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2010年11月4日木曜日

冬の光('62)       イングマール・ベルイマン


<物語に縋って生きる「職業的牧師」の欺瞞と孤独>



1  「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」


本作の主題は、拠って立つ自我の安寧の基盤である物語に亀裂が入ってもなお、その物語に縋って生きていかねばならない男の欺瞞と孤独である、と私が考えている。

物語とは、キリスト教への深い信仰の念である。

物語の主人公は、スウェーデンの寒村の教会牧師。

その名は、トマス。

5年前に愛妻を病気で亡くしていて、現在は、トマスに献身的愛情を注ぐ小学校の女性教諭のマルタが、彼の身の回りの世話をしている。

然るに、キリスト教への深い信仰という物語に拘泥し、信仰熱心だった肝心のトマス牧師は、今ではすっかり変心してしまっている。

その辺りの事情については、ラストシーン近くでの、トマスを愛するマルタにアドバイスした、オルガン奏者の言葉の中で示唆されていた。

即ち、トマスは亡妻への愛情を介して信仰の世界に入り、その亡妻との関係の中で信仰を繋いできたが、その物語が彼女の死によって形骸化され、本来そこに潜んでいたであろう牧師の、人間としてのドロドロとしたエゴイズムが根を張って、今ではもう、義務だけで信仰の世界と繋がる「職業的牧師」の一人でしかなくなったのだ。

その辺りを、主人公である牧師の亡妻が、生前中に夫に残した手紙から検証してみよう。

「関係は終わったわ。証明されたの。愛の欠けていたことが・・・あなたの信仰を疑うわ。宗教的な苦悩を味わった経験がなかったからよ。あなたの信仰は幼稚に見えたわ。特に不可解だったのは、あなたがキリストに無関心だったことよ」

以上は、亡妻からの手紙の要約である。

「祈り」を信じると自負する夫の牧師が、妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す。

彼は亡妻を愛すると言いながら、彼女を最も苦しめた疾病に対して、全く何の対応もしなかったのだ。

こんな男の振舞いのうちに垣間見えるエゴイズムを糾弾するのは容易だが、果たして、「神のメッセンジャーとしての『職業的牧師』」の欺瞞性を安直に糾弾するに足る資格を、無前提に有する「神に近き者」が何処に存在すると言うのか。

妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す「職業的牧師」が、「愛情欠損の輩」であると断じる態度こそ傲慢過ぎないか。

詰まる所、トマスもまた、「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」でしかなかったのである。



2  「神が宿る」小さなスポットの隅で



トマスは牧師としてのオーソリティをギリギリに保持しながら、その心は、真剣に悩む者たちを救う使命感から乖離してしまっていた。

と言うより、トマスの個人的な信仰の能力では、対応できない課題が加速的に増幅されていく事態のリアリティこそ深刻なのだろう。

そのことを象徴するシークエンスがあった。

それは、ファーストシーンでのミサの後、風邪気味のトマスが、信仰熱心なペショーン夫人から相談を受けたことに端を発するもの。

ペショーン夫人は、夫の漁師のヨナスの「心の病」についての相談を、トマス牧師に持ちかけたのである。

「新聞で中国の記事を読み、中国人は憎悪が強いので、核を持つのは時間の問題であり、彼らは失うものはないと言って、夫は毎日塞いでいるんです」

このとき、ヨナスがトマスを凝視した。

しかし、ヨナスの視線を受容できないトマス。

「生きねば・・・」

トマスには、そんな反応しかできなった。

「なぜ、生きる?」

ヨナスは、すかさず反駁した。

答えに窮するトマス。

そこに一瞬、「間」が生まれた。

「牧師さんは病気だ。話は無理でしょう」


そう言って、もう口を開くことのないヨナス。

見透かしているのだ。

数十分後、ペショーン夫人の懇望で教会に戻って来たヨナスは、もう会話を開く気分に乗れなかった。

中国の核の脅威に怯えるヨナスを前に、トマス牧師は暗鬱な表情を湛(たた)えながら、自己の過去の誤謬や懊悩を吐露するが、「汎人類的テーマ」を内化する男が抱える、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に接続する努力が叶う訳がなかったのだ。

「私は牧師として失格だ。自分だけの神を信じた」

トマスは自嘲し、「汎人類的テーマ」を内化したことで怯える相手との関係を、何とか「職業的牧師」の範疇のうちに保持しようとするが、彼自身、「世界救済」に対する問題意識など初めから持ち得ないのだ。

「堕落した牧師」を強調する相手の心を見透かした漁師は、「帰ります」と一言残して、去って行った。

結局、ヨナスへの「救済」に頓挫したトマスは、その直後、「汎人類的テーマ」を内化する男を猟銃自殺させてしまったのである。

無論、トマスの責任ではない。

「世界救済」に対する問題意識を持ち得ない彼に、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に呪縛されるトマスの、底が見えない「心の病」にコネクトする能力を求める方が筋違いだったのだ。

「神は存在しなくてもいいんだ。人生は説明がつく」

これは、トマス牧師がヨナスに添えた力なき言葉だが、紛れもなく彼の本音である。

より複雑化している現代社会に惹起する困難な問題に対して、もはや信仰によって解決可能なテーマは限定的でしかないのだろう。

「神よ。なぜ、私を見捨てる・・・」

このトマス牧師の独り言が、「神が宿る」小さなスポットの隅に捨てられていた。



3  「イエスの孤独の叫び」 ―― 「神の沈黙」の極点



「どうか私を棄てないで」

これは、トマスを真剣に愛する小学校教諭のマルタの訴え。


その愛を受容できない牧師。

トマスは今、最も残酷な言葉をマルタに吐露する。

「結婚しないのは、牧師の体面のためだ。しかし正直に言うと、君を求めていないんだ」

牧師とは言え、自分の愛を求める他者を、全人格的に愛する能力を持ち得ない。

当然過ぎることだ。

牧師は「神のメッセンジャー」である前に、一個の人間である以外にない、そんな存在を生きる何者かなのだ。

「愚かな日常から脱出したい。飽きたんだ。君の全てに。君に言わなかったのは、思いやりだ。大事に扱うべき生き物だ。妻が死んで、全く人生に関心がなくなった」

そこまで吐露する男を諦め切れない女は、ペショーン夫人に夫の自殺を報告するためのトマスの外出に随伴し、その帰りにフロストネス教会に立ち寄った。

そこで用務員をしている、脊柱側湾症(せむし)という疾病を持つ男の相談を受けるためでもあった。

脊柱側湾症の男の相談の内実は、本篇での由々しき問題提起とも言えるものだった。

「キリストが受難で肉体的に苦しんだとは思えないのです。主の苦痛は短い。4時間ほどでしょう。キリストが味わったのは、寧ろ心の苦しみです。ゲッセマネの園で、弟子は眠ってしまった。連中は最後の晩餐の意味すら分っていないのです。兵士が来ると弟子は逃げ、主を拒みました。キリストは3年も弟子と暮らし、教えを続けたのに、弟子はまるで理解せず、主を捨てたのです。主は一人きりに。誰も主の苦しみを理解しませんでした。見捨ててしまったのです。大きな苦しみです。それだけじゃない。主は十字架に架けられ、苦しみのあまり叫びました。“我が神、なぜ、私を見捨てるのですか”(注)。大声で、そう叫んだ。父に見捨てられたと思い、教えを疑ったのです。死ぬ直前に恐ろしい疑いを抱きました。それが最大の苦しみでしょう。神の沈黙という苦しみ・・・」

この言葉に、トマスは静かに同意した。

因みに、私自身、この解釈を支持する者であるが故に、本作で最も印象深いシークエンスとなっている。

「イエスの孤独の叫び」こそ、「神の沈黙」という名の、由々しき問題の根柢に横臥(おうが)していると把握するからである。

神は沈黙しているのではない。

存在していないのだ、という把握である。


「イエスの孤独の叫び」こそ、「神の非在」に震えるイエスの孤独の極点であった。(画像は、『ゴルゴファ(ゴルゴタの丘)の夕べ』ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンによるハリストス(キリスト)の埋葬準備の光景)

私はそう考えている。


(注)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というヘブライ語のことで、イエスが処刑される際に叫んだ言葉として有名。「旧約聖書詩篇」や、「「新約聖書」の中の、「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」が出典となっている。



4  欺瞞的牧師の変りなさが検証された円環的構成



イエスの生身の人格に宿る苦悩に肉薄しないトマスの欺瞞こそ、ベルイマンが指弾したい何かであったと思われる。

同時に、トマスの孤独は、欺瞞を認知する自己の存在性への疑問に由来すると言えるだろう。

その意味で言えば、「イエスの孤独の叫び」に収斂される問題は、脊柱側湾症の男の問いに肯くトマスの懊悩に重なるものではないだろう。

本作の主人公の牧師に対するベルイマンの視線には、相当程度厳しいものがあるからだ。

それは恐らく、ビレ・アウグスト監督の「愛の風景」(1992年製作)や、ダニエル・ベルイマン監督(ベルイマンの息子)の「日曜日のピュ」(1994年製作)の中でシビアに描かれていたように、ベルイマンの父であるエーリックと重なるものがある。


牧師=エーリックではないが、ベルイマン(画像)にとって一貫して、思想的にも、その生き方においても対立してきた、彼の父の拠って立つ精神世界への深い疑義が、本作に投影されていると見ることが可能である。

なぜなら、この直後の映像に、閑散としたフロストネス教会のオルガン奏者による厳しい指摘があるのだ。

それは、マルタに放たれたものだった。

「彼は亡妻が目当てだった。彼女だけしか目に入らなくなった。彼はこう言った。
“神は愛、愛は神だ。愛は神が存在する証である。愛は人間世界の現実だ”くだらん。もう聞き飽きたよ。村を出ろ」

トマスの信仰の根柢を撃ち砕くオルガン奏者の指摘は、本作の主人公の牧師に対する痛罵と言っていい。

それは、「アドバイス」の範疇を逸脱する悪意に満ちていたのである。

そして、極め付けのラストシーン。

ミサの参会者がいない閑散としたフロストネス教会で、淡々とセレモニーを続けるトマス。

ファーストシーンとラストシーンが繋がったのだ。

ファーストシーンとラストシーンの円環的構成によって、この欺瞞的牧師の変りなさが検証されたのである。


本稿の最後に、私個人の宗教観について一言。

私は無神論者だが、宗教否定論者ではない。

高度に発達した現代文明にあっても、当然の如く、様々に解決困難な非合理的な問題だけは常に存在するだろう。それらの厄介な問題に直面した人々の不安を吸収する「文化装置」の一つとして、宗教は切に求められ、人々の不安が集合する空間である「教会」が求められるのは、殆ど必然的である。

いつの時代でも、私たちは宗教の存在価値を否定する程に傲慢である訳がないのだ。

自我によってしか生きられない、私たち人間の「不完全性」と「脆弱性」を認知するが故に、その欠如を補完する「文化装置」が求められるのは当然なのである。

(2010年11月)

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