻に求めたものと同じように、二人の関係が抱え込んだものの中には、性愛的な要素に限りなく近づく感情の騒擾が垣間見えなくもないが、そこだけは気丈に振舞うカーリンの、自覚的な防衛機構のバリアを崩すまでには至らなかったであろう。

と言うより、父が娘に求める基本形は、アンナの代償をなぞるものであったが故に、相対的に抵抗力の脆弱な娘の自我を一方的に支配し、しばしば暴力的に管理するという流れ方を常態化せざるを得なかったと言える。

チェロ奏者としての自立のリアリティが増幅していくカーリンの人格が、有無を言わせず抱え込んだ、まさにそんな状況の只中に、その負の連鎖を一定程度相対化させ得る制御棒が投入された。

マリアンである。

マリアンとカーリン
マリアンの人格的存在が、カーリンの人格に寄り添うように介在することで、微妙な時期に踏みこんでいた彼女のストレスを、ある程度相対化されるに至るが、それ以上にカーリンは、自らの人生を自力で切り開いていくという決定的な選択を為し得たのである。

彼女は、祖父の紹介による一流コースに乗ることを拒み、友人が送った録音テープが採用されたことで、地に足を付けて、普通の楽団員としての一歩を踏みしめたのである。

この時点で、カーリンの中で「父の自死」がイメージされないはずがない。

恐らく、彼女はそこで命懸けの選択をしたのだ。

明らかに、カーリンの独立的自我は、息子の人格を露骨に厭悪する偏頗(へんぱ)な父(ヨハン)を原因子にした、機能不全家族の欠陥を露呈した関係性の中で、狭隘な自我を形成してきた父(ヘンリック)とは決定的に分れていたのである。

「父の自死」に耐えるほどの強さを持っていたのだ。

「不安に耐える強さ」こそ、人間の真の強さなのだ。

それもまた、寡黙だが、包括力を持つ母(アンナ)のDNAの善き贈り物であるのだろう。

「父の屍」を超えて、自らの人生の岐路を己が裁量で掻き分けて、疾駆していく才能ある若きチェロ奏者が、そこに立ち上げられたのである。

カーリンの自我は、「共依存」の関係に捕縛されなかったのだ。

彼女は、「共依存」の関係に捕縛されない、「不安に耐える強さ」の突破力を身体化したのである。



8  圧倒的な女の包括力と強靭さ ―― ベルイマンの女性賛歌の最終的メッセージ




ベルイマンは、そんな映像を遺作として選択し、構築してしまったのである。

会話の多い映像には全く無駄がなく、且つ、説明的な内実に貶めてもいなかった。

人間の内面描写を精緻に描き切ったのだ。

そこが凄い。

何より、ここで描かれた圧倒的な女の包括力と強靭さは、ベルイマンの女性賛歌の最終的メッセージであるだろう。

しかし、当然の如く、ここでもベルイマンは甘くない。

ここで描かれた男たちの、眼を覆わんばかりの脆弱さと言ったらどうだ。

結局、自分の中にあって、自分が嫌う性格を持つ息子への反発から、父であるヨハンは息子であるヘンリックを罵倒し、突き離す。

息子もまた父を呪い、その死を願うのだ。

自殺未遂した息子を、「全く失敗ばかりだな。死ぬことすらできん」と言って軽侮する父親もまた、その不安を一人で抱え切れず、束の間嗚咽した後、30年前に別れた妻の包容力に縋るのだ。

全裸の老夫婦が、一つのベッドに添い寝する行為は、このような形でしか自己を裸にできないヨハンの性格の偏屈さであり、救い難い独善性であるが、その孤独の心情世界は遥かに人間的ですらあるだろう。

映像には、とっておきのラストシーンが用意されていた。

カメラに向かって語りかけるマリアンの存在は、単に一人のナビゲーターでなかっのだ。

ベルイマンが作った映像の凄味に、殆ど圧倒される思いだ。

(2010年6月)

2010年5月11日火曜日

不良少女モニカ('53)   イングマール・ベルイマン


<自我の未成熟な女の変わらなさを描き切った圧倒的な凄み>



1  「青春の海」の求心力 ―― プロットライン①



陶磁器配達の仕事に追われる一人の若者がいる。

彼の名は、ハリー。

彼は奔放な我がまま娘と出会うことで、その生活に変化を来たしていく。

彼女の名は、モニカ。このとき、17歳だった。

純粋な青年、ハリーと出会うことで、モニカはそれまでにない異性への思いが生まれていく。


決して豊かではないモニカは、父と喧嘩したことで家出し、同様に、陶磁器配達の仕事への遅刻などが原因で、ハリーもまた家出するに至った。

ストックホルムの夏の陽光を存分に浴びる快感を求めて、二人は、ハリーの父が所有するモーターボートでの非日常の生活に入っていったのである。

非日常の日常下のボート生活を謳歌する、二人の会話。

「僕はいつも孤独だった。僕が5歳のとき、母が病気になり、僕が8歳のとき死んだんだ。それで親父は少し変になり、無口になった。僕らは毎晩、椅子にじっと座っているだけで、話をしない」
「私は違うわ。家族がすごく多くて、チビはうるさいし、物は壊すし、パパは酔って外から帰って来て、大声を上げて絡むの。可笑しな人間なの」
「君も僕も同じだ。僕は夜、詰め込み勉強をしようと考えた。勉強を続ければ、エンジニアになれる。僕はエンジンが好きだ。親父のボートのエンジンを直した」
「技師になるなら、私たちは結婚できるわね」


この会話の流れで、モニカは妊娠したことをハリーに告げ、その喜びを、ハリーはこう結んだ。

「僕はすぐにも家に帰り、働いて準備する。君はまともな食事が必要だ」

根が真面目なハリーの現実的な反応に対するモニカの答えは、刹那的で、現実遊離なものだった。

「嫌よ。私は帰らないわ。この夏はこうしていたいの。ハリー、あんたのように良い人は初めてよ」

ここで、ハリーは噛んで含めるように話した。

「モニカ。二人で本当の人生を送ろう。僕らは気が合っている。勉強して働けば、うんと稼げて、僕らは結婚できる。そして、洒落た家に住み、物を揃え、僕たちは生まれてくる子と・・・」

ハリーの真摯な言葉がどこまで受容できたか疑わしいような、モニカの延長されたイメージの世界が繋がれた。

「そうよ。私は家で夕食の支度をし、日曜には子供たちを連れて散歩よ。私は家で子供の世話をし、奇麗な服を着て外出するわ」
「何もかもうまくいくよ。僕らはいつでも一緒だ」
「私たち二人だけよ」

まもなく、二人は食糧不足に苦しむようになり、モニカは民家に押し入り、窃盗を企てるが、失敗した挙句、逃亡した。

モニカの行動に同調しなかったハリーは、戻って来たモニカと口論するに至ったが、「世間」と接続するときの二人の意識の差は歴然としていた。

翌朝のこと。

「楽しい夏だったよ。だが、何もかも終わった」とハリー。
「また町に帰るなんて…映画の夢を追ったのが、私たちの間違いよ」とモニカ。
「いや、僕らの夢だった」とハリー。

ボート生活を終え、町を目指して寄港するボートのデッキ上で、暗鬱な表情のモニカの眼光が濁っていた。

「青春の海」との距離が遠のいていく、そんな少女の心理を、暗鬱な音楽が拾っていく。

「町が近づいて来た・・・」とモニカ。
「負けはしないぞ。皆に見せてやる。僕はこれから働く」

19歳のハリーの強い覚悟だけが、海上で静かに括られた。



2  「変わらぬ女」の「「青春」だけが延長されて



ストックホルムに戻った二人は、早速、ハリーの伯母の世話で結婚することになった。

工場で働くことになったハリーは、本来の真面目な性格を存分に発揮した。

まもなく、モニカは女の子を産み、若い二人の新生活が開かれていく。

しかしモニカには、母親としての自覚がなく、相変わらず、煙草を吸いながらの日常性を延長させるばかり。

そんなモニカは貧乏生活には堪えられず、再び、以前の不良と付き合い始めたのだ。

「別れるしかない。僕たちはもうダメだ」
「私一人が悪いんじゃないわ」
「それとは別だ」
「あなたは自分のことしかしてないわ」
「そうだとも。僕らの暮らしのためだ」
「お金を貯めるばかりで、何一つ買えないわ!」
「君は服を買った」
「着る物がないからよ。お金は借りたのよ」
「この家も追い出される。もう、どうにでもなれだ」
「あんたの不平は、聞き飽きたわ!」
「だが、家賃は工面しなくてはならん!」

顔を埋めて、モニカは嗚咽するばかり。

「あんたの役割よ。だから子供を作ったわ。いい加減にして!私は眠りたいわ・・・私は醜くなったわ」

一時(いっとき)の睦みがあっても、ハリーの怒りは収まらない。

それでも彼は、二人の関係を生産的に考えようと努めた。

「二人でよく話し合おう。なぜ、こうなったのか」
「あんたは自分の勉強しかしていないわ。私は若いうちは楽しく暮らしたいのよ」
「勉強は僕らのためなんだ。きっと、何もかも良くなる」
「言い逃れよ」
「君は?僕が働いている間、男を連れ込んで何をしていた?」
「あんたは下劣よ」
「君は恥ずかしくないのか!」
「愛していたのよ・・・ぶたないで!」

遂に、ハリーの怒りは身体化した。

「変わらぬ女」を繰り返し叩いたのである。

全てが終わった瞬間だった。

結局、モニカはハリーの元を去るに至った。

殆ど予約されたように、「変わらぬ女」の「青春」だけが延長されてしまったのである。

そんな女に置き去りにされた男は、これも予約されたようにモニカと離婚するに至った。

ハリーは、叔母に預かってもらっていた子供を引き取ったのである。

独力で子供を育てるつもりなのだ。

それは、彼本来の性格の延長線上にある選択的意志でもあった。

観る者の心に深く張り付くような、ラストシーンの印象的な構図がそこにあった。


ハリーは今、鏡に写った父子の姿形をじっと眺めながら、モニカと過ごした夏の海を思い出していたのである。



3  「ストックホルムの海の非日常性」と、「ストックホルムの町の日常性」の対比 ―― まとめとして①



ヌーベルバーグを特徴付ける「即興演出」や、ストックホルムの海を中枢に据えた「ロケ中心」の技法が随所に見られる本作が、「フランス映画の墓掘り人」となったフランソワ・トリュフォーなど、カイエ・デュ・シネマの連中の高評価を得た逸話はあまりに有名だが、それもまた、ロベルト・ロッセリーニらの仕事と共通する低予算の制約があったからである。

それにしても、ストックホルムの夏の陽光を利用した映像の、眩いばかりの構図の多用は、本作の鮮度を相当程度高める効果があった。

その鮮度こそ、「非日常の日常下」のボート生活を謳歌する、10代後半の若い二人の青春の瑞々しさでもあったと言える。

ストックホルムの夏の海。

これこそが、映像の隠れた主役かも知れない。


ストックホルムの夏の海は、若い二人の夢の具現であり、パラダイスの限定的スポットだった。

二人だけが占有したパラダイスには、ストックホルムの町の退屈な日常性と切れた世界が、無尽蔵に広がっているのだ。

少なくとも、若い二人はその夏、その幻想が香しく眩い時間を手に入れていた。

二人はその限定的スポットで「青春」を謳歌し、〈生〉と〈性〉を愉悦したのである。

とりわけ、愉悦する「青春」の、その甘美な幻想の世界にしか生きないモニカにとって、ストックホルムの夏の海は、退屈な日常性の世俗的な時間から解放させてくれる特段のパラダイスだった。

当然のことながら、そんなパラダイスにも生活の臭気が張り付いている。

その生活の中心は、いつの時代もそうであったように、〈食〉の継続性という基本的課題である。

〈食〉の絶対的供給源が保証されないボート生活での限定的状況下で、恰もそこだけが特化されたかの如き、件のパラダイスの矛盾が露呈されたのは、あまりに必然的な事態であった。


〈食〉の問題を契機とした諍(いさか)いが二人の間で出来したのは、どこまでも自己中心的な発想から抜け出せない、モニカの我がままな性格の発露によってである。

思えば、「社会規範」のごく普通の制約や干渉から相対的に解放された甘美なパラダイスの中で、二人の裸形の感情がより激しく交叉し、顕在化するのは、その相対的な状況解放性が内包するリスクの故である。

それこそ、特化されたかの如きパラダイスの矛盾以外ではなかった。


「社会規範」のごく普通のルールの縛りが希釈化されたとき、二人の自我の裸形の様態が晒される事態を常態化させてしまうのだ。

そこに、諍いの原因子が身体化されるほどに膨らんでしまえば、殆ど必然的に、二人の裸形の感情のコンフリクトは不可避となるだろう。

〈食〉の問題を「解決」するための二人のコンフリクトは、窃盗行為の是非を巡ってのものだったが、言うまでもなく、「窃盗賛成派」のモニカと、「窃盗反対派」のハリーの対立という構図だった。

結局、「窃盗賛成派」の強行によって、当人のモニカは警察沙汰になるリスクを負った。

何とか警察力の行使の危機から逃亡したモニカだったが、「窃盗反対派」の「日和見的態度」への不満を抑え切れない彼女は、「反対派」の当人を責め立てるのである。

そんな二人の会話が、映像の中で拾われていた。

裸形の感情が、より激しく交叉する重要なシークエンスである。

以下、再現してみよう。

「助けに来ないのね!」とモニカ。
「何処にいるか分らなかったんだよ」とハリー。
「私は捕まったのよ」
「ボートを出るからさ」
「この肉も冒険のお陰よ」
「危ない真似するな!」
「私には食べ物が大切よ。自分で探したわ!何もかも嫌になるわ。子供はできるし、私は着る物も何もないし」
「僕らの先が思いやられる。君はこのままではダメだ。まず結婚をして、僕が働いて、3人が食べることだ」
「町には帰りたくないわ!」
「ここは寒くて、いられない」
「何も欲しくない!何も!」

激しく嗚咽するモニカは、どこまでも、「青春」の甘美な幻想の世界にしか棲めないのだ。

「ハリー。人は幸福なのに、なぜ私たちは不幸なの?」
「僕も同じだ・・・」

遂に出来したパラダイスの矛盾が、結局、二人の「青春の海」の生活を閉じることになった。

「ストックホルムの海の非日常性」と、「ストックホルムの町の日常性」の対比。

これが、映像の主題である。

前者が、そこに潜む矛盾によって自壊したとき、二人は、「ストックホルムの町の日常性」に戻って行かざるを得なかったのだ。

「ストックホルムの町の日常性」

そこには、身過ぎ世過ぎのシビアな現実だけが待機しいているのだ。

未だ愛情を保持していた二人は、まもなくそこで結婚し、働き、子供を産むが、しかし、「貧しく退屈な日常性」という、最も肝心な現実を仮想敵にした少女にとって、そこでの生活は最も耐えがたいものとなった。

だから彼女は、一切を放擲した。

一切を放擲した彼女は、再びかつての爛れた日常性に戻っていったのである。

それは、「ストックホルムの海の非日常性」に象徴される世界しか認知しない女の、しごく普通の感情の流れ方だったのだ。


彼女には、「ストックホルムの町の日常性」に象徴される世界との、しごく普通の折り合いと融和を受容する何ものも存在しなかったのである。



4  自我の未成熟な女の変わらなさを描き切った圧倒的な凄味 ―― まとめとして②



多くの場合、青春には仮想敵が存在する。

「敵」を仮構することで、青春が成立すると言い換えてもいい。

少女モニカにとって最大の敵は、彼女自身の外側に仮構された、「世間一般」という「規範的体系」であるに違いないが、より本質的に言えば、実は彼女自身の内側に巣食った、「貧しく退屈な日常性」それ自身であった。

「貧しく退屈な日常性」を「敵」にした、モニカの自我の未成熟。

それこそ、彼女の変わらなさの全てであった。

その一点に置いて、モニカの夫となるハリーと決定的に別れたのである。

ハリーの仮想敵が、せいぜい、陶磁器配達の仕事場での彼の上司であったり、モニカの不良仲間の男たちであったりしたに過ぎないが、それらは、敢えて自らが「前線」を築き、そこで倒すべき特段の存在性を持ち得ないのである。


そんなハリーの普通の人生の、普通の幸福を求める、普通の情感の包括力を食い破ってしまうほど、「貧しく退屈な日常性」を「敵」にするモニカの自我の未成熟は、彼女の鎧のような変わらなさを、その内側から固めてしまっていたということだ。

思うに、この映画で凄い所は、「青春」の仮想敵の定番である、「大人社会」=「規範の体系」=「世俗の悪徳性」という「善悪二元論」の内に、救いなきシリアスドラマを収斂させなかった点にある。

何より、自我の未成熟な女の変わらなさを、ここまで描き切った本作の凄味は尋常ではない。

自分勝手で、我がままで奔放な女が、心優しき男との関係のフラットな睦みをどれほど延長させようとも、自我の深い辺りで根本的な地殻変動が惹起することの嘘臭さを、この映画は精緻に描き切ったのだ。

だから本作は、在り来りの欺瞞や偽善の言辞から自由になり得たのである。

ベルイマンは凄い。

「愛によって人は変わる」などというナイーブで、安直なヒューマニズムに流さないベルイマンの凄さ。

イングマール・ベルイマン監督(左)
この凄さこそ、ベルイマンの真骨頂である。

スウェーデン映画界に独立峰の如く屹立する、その尖鋭な映像世界に心酔する私を常に誘(いざな)うのは、このベルイマンの凄さ以外ではない。

本作もまた、映像の中で枢要な意味を持たせる風景描写ばかりでなく、内面描写の精緻な構成力に、息を呑むほどだった。

ヌーベルバーグへの影響の深さとは無縁に、ベルイマンがとてつもなく凄い映像作家であることを、今更ながら感受した次第である。

(2010年5月)