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2011年3月30日水曜日

落ちた偶像('48)      キャロル・リード


<複雑な〈状況〉の中に放り投げられ、置き去りにされた少年の悲哀>



1  秘密を守る少年



舞台は、ロンドンの某国大使館。

大使が療養中の夫人を迎えに行って、寂しい思いの息子は退屈を持て余す。

息子の名は、フェリップ。

フェリップ少年は、敬愛する執事のベインズの話を聞くのを楽しみしているが、肝心のベインズは、ヒステリックな妻と険悪で離婚を考えていた。

大使館で働くタイピストのジュリーと、不倫の関係にあったからだ。

ベインズへの愛に生きるジュリーは、報われない恋に疲弊し、辞職を決意した。

苦悩するベインズ。

日曜日。

夫の不倫を疑うベインズ夫人は、外出を装って、大使館内に隠れ忍ぶという策を弄した。

広々としたロンドン動物園・イメージ画像・ブログより
そんな姑息な夫人の策謀を知らないベインズは、爬虫類好きのフェリップを随伴して、ロンドン市内の動物園へ出かけた。

当然、ジュリーも一緒である。

しかし、ベインズにとって、フェリップの相手になる余裕がない。

ジュリーのことだけが気がかりなのだ。

動物園の帰途。

「そろそろ帰って、皆で食事しよう」とベインズ。
「奥さんが怒らない?」とフェリップ。

フェリップにも、二人の関係は周知の事実。

「奥さんが帰って来ない?」

暫く歩いた後、ジュリーは言った。

「まさか」とベインズ。
「昨日のことは?」とジュリー。

ベインズ
二人の逢い引きのことだ。

「坊やも秘密を守ってくれた」とベインズ。
「秘密は守らないと、ダメ?」とフェリップ。
「勿論」とベインズ。
「嫌いな人の秘密も?」とフェリップ。
「そうさ」とベインズ。
「奥さんの秘密も?」とフェリップ。
「そうよ、フェリペ」とジュリー。

これは、物語の布石となる会話となるもの。

大使館に帰宅後、ベインズ夫人からの偽装の電報が届いていた。

実家に泊まるので、2日間ほど帰れないという偽装の電報である。

大使館に泊ることにしたジュリーは、3人で隠れんぼをして遊ぶのだ。

隠れんぼに疲れ、ベッドに入ったフェリップの視界に侵入してきたのは、あろうことか、ベインズ夫人だった。

「あの二人はどこにいるの?」 

嫉妬に狂う夫人は、二人の居場所を執拗に聞いてきた。

答えられないフェリップ。

秘密を守る約束があったからだ。

「何でも知ってるくせに言わないのね。悪い子はお仕置きよ」

ベインズ夫人の憤怒の形相に、恐怖のあまり、涙を浮かべるフェリップ。

物音で部屋から出て来たベインズは、妻と口論した。

ジュリーが泊る部屋を特定し、常軌を逸した振る舞いをする夫人。

金切り声で叫ぶのだ。

「女はここね!どうするか、見てなさい!出て来い!見られない顔にしてやるから!」
「ヒステリーはよせ!」

それを目撃するフェリップは、怖くて、階段を伝わって外に逃げるが、その途中で聞いた夫人の金切り声。

「あの子も許さない!嘘つきで、陰険な悪ガキ!」

震え慄くフェリップは、夫婦の諍(いさか)いを見て、外に逃げて行こうとした。

「事件」が出来したのは、フェリップが外部階段の踊り場から室内を見たときだった。

ベインズ夫人が転落したのである。

「突き落とした!」

フェリップは思わず呟くが、その現場を見ていなかった。

実際は、転落した場面だけを見ただけだったが、傍らに立っているベインズを目視したことで、フェリップはベインズが夫人を突き落としたと思ったのである。



2  真実を話す少年



夜半に、裸足のまま外に出たフェリップは、警官に尋ねられる。

秘密を守る少年は、貝のように押し黙っている。

まもなく、刑事たちによる事情聴取が開かれた。

「なぜ逃げたか言ってごらん。奥さんは留守だったろ?君は何したの?」

刑事たちに囲まれて、フェリップは小さな声で答えていく。

「動物園に行った」
「それから?」
「蛇を見てから帰ったよ」
「それから?」
「食事をしたよ」
「誰と?」
「ベインズと僕と・・・」
「それから?」
「それから遊んだよ」
「何をして?」
「隠れんぼ」
「そう。君が隠れたの?」
「誰も見つけなかった。ベインズのことさ」
「他に誰がいた?」
「誰もいないよ」
「いたんだろう?」

ジュリー
ここでジュリーが、思い余って口を入れた。

「言ってしまいなさい!構わないから」
「まずいよ」
「本当のことを言いなさい!」

刑事の居丈高な声を耳にして、今度はベインズが口を入れた。

「その子たちは関係ありません」

ベインズはそう言って、フェリップに正直に話すように促した。

秘密を守るフェリップの嘘が、却って自分に不利になると考えたからである。

「ベインズと一緒にいたのは誰?」とベインズ。
「姪だよ」とフェリップ。

ベインズはフェリップに、ジュリーを姪と紹介していたのだ。

ここでもフェリップは、ベインズに言われた事実のみを答えたのである。

しかし、この正直な反応は、ベインズと、彼を庇うフェリップの嘘が明らかになる瞬間だった。

「家内は子供を叱ってました」

ベインズの正直な説明に対して、ベインズを犯人と考える警察が信用する訳がないのだ。

「ベインズはやっていないよ。殺していない」

ベインズが犯人であると信じるフェリップの嘘は、いっそうベインズの立場を悪化させるのだ。

「誰も彼が殺したとは言っていないよ。何だと思ったの?」と刑事。
「犯人じゃない」とフェリップ。
「他に犯人がいるから?」
「僕さ。指紋もあった」

このフェリップの嘘によって、刑事はベインズの犯行に確信を持った。

「嘘をつくと、却ってまずくなるわ」

これは、ジュリー。

彼女は、フェリップを部屋に連れて行くときに注意したのである。

「嘘をつき続ければ、信じてしまうさ」

フェリップは、ベインズがアフリカで人を殺したという冗談を信じていたが故に、尚更、ベインズが夫人を殺したと決め付けていたのだ。

だから少年は、ベインズを必死に庇おうとしたのである。

「皆、嘘をつき過ぎたね」

これは、ベインズが連行される際に、自分に寄り添うフェリップに放った言葉。

「でも、アフリカの話は嘘じゃないよね」とフェリップ。
「あれは冗談さ。作り話だよ」とベインズ。
「奥さんは殺しただろう?」

静かに首を振るベインズ。

「妻をあんなにしたのは僕のせいだ。お互いが相手を作るんだよ」
「神様じゃなくて?」
「責任は取らないとね」
「もう、嘘ついちゃダメだよ」

幼気(いたいけ)な少年の言葉が、防衛的な大人の振舞いを突き上げていく。

しかし、事態は、ここから一転する展開を開いていった。

花の鉢に残っていたベインズ夫人の靴の泥が証拠になり、ベインズの無実が証明されたのである。

ベインズの無実の根拠は、ジュリーの部屋を覗こうとした夫人が、花の鉢を倒したときの靴跡の発見によるもの。

ベインズ夫人は花の鉢を倒した際に、足を滑らせて誤って転落したという結論に落ち着いたのだ。

「事件」が否定され、一件落着したのである。

ところが、フェリップは、ここで真実に拘っていく。

「もう、嘘ついちゃダメだよ」というベインズの言葉に、少年は従順に反応したとも言える。

花の鉢の靴跡は、フェリップがベインズ夫人に叱られた際に、危険な場所にいる少年を夫人が連れ戻そうとしたときに残したものだった。

フェリップにとって、今度ばかりは嘘をつかず、自分が経験した真実を話すのだ。

しかし、「事故」という結論に一件落着した大人たちは、少年の執拗な説明に全く取り合ってくれなかった。

最後に真実を話す少年だけが、広い大使館内で置き去りにされたのである。



3  「純粋無垢」のメンタリティによって相対化された大人たちの感覚鈍磨の有りよう



本作は、子供を使って自己保身に走った男が、そこでついた嘘が露見したとき、幾ら本当のことを話しても、自分を疑う警察の疑惑を晴らすことが如何に困難であるかということを描いた映画である。

同時に、自分を必死に庇う子供の嘘の能力の限界を晒すことで、結局、子供に嘘をつかせた当の大人が精神的ペナルティを受けるという話であったが、本作の作り手は、もっと奥深いメッセージを提示していた。

こういうことではないか。

それでもなお、警察に犯人視されているとき、自分が慕うその男を庇い続けようと、子供の浅知恵で嘘をつく少年が、まもなく、その男の無実が証明されても、無実の根拠となった証拠の誤りを正すべく、そこだけは事実を述べても、もう大人たちの誰も、自分の正直の吐露を信じてもらえない現実に跳ね返される悲哀を通して、最後まで、周囲の「善良」な大人たちに翻弄される少年の不幸をリアルに描き切ったことである。

要するに本作は、無難な軟着点に辿り着くことのみで〈状況〉を処理する大人たちの感覚鈍磨の有りようを、子供の「純粋無垢」のメンタリティによって相対化した一篇であった。



4  複雑な〈状況〉の中に放り投げられ、置き去りにされた少年の悲哀



嘘には三種類しかない。

「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。

己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。

それとも、相手に対する気配り故のものかという風に分けられよう。

キャロル・リード監督
本作では、この「己を守る」という「防衛的な嘘」に走る男が、束の間、少年との間に「秘密の共有」を形成した。

この映画で興味深いのは、この「秘密の共有」について、示唆深いメッセージが付与されていることである。

「愛人隠し」の現実を守るために、幼気(いたいけ)な少年と交した「秘密の共有」が、事件によって警察の事情聴取を受けたとき、根柢から自壊していくのだ。

なぜなら、この「秘密の共有」は、単に「愛人隠し」に関わる共有でしかなかったからである。

それに関わる最も重大な事件についての「秘密の共有」が、少年と男との間で形成されていなかった。

少年は男を犯人だと信じるが故に、男を庇おうとする。

しかし、庇おうとすればするほど、少年の嘘が警察に察知され、男をますます窮地に追い遣られていった。

その時点で、男の愛人は、少年に本当のことを話すように求めるが、これが却って裏目になる。

男の無実が晴らされたとき、少年は、その証拠が事実でないことを必死に警察に弁明するのだ。

ここに至って、少年は、事実を有りの儘(まま)に話そうとしたからである。

事実を有りの儘(まま)に話すことを、男と男の愛人から促されたからでもある。

しかしもう、全て終わっていた。

少年だけが置き去りにされた物語が、呆気なく閉じられていくのである。

「事件」であると信じた警察にとって、それが単なる「事故」に過ぎないと分れば、もうそれ以上詮索する価値など存在しないのだ。

男と男の愛人にとっても、自分たちの愛が近未来に延長されるなら、「事故」についての詳細な経緯などどうでもいいことなのである。

かくて、事実を有りの儘(まま)に話すことを促され、それについて、初めて正直に話す少年だけが置き去りにされるに至ったのである。

「防衛的な嘘」に走った大人が、子供と交した「秘密の共有」が如何に脆弱であるかということ。

そして、最も肝心な事実ついての「秘密の共有」を形成していなかったということ。

即ち、本作は、このような複雑な〈状況〉の中に一人の少年を放り投げ、そこで少年に初めは嘘を、そして、それが有効性を持たなくなったとき、今度は真実を語ることを求めるという、殆ど困難なテーマを突き付けたのだ。

だから、最後だけは事実を語る少年だけが無惨に置き去りにされ、複雑な表情を見せるラストシーンに繋がったのである。

(2011年4月)

2011年3月26日土曜日

邪魔者は殺せ('47)     キャロル・リード


<「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態>



1  孤立した男



映画の原題である「ODD MAN OUT」、即ち、「孤立した男」という意味が、本作の全てを表している。

序盤の20分で、組織から「孤立した男」が、重傷を負って逃亡する暗鬱な半日を描くシークエンスの嚆矢(こうし)にシフトし、それがラストシーンにまで流れていくのだ。

「やっぱり、ジョニーには無理な仕事だったんだ」

ジョニーとは、警察の捜査網から追われる逃亡者のこと。

本作は、組織の仲間に同情されるジョニーという男の、絶望的なまでの孤立感を描く物語である。

その組織の仲間も、懸賞金目当てで信頼する女に警察に売られて、殺害されるシーンに見られるように、サスペンスフルで、冷厳なリアリズムによって貫徹される映像構成は抜きん出ていた。

以下、批評含みで、物語を追っていきたい。



2  「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態



「この映画の舞台は北アイルランドだが、体制と非合法の闘争が、テーマではない。事件に巻き込まれた人々の反応を描いたものだ」

冷厳なリアリズムの筆致と、ヒューマニズムの精神を程好く均衡させた本作のテーマは、以上の冒頭のキャプションの内に集約されるものであろう。

従って本作は、IRAの活動をテーマにしたものではない。

本作の製作時の制約もあってか、ここでは政治的なメッセージを拾い上げることはできない。

ここで描かれたのは、IRAの支部組織による資金調達のための工場襲撃を指導した男が、図らずも逃亡に失敗し、殺人事件を犯したばかりか、自らも重傷を負って逃亡する暗鬱な半日である。

このようなフィルム・ノワールのリアルな手法で表現されるとき、モノクロのフィルムに光と影が交錯する、キャロル・リード監督独特の映像宇宙が冴えまくっていく。

そして、そのフィルム・ノワールの暗鬱な半日の中で、男の出口なき逃亡行程にインボルブされた人々の行動様態や、その心理の振幅を鋭利に描き出していくのだ。

私は、ジョニーという男の逃亡行程にインボルブされたか、或いは、利益目的でそこに近接した者たちを、一応類型的に大別してみた。

以下の通りである。

1 「受容型関与」
2 「利益追求型関与」

ここで重要なのは、このIRAの殺人犯に懸賞金がかけられたことで、そこに絡んで、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として見るか否かという点である。

それが、1と2の大別の根拠である。

更に私は、逃亡者を「商品価値」として見ない1に属する人々を、「完全受容」(全人格的受容)、「倫理的受容」、「防衛的受容」と分けてみた。

当然、その逆のパターンの者が「利益追求型関与」。

まず、1の「完全受容」(全人格的受容)に該当する者は、逃亡者であるジョニーを心から愛する女性、キャスリーンの存在以外ではない。

そして、「倫理的受容」に属する象徴的人物はトム神父。

ここに、その二人の会話がある。

その経緯は、雨で濡れた路傍で倒れているジョニーを匿う浮浪者が、彼を案じる神父に金をふっかけ、売ろうとしたことだが、それを契機にした会話である。

「ジョニーを私に下さい」とキャスリーン。
「品物ではないよ」とトム神父。
「どうなさるの?」
「彼は死にかけているようだ。懺悔を聞いて、慰めてやりたい。自首を勧めるよ。仲間の所へ返したら、また、人を殺したりするだろう」
「私が遠くへ連れてって、ご迷惑をかけませんわ」
「匿う気かね?」
「はい」
「人を殺した罪を償わねばならない」
「いっそ、私の手で彼を・・・」
「それはいけないよ」
「なぜ?死刑の方が可哀想ですわ」
「君はどうなる?」
「一緒に」
「何てことを!」
「彼が捕まったら、裁判やら、処刑やら・・・とても耐えられません」

「私の力は、信仰より強いんです」と言い切って、キャスリーンは、「愛」の力で彼に寄り添い、苦悩を共有し、自らの手で殺めようとするのだ。

共に慈愛による「受容型関与」ながら、「完全受容」の女と、どこまでも「信仰」という絶対規範によって行動しようとする、「倫理的受容」の神父との対極の構図がくっきりと映し出されたシーンであった。

この説明的会話は、ラストシーンの重要な伏線になると同時に、作り手のメッセージに通じるので、最後に言及する。



3  「倫理的受容」と「排除型」の交叉、或いは「防衛的受容」について



次に、「倫理的受容」と「排除型」の交叉、或いは「防衛的受容」について。

これは、以下のようなエピソードに象徴されるもの。

中でも、手負いのジョニーを良心的に保護しようとした女性のエピソードが印象的である。

しかし、彼女の夫が帰宅した後、空気が一変する。

IRAの殺人犯と関わり合いになることを恐れる夫は、重症の逃亡者を体よく追い返そうとしたのである。

以下、緊張感溢れる夫婦の会話。

「手配中の男だぞ!何で中に入れた!」
「怪我人だと思ったのよ」
「警察が総出で捜しているテロリストだぞ」
「でも、あの状態じゃ・・・」
「会計係が殺された。罪のない人間を殺すなんて、許せん!」
「仲間を呼んでやりたいわ」
「正気か?」
「犬だって死ぬときは・・・」
「犬は人間の味方だ」
「死にかけている人に冷たくしたくないのよ」
「警察に任すがよい」
「可哀想よ」
「庇い立てすると、俺たちも疑われるぞ」
「じゃあ、あなたが追い出して」

手負いの男が逃亡犯と知った妻は、なお無力なる男に同情するのだ。

「これ以上、ご迷惑をかけません。ドアを開けて下さい」

夫婦の話を聞いていたジョニーは、そう言って、そのまま消えようとした。

厄介者を追い払うことができた安心感からか、礼を言って消えようとする男を、「待って」と止めて、その家の亭主はウィスキーを渡した。

「私のことは忘れて下さい」

そう言い残して、ジョニーは夜の闇の中に消えて行った。

街灯に照らされて、光輝く雨が降っていた。

しかし、夫婦の反応には明瞭な乖離があった事実は否めない。

それは、一貫して自己防衛的な亭主と、限りなく良心的であった妻の乖離である。

この乖離の本質は、「倫理的受容」の行動様態を身体化する妻と、自己防衛的反応に終始する亭主との乖離であると言っていい。

既に、家の中に隠れ込んだ逃亡犯を追い出す術を知らない亭主の行動様態は、「商品価値」という基軸で分けた、先の大別の類型に収斂されないが、その心理に「商品価値」を内包せずとも、限りなくそれは、「排除型」という概念によって説明し得る何かであるだろう。

この夫婦の行動様態の乖離は、「倫理的受容」と「排除型」の交叉という心理の乖離であった。

更に、馭者(ぎょしゃ)に纏(まつ)わる、こんなエピソードがあった。 

「巻き込まれたら困るんだよ」

これは、重傷で殆ど体力が切れたジョニーが、馬車に無断で乗った際に、馭者に言われた言葉。

それでもジョニーは、馭者に安全な場所まで連れて行ってもらったのである。

「仲間には俺が助けたと言ってくれ。警察には黙っててな」

ジョニーを雨の中に放り出したとき、馭者はそう言ったのだ。

この馭者の行動様態は、限りなく「排除型」の心理と切れていて、どちらかと言えば、「防衛的受容」であると言える。

その心理に、特段の「商品価値」を内包していないし、警察への通報も想像できにくいからだ。

雪の中を、一人で彷徨う男。

ジョニーはアイルランドの仲間の酒場にやって来て、酒場の主人から、「これ飲んだら、すぐ出ろ」と言われる始末だった。

この酒場の主人の行動様態こそ、「防衛的受容」の典型であったと言えるだろう。

警察に通報しないが、一時(いっとき)保護することで、自分に及ぶ迷惑だけは絶対に回避したいと願って止まないからである。



4  「利益追求型関与」の者たち



ところで、本作では、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として利用しようと振舞う男たちがいた。

私が言うところの、「利益追求型関与」の者たちである。

このIRAの殺人犯に懸賞金がかけられたことで、そこに絡んで、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として見るその象徴は、ジョニーをトム神父に売り渡そうとした浮浪者であり、その浮浪者から自分の芸術表現の完成の故に、瀕死の状態にある男の肖像を描こうとした絵描きである。

件の絵描きは、こんなことを言ってのけるのだ。

「他の奴と違う。死にかけてるんだぜ。眼が素晴らしい。精神はまだ生きている。死ぬ前の顔には何かが出るんだ」

嘯(うそぶ)く態度すら見せずに、、性急に絵を描く画家がそこにいた。

瀕死のジョニーの絶え絶えの表情から零れるイメージこそ、件の絵描きが狙う完成形の芸術表現だったのだ。

そして、その絵描きの家に滞在していた元医学生もまた、ジョニーを「商品価値」として利用しようと振舞う男だったと言える。

ジョニーを運び込んだ際の会話がある。

「応急処置して入院だ」と元医学生。
「元気にして、処刑させるのか?」と絵描き。
「消毒薬を早く持ってこい」
「影を作らないでくれ」
「何を描く気だ?」
「死ぬ前の顔には何かが出るんだ」
「誰でもな」
「出てる」
「不可解な恐ろしいものかも知れんぞ」
「俺には理解できる」
「何がだ?」
「人間の正体だ」

その手に湯の入った洗面器を持って、この会話を耳にした浮浪者は、絵描きを横に見て、訝しげに元医学生に問いかけた。

「彼は呪われている」と浮浪者。
「皆だ」と元医学生。
「歩けるようにできないか?俺が送って行くからさ」と浮浪者。

浮浪者は、トム神父の所に、ジョニーを連れて行く約束をしていたからである。

一方、元医学生は、ジョニーの命を救おうと簡単な外科治療を試みた。

しかし穿って見れば、彼の関心は、瀕死の男の生命を救うことで自分の医療技術の腕を検証し、それを病院で認知させるために、ジョニーを利用したに過ぎないようにも思えるのである。

それでも、絵を描き続ける男に輸血の必要を説いて、入院させようとする元医学生の振舞いは、医師になれなかった若者のヒューマンな思いが蘇ったと見えなくもなかったが、そのモチーフがどうであれ、彼の救命行為を「利益追求型関与」のカテゴリーに包含してしまうのは無理があるかも知れない。

また、金のない神父から、金の代りに信仰を授けると言われ、「信仰を金にすると幾らですか?」などと質問する程に無学であるが、その実は、ヒューマンな振舞いをも身体化する浮浪者もまた、単純に「利益追求型関与」のカテゴリーに包含させるのは難しいだろう。

人間は、極めて複雑な存在なのだ。

その行動様態も、多分に〈状況〉に支配されやすく、曲折的に振れやすいのである。

従って、「利益追求型関与」のカテゴリーに包含されるに最も相応しい人物は、絵描き以外ではないと言える。

彼にとって、ジョニーは格好の「商品価値」であった。

薄気味悪い設定だが、それを否定すべくもないだろう。

そんな絵描きと元医学生の口論に、浮浪者は極めて人間らしい言葉を口にした。

「言い争っている間に死んじまうぜ。聞いちゃいられないよ」

なお、口論を続ける二人。

「絵を描かすために処置したんじゃないぞ」と元医学生。
「病院で腕前を自慢するためだろう」と絵描き。
「死ぬぞ」
「静かに死なせろ」
「お前の責任だぞ」
「邪魔するな」
「見殺しにはできん」
「どうせ警察に渡すんだろう」

こんな不毛な問答を耳にしたジョニーは、朦朧(もうろう)とした意識の中で幻覚に襲われる。

そして、その幻覚の終わりにトム神父が現れて、ジョニーはそこだけは明瞭な意識の中で、神父に呼びかけたのである。

「大人になって子供の心を捨てたのです。立派な話ができても、慈悲の心がなければ虚しい言葉になってしまう。予言の才能や理解力や充分な知識があっても、山を動かす信仰があっても、慈悲の心がなければ無意味だ」

それは、瀕死のジョニーの、最初にして最後の絶叫だった。

本作は、これを言わせたいための映画だったのだ。

キャロル・リード監督
この辺りのエピソードは、キャロル・リード監督の人間観察への関心の奥行きの深さを窺わせるものであったが、些か文学的であり、過剰でもあった。

とりわけ、ジョニーの絶叫はあまりに説明的過ぎていて、冷厳なリアリズムの筆致で描き切っていた映像の均衡感を壊してしまったようにも思えるのだ。



5  「完全受容」の振れ方を自己完結したとき



そして、物語は印象的なラストシーンに流れていく。

雪の中、浮浪者に神父の所に連れて行かれるジョニー。

フラフラになって歩行するが、倒れては起き上がり、匍匐(ほふく)のような歩行を繋いでいく。


そしてキャスリーンと再会し、彼女に抱えられながら、ジョニーはなお、朦朧(もうろう)とした意識の中で歩行を繋いでいる。

「まだか・・・」とジョニー。
「うんと遠い所に行くのよ。一緒にね」とキャスリーン。

もはや救えないと覚悟したキャスリーンの拳銃によって、ジョニーは「道行き」の死を遂げるのだ。

雪に埋もれた路傍に、二つの遺体が寄り添っていた。

「いっそ、私の手で彼を・・・」

そう語っていたキャスリーンの言葉が具現したとき、「完全受容」(全人格的受容)を身体化する彼女の行動様態は、このような状況下にあって、それ以外にない振れ方を自己完結してしまったのである。



6  冷厳なリアリズムの筆致で描き切った映像的価値



人間は、自分の意志と無縁であるか否かに関わらず、「非日常」の時間を開いたとき、実に様々な行動様態を身体化する。

或る者は、「善」という名の「道徳的質の高さ」を身体化し、また或る者は、限りなく自己防衛的に振れていく。

その振れ方が過剰になったとき、人間は、「非日常」の起因となった特定他者への排除に動くのだ。

多くの場合、自己防衛的であるか、或いは、排除的な振舞いを身体化するか、そのいずれかの内に収斂される行動様態を具現化するに違いない。

更に、特定他者に対する「商品価値」を見い出して、利益追求的な行動様態を晒すような、極めてグロテスクな風景を剥き出しにする者たちもいるだろう。

本作では、特定他者に対して、「倫理的受容」の行動様態の生き方を挿入することで、作り手特有ののヒューマニズムの表現を代弁させていた。

それらを、冷厳なリアリズムの筆致で描き切った本作の映像的価値は決して低くはない。

傑作であると言っていい。

前述したように、グロテスクなシーンの挿入が些か気になったが、それでも、「非日常」の時間の侵入を受けたときの人間の行動と、その心理の振幅を、モノクロの暗鬱なフィルムに刻み付ける物語構成には、決定的な破綻は全く見られなかった。

第三の男」に継承されていく作り手の、その本来の力量が深く記憶された一篇だった。


(2011年4月)

2011年3月23日水曜日

第三の男('49)       キャロル・リード


<「戦勝国」という記号によって相対化された者たちとの、異なる世界の対立の構図>



1  「闇の住人」の視線を相対化する映像構成



時代の大きな変遷下では、秩序が空白になる。

空白になった秩序の中に、それまで目立たなかったような「闇」が不気味な広がりを見せていく。

「闇」は不安定な秩序を食い潰して、いつしか秩序のうちに収斂し切れないモンスターと化していくのだ。

モンスターと化した「闇」と、不安定だが、それなしに時代を拓き得ない秩序が「闇」の稜線の広がりの中で、暴力的形態を露わにした物理的な戦闘による相剋を不可避にしてしまうのである。

本作の舞台となったウィーンは、そんな不安定で、据わりが悪い時代の象徴とも言える闇深き都市だった。

アンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)下のウィーンは首都機能を失っていたが、第二次世界大戦による敗北によって、米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれるに至った。

分割統治の困難さの中では、当然の如く、治安状態は劣悪で、各国も自国の利益優先に振れていく。

時代の急激な変化によって生まれた「闇」の世界では、ルールの形成は未成熟である。

「闇」の世界の住人の尖ったエゴイズムは、不安定な秩序の切れ端に縋って生きる者の生き血を吸い、それを消費する。

「闇の住人」から見れば、他者の存在は、全て消費の対象でしかないのだ。

消費し尽してもなお、「闇の住人」の自我の安寧の空洞を埋めるために、少しでも、信頼するに足る「仲間」を求める心理も了解可能である。

「闇の住人」に求められた男の、限りなく客観的な視線から描かれる物語の構造は、一貫して、「闇の住人」の視線を相対化する映像構成を貫流させていた。

驚くほどシンプルなサスペンスドラマでありながら、本作の成功は、物語の視線を「闇」とは無縁な国からやって来た男の視線によって描くことで、「闇の住人」の世界の怖さを炙り出したことに因るだろう。

本作で登場する人物の中で、明瞭な「キャラクター性」を持たされた者は、3人に限定されていた。


ホリー・マーチンス(以下、ホリー)、ハリー・ライム(以下、ハリー)、アンナ・シュミット(以下、アンナ)である。(画像)

このホリ―こそ、「闇」と無縁な国であるアメリカからやって来た三文作家。

そのホリ―を、ウィーンに呼んだ「闇の住人」がハリー。

そのハリーによって生き血を吸われ、消費されただけの女がアンナである。

以下、稿を変えて言及していく。



2  「戦勝国」という記号によって相対化された者たちとの、異なる世界の対立の構図



ホリ―は、無二の親友であると信じるハリーの世界にやって来るが、そのハリーは既に事故死していた。

それは、英軍統治下で起こった事故死であったが、英軍のMP(キャロウェイ少佐)から聞かされるハリーの実像が、「闇の住人」であることを知らされるに至っても、ホリ―は俄(にわ)かに信じられなかった。

キャロウェイ少佐から、ハリーは薄めたペニシリンの闇取引で悪銭を稼ぐ犯罪者だと告げられたが、その話を信じ切れないホリ―は、ハリーへの友情の思いから事故死の真相究明を決意した。

ところが、ハリー事故死の謎を解く、如何にも素人臭い自己流の捜査の中で、あろうことか、生存するハリーと遭遇してしまったのである。

それは、単なる一つの事故が、「事件」と化した瞬間である。

同時にそれは、「闇の住人」であるハリーの実態を、ホリ―が目の当たりにする由々しき現実を意味していた。

以下、観覧車の中での、緊張感溢れる二人の有名な会話。

「見ろ。点の一つが見えるだけだ。1点につき2万ポンド払うと言ったら断るか。幾つの点を救えるかなんて数えるか。所得税も掛らない。絶好の金儲けさ」

観覧車から俯瞰する地上の風景を見て、人間を一つの「点」としか考えない、ハリーという「闇の住人」がそこにいる。

「刑務所で使え」とホリ―。
「証拠と言えば君だけ」とハリー。
「楽に消せるか?」
「簡単さ」
「そうかな?」
「銃がある。落下死なら、傷など調べない」
「掘り返されてた」

このホリ―の最後の言葉の意味は、ハリーと遭遇した事実を、キャロウェイ少佐に報告したことで、英軍の捜索班がハリーと思われていた墓を掘り返し、そこで埋葬されていた遺体が、行方不明になっていた男である事実が判明した経緯を指すもの。

それ故、ハリーは、自分を裏切ったホリ―の行為が許せないのだ。

「どうかしている。いがみ合うのは止そう。妙なことに首を突っ込むからさ。誰も人類のことなんか考えてない。政府は口を開けば、“人民”などと。俺の“ゲス野郎”と同じさ。“5カ年計画”ぐらい俺にだってある」
「信仰心は?」
「変わってないよ。神も慈悲も信じているけど、死んだ方が幸せだ。ここじゃ、死者を悼まない」
「アンナを守ってやってくれ。良い女だ」

二人は、ここで観覧車を降りた。

ホリーには、アンナのことが気になって仕方ないのである。

しかしハリーには、女のことなど眼中にないようだった。

「ホリー。手伝ってくれ。信頼できる仲間がいないんだ。決心したら連絡をくれ。警官だけは連れて来るな。イタリアでは、ボルジア統治の間、血の雨が降り続いた。ミケランジェロやダヴィンチも輩出。スイスには同胞愛。500年の民主主義と平和が生んだのは、ハト時計」

映画史に残るという、その有名な言葉を残して、ハリーは去って行った。

「点の一つ」、「スイスのハト時計」という、ここでのハリーの、人口に膾炙(かいしゃ)した物言いは、殆ど説明不要な、自己を正当化するための詭弁でしかないのは了解し得るだろう。

ともあれ、この会話によって、ホリ―がハリーの誘いに乗る訳がないのは当然のことだった。

なぜなら、彼は「闇」と無縁な国であるアメリカ人であるからだ。

ここで言う「アメリカ人」とは、第二次大戦での最大の「戦勝国」である国家の国民であることを意味している。

ヨーロッパの国民国家とは異なって、移民から成り立つ「アメリカ」という国民国家は、「戦勝国」という重要な記号そのものであり、その国家の国民である「アメリカ人」もまた、深い「闇」に埋もれたウィーンという特別の都市に住む者たちを相対化する、一種の記号性の意味を含む何かであると言っていい。

その文脈で言えば、アメリカと同様に、英国という「戦勝国」の軍人であるキャロウェイ少佐から、ウィーンに巣食う「闇の住人」たちが髄膜炎の子にまでペニシリンを打つ事実を知らされることで、「闇」と無縁な国であるアメリカ人であるホリーが、ハリーと訣別するに至るのは必然的だった。

先の会話に戻るが、ハリーと直接対決したホリーが、「アンナを守ってやってくれ」と言わざるを得なかったのは、言わずもがな、ハリーによって生き血を吸われ、消費されただけの女であるアンナへの想いが仮託されている。

既に、アンナへの同情心も手伝って、彼女と行動を共にする関係を開いていたホリ―が、彼女の美貌に惹かれていったのも自然な流れであった。

何より、チェコスロバキアからの不法入国者であった彼女が、そのチェコを占領していたソ連から、本国に強制送還される不幸から守るための尽力を、ホリ―は惜しまなかった。

アンナ
アンナもまた、「闇」と地続きの世界に住んでいたのである。

この3人の関係構造の決定的な落差は、「闇」と無縁な国の住人であるホリ―と、「闇の住人」であるか、それとも、「闇」と地続きな世界に住んでいた者との落差であって、それは、全く異なる世界の対立の構図であると言えるだろう。

それ故にこそ、ホリ―が不安定な秩序の統括を委ねられた英軍の側に、そのスタンスを預けたのは当然だったのだ。



3  交叉する関係だけが揺れ動いただけの物語



「闇の住人」であるハリーは、不安定な秩序が復元していく過程の中で、そのパワーを劣化させ、自滅していく運命を回避できなかった。

彼は「闇の住人」に相応しく、最も光の届かない下水道で自壊するに至るのだ。

彼を撃ち抜いたのは、「闇」と無縁な国の住人であるホリ―だった。

一人残されたアンナは、本作の中で二度にわたって不幸を背負うに至る。

一度目は、惚れた男の架空の事故死によって。

二度目は、その男の生存を知って悦んだのも束の間、その男からの愛情を享受することなく、単に消費の対象でしかなかったことを改めて認知したこと。

しかも、彼女は二人の男に裏切られた。

一人はハリーだが、もう一人は、そのハリーの事故死の真相を捜索するために、協力的に動いたホリ―によって。

しかし、彼女は変わらない。

ハリーを想う彼女の気持ちは、最後まで変わらないのだ。

それは、自分に対するハリーの感情の有りようを感受していたからに違いない。

だから彼女には、ホリ―に対するほど、ハリーに裏切られたという思いは存在しないのである。

ハリーもまた、最後まで変わらない。

二人とも、「闇」が包み込む世界と切れることはなかったのだ。

本作の中で、一人、ホリ―だけが変わったのである。

しかしそれは、他の二人との関係の相対性においてであって、それ以外ではなかった。

「闇」と無縁な国の住人である男は、こうして、男が待つ平和な世界に帰って行くだろう。

彼もまた、本質的には全く変容を遂げていないのである。

ただ、三人が交叉する関係だけが揺れ動いただけであり、それは何より、両者が住む世界が根本的に異なっていたに過ぎないのだ。

変わらない女は、変わったと断じる男を振り向きもせず、落ち葉の絨毯を敷き詰めた冬枯れの道を、寸分違わぬ彼女の律動感で、凛として歩き去っていく。

男だけがそこに置き去りにされたが、それは元々、深く睦み合う関係に成り得なかった者同士が、いつか辿り着くだろう文脈をなぞっていったに過ぎなかった。

だから、女は男を捨てたのではない。 

女は初めから、「闇」と無縁な国に住む男の一方的な想いを拾い上げていないのだ。

思えば、アンナは、男をハリーと呼んでしまうことが度々あった。

その度に、男はアンナに、「ホリーと呼んでくれ」と訂正させる始末だったのである。

このエピソードに象徴されるように、女は、男の異性的存在性を自分の懐(ふところ)のうちに受容することをしなかったのだ。

男もまた、女の懐の中に最後まで入り込めなかった。

自分を裏切ったハリーへの女の想いの深さが、容易に変らない現実を認知できていたからだ。

そんな二人の会話。

「少佐と会ったのね」とアンナ。
「逮捕する手助けを頼まれて、承諾した」とホリー。
「可哀想・・・」
「ハリーか?」

一瞬、「間」ができた。

「奴は君がどうなろうと、気にも留めない」とホリー。
「誠実なあなたとは正反対」とアンナ。
「まだ、彼を?」
「未練なんてないわ。でも、まだ私の一部なの。無碍(むげ)にはできない」

再び、「間」ができた。

「なぜ、俺たちは言い争いを?」
「あなたの企てには手を貸したくない。彼を愛した私たちは、何をしてあげられたの?何を・・・裏切り者の 顔を鏡で見るといいわ」

こう言い捨てて、女は去って行く。

「まだ私の一部なの」と言い切る女は、当然、「未練なんてないわ」という「私の一部」を「無碍にはできない」のだ。

それでも男は、せめて別れの挨拶だけでも受容して欲しかった。

受容した後、男は帰国していくだろう。

それでもいいのだ。

悔いを残すことのない帰国を果たしたいのである。

しかし、悔いを残すことになったラストカットの余情が、観る者の心の襞(ひだ)に触れたとき、本作は永遠の名作として語り継がれることになっていった。

「闇の住人」と化した瞬間に、無国籍者になった男がいた。

無国籍者になった男と、地続きな世界に住んでいた女がいた。

国籍を持っていた三文作家だけが、戻るべき場所である平和な世界に帰って行くのだ。

こうして、交叉する関係だけが揺れ動いただけの物語が閉じていったのである。


(2011年3月)