<「戦勝国」という記号によって相対化された者たちとの、異なる世界の対立の構図>
1 「闇の住人」の視線を相対化する映像構成
時代の大きな変遷下では、秩序が空白になる。
空白になった秩序の中に、それまで目立たなかったような「闇」が不気味な広がりを見せていく。
「闇」は不安定な秩序を食い潰して、いつしか秩序のうちに収斂し切れないモンスターと化していくのだ。
モンスターと化した「闇」と、不安定だが、それなしに時代を拓き得ない秩序が「闇」の稜線の広がりの中で、暴力的形態を露わにした物理的な戦闘による相剋を不可避にしてしまうのである。
本作の舞台となったウィーンは、そんな不安定で、据わりが悪い時代の象徴とも言える闇深き都市だった。
アンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)下のウィーンは首都機能を失っていたが、第二次世界大戦による敗北によって、米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれるに至った。
分割統治の困難さの中では、当然の如く、治安状態は劣悪で、各国も自国の利益優先に振れていく。
時代の急激な変化によって生まれた「闇」の世界では、ルールの形成は未成熟である。
「闇」の世界の住人の尖ったエゴイズムは、不安定な秩序の切れ端に縋って生きる者の生き血を吸い、それを消費する。
「闇の住人」から見れば、他者の存在は、全て消費の対象でしかないのだ。
消費し尽してもなお、「闇の住人」の自我の安寧の空洞を埋めるために、少しでも、信頼するに足る「仲間」を求める心理も了解可能である。
「闇の住人」に求められた男の、限りなく客観的な視線から描かれる物語の構造は、一貫して、「闇の住人」の視線を相対化する映像構成を貫流させていた。
驚くほどシンプルなサスペンスドラマでありながら、本作の成功は、物語の視線を「闇」とは無縁な国からやって来た男の視線によって描くことで、「闇の住人」の世界の怖さを炙り出したことに因るだろう。
本作で登場する人物の中で、明瞭な「キャラクター性」を持たされた者は、3人に限定されていた。
ホリー・マーチンス(以下、ホリー)、ハリー・ライム(以下、ハリー)、アンナ・シュミット(以下、アンナ)である。(画像)
このホリ―こそ、「闇」と無縁な国であるアメリカからやって来た三文作家。
そのホリ―を、ウィーンに呼んだ「闇の住人」がハリー。
そのハリーによって生き血を吸われ、消費されただけの女がアンナである。
以下、稿を変えて言及していく。
2 「戦勝国」という記号によって相対化された者たちとの、異なる世界の対立の構図
ホリ―は、無二の親友であると信じるハリーの世界にやって来るが、そのハリーは既に事故死していた。
それは、英軍統治下で起こった事故死であったが、英軍のMP(キャロウェイ少佐)から聞かされるハリーの実像が、「闇の住人」であることを知らされるに至っても、ホリ―は俄(にわ)かに信じられなかった。
キャロウェイ少佐から、ハリーは薄めたペニシリンの闇取引で悪銭を稼ぐ犯罪者だと告げられたが、その話を信じ切れないホリ―は、ハリーへの友情の思いから事故死の真相究明を決意した。
ところが、ハリー事故死の謎を解く、如何にも素人臭い自己流の捜査の中で、あろうことか、生存するハリーと遭遇してしまったのである。
それは、単なる一つの事故が、「事件」と化した瞬間である。
同時にそれは、「闇の住人」であるハリーの実態を、ホリ―が目の当たりにする由々しき現実を意味していた。
以下、観覧車の中での、緊張感溢れる二人の有名な会話。
「見ろ。点の一つが見えるだけだ。1点につき2万ポンド払うと言ったら断るか。幾つの点を救えるかなんて数えるか。所得税も掛らない。絶好の金儲けさ」
観覧車から俯瞰する地上の風景を見て、人間を一つの「点」としか考えない、ハリーという「闇の住人」がそこにいる。
「刑務所で使え」とホリ―。
「証拠と言えば君だけ」とハリー。
「楽に消せるか?」
「簡単さ」
「そうかな?」
「銃がある。落下死なら、傷など調べない」
「掘り返されてた」
このホリ―の最後の言葉の意味は、ハリーと遭遇した事実を、キャロウェイ少佐に報告したことで、英軍の捜索班がハリーと思われていた墓を掘り返し、そこで埋葬されていた遺体が、行方不明になっていた男である事実が判明した経緯を指すもの。
それ故、ハリーは、自分を裏切ったホリ―の行為が許せないのだ。
「どうかしている。いがみ合うのは止そう。妙なことに首を突っ込むからさ。誰も人類のことなんか考えてない。政府は口を開けば、“人民”などと。俺の“ゲス野郎”と同じさ。“5カ年計画”ぐらい俺にだってある」
「信仰心は?」
「変わってないよ。神も慈悲も信じているけど、死んだ方が幸せだ。ここじゃ、死者を悼まない」
「アンナを守ってやってくれ。良い女だ」
ホリーには、アンナのことが気になって仕方ないのである。
しかしハリーには、女のことなど眼中にないようだった。
「ホリー。手伝ってくれ。信頼できる仲間がいないんだ。決心したら連絡をくれ。警官だけは連れて来るな。イタリアでは、ボルジア統治の間、血の雨が降り続いた。ミケランジェロやダヴィンチも輩出。スイスには同胞愛。500年の民主主義と平和が生んだのは、ハト時計」
映画史に残るという、その有名な言葉を残して、ハリーは去って行った。
「点の一つ」、「スイスのハト時計」という、ここでのハリーの、人口に膾炙(かいしゃ)した物言いは、殆ど説明不要な、自己を正当化するための詭弁でしかないのは了解し得るだろう。
ともあれ、この会話によって、ホリ―がハリーの誘いに乗る訳がないのは当然のことだった。
なぜなら、彼は「闇」と無縁な国であるアメリカ人であるからだ。
ここで言う「アメリカ人」とは、第二次大戦での最大の「戦勝国」である国家の国民であることを意味している。
ヨーロッパの国民国家とは異なって、移民から成り立つ「アメリカ」という国民国家は、「戦勝国」という重要な記号そのものであり、その国家の国民である「アメリカ人」もまた、深い「闇」に埋もれたウィーンという特別の都市に住む者たちを相対化する、一種の記号性の意味を含む何かであると言っていい。
その文脈で言えば、アメリカと同様に、英国という「戦勝国」の軍人であるキャロウェイ少佐から、ウィーンに巣食う「闇の住人」たちが髄膜炎の子にまでペニシリンを打つ事実を知らされることで、「闇」と無縁な国であるアメリカ人であるホリーが、ハリーと訣別するに至るのは必然的だった。
先の会話に戻るが、ハリーと直接対決したホリーが、「アンナを守ってやってくれ」と言わざるを得なかったのは、言わずもがな、ハリーによって生き血を吸われ、消費されただけの女であるアンナへの想いが仮託されている。
既に、アンナへの同情心も手伝って、彼女と行動を共にする関係を開いていたホリ―が、彼女の美貌に惹かれていったのも自然な流れであった。
何より、チェコスロバキアからの不法入国者であった彼女が、そのチェコを占領していたソ連から、本国に強制送還される不幸から守るための尽力を、ホリ―は惜しまなかった。
アンナ |
この3人の関係構造の決定的な落差は、「闇」と無縁な国の住人であるホリ―と、「闇の住人」であるか、それとも、「闇」と地続きな世界に住んでいた者との落差であって、それは、全く異なる世界の対立の構図であると言えるだろう。
それ故にこそ、ホリ―が不安定な秩序の統括を委ねられた英軍の側に、そのスタンスを預けたのは当然だったのだ。
3 交叉する関係だけが揺れ動いただけの物語
「闇の住人」であるハリーは、不安定な秩序が復元していく過程の中で、そのパワーを劣化させ、自滅していく運命を回避できなかった。
彼は「闇の住人」に相応しく、最も光の届かない下水道で自壊するに至るのだ。
彼を撃ち抜いたのは、「闇」と無縁な国の住人であるホリ―だった。
一人残されたアンナは、本作の中で二度にわたって不幸を背負うに至る。
一度目は、惚れた男の架空の事故死によって。
二度目は、その男の生存を知って悦んだのも束の間、その男からの愛情を享受することなく、単に消費の対象でしかなかったことを改めて認知したこと。
しかも、彼女は二人の男に裏切られた。
一人はハリーだが、もう一人は、そのハリーの事故死の真相を捜索するために、協力的に動いたホリ―によって。
しかし、彼女は変わらない。
ハリーを想う彼女の気持ちは、最後まで変わらないのだ。
それは、自分に対するハリーの感情の有りようを感受していたからに違いない。
だから彼女には、ホリ―に対するほど、ハリーに裏切られたという思いは存在しないのである。
二人とも、「闇」が包み込む世界と切れることはなかったのだ。
本作の中で、一人、ホリ―だけが変わったのである。
しかしそれは、他の二人との関係の相対性においてであって、それ以外ではなかった。
「闇」と無縁な国の住人である男は、こうして、男が待つ平和な世界に帰って行くだろう。
彼もまた、本質的には全く変容を遂げていないのである。
ただ、三人が交叉する関係だけが揺れ動いただけであり、それは何より、両者が住む世界が根本的に異なっていたに過ぎないのだ。
変わらない女は、変わったと断じる男を振り向きもせず、落ち葉の絨毯を敷き詰めた冬枯れの道を、寸分違わぬ彼女の律動感で、凛として歩き去っていく。
男だけがそこに置き去りにされたが、それは元々、深く睦み合う関係に成り得なかった者同士が、いつか辿り着くだろう文脈をなぞっていったに過ぎなかった。
だから、女は男を捨てたのではない。
女は初めから、「闇」と無縁な国に住む男の一方的な想いを拾い上げていないのだ。
思えば、アンナは、男をハリーと呼んでしまうことが度々あった。
その度に、男はアンナに、「ホリーと呼んでくれ」と訂正させる始末だったのである。
このエピソードに象徴されるように、女は、男の異性的存在性を自分の懐(ふところ)のうちに受容することをしなかったのだ。
男もまた、女の懐の中に最後まで入り込めなかった。
自分を裏切ったハリーへの女の想いの深さが、容易に変らない現実を認知できていたからだ。
そんな二人の会話。
「少佐と会ったのね」とアンナ。
「逮捕する手助けを頼まれて、承諾した」とホリー。
「可哀想・・・」
「ハリーか?」
一瞬、「間」ができた。
「奴は君がどうなろうと、気にも留めない」とホリー。
「誠実なあなたとは正反対」とアンナ。
「まだ、彼を?」
「未練なんてないわ。でも、まだ私の一部なの。無碍(むげ)にはできない」
再び、「間」ができた。
「なぜ、俺たちは言い争いを?」
「あなたの企てには手を貸したくない。彼を愛した私たちは、何をしてあげられたの?何を・・・裏切り者の 顔を鏡で見るといいわ」
こう言い捨てて、女は去って行く。
「まだ私の一部なの」と言い切る女は、当然、「未練なんてないわ」という「私の一部」を「無碍にはできない」のだ。
それでも男は、せめて別れの挨拶だけでも受容して欲しかった。
受容した後、男は帰国していくだろう。
それでもいいのだ。
悔いを残すことのない帰国を果たしたいのである。
しかし、悔いを残すことになったラストカットの余情が、観る者の心の襞(ひだ)に触れたとき、本作は永遠の名作として語り継がれることになっていった。
「闇の住人」と化した瞬間に、無国籍者になった男がいた。
無国籍者になった男と、地続きな世界に住んでいた女がいた。
国籍を持っていた三文作家だけが、戻るべき場所である平和な世界に帰って行くのだ。
こうして、交叉する関係だけが揺れ動いただけの物語が閉じていったのである。
(2011年3月)
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