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2009年4月8日水曜日

ノーカントリー('07)     コーエン兄弟


<「世界の現在性」の爛れ方を集約する記号として>



1  恐怖ルールを持つ男



個人が帰属する当該社会に遍く支持されている規範(ルール)、それを「道徳」と呼ぶ。

この道徳的質の高さを「善」と定義しても間違いないだろう。

しかしそれらは、どこまでも「やって欲しいこと」と「やって欲しくないこと」を内的強制力、内面的原理として成立し得る概念である。

そこでの規範を大きく逸脱する者は社会から心理的又は、しばしば物理的に排除されることによって、当該社会、或いは、共同体を維持する秩序からの身体的逸脱の行程を余儀なくされるかも知れない。

それでも逸脱した者の行動の自由は、本人がなお選択的に保障される範疇にあるだろう。

その逸脱者が帰属すると信じた生活圏から石を持って追われたにしても、別の生活圏に移動すれば、また新たな自己基準に則った人生を拓いていけば良いだけのことである。

ところが、人々の行動規範を外的強制力によって縛る「法律の体系」というものが、この世に存在する。

それが内的強制力、或いは、内面的原理としての「道徳」や「善」という概念と切れているのは、人々の自由の範疇を規定し、縛ることによって、それを逸脱した者に対して、一定のペナルティを課す可能性に関わる権力性を保有しているからである。

言わずもがなのことだが、社会秩序を維持するために強制される規範に基づくこの権力性の下で、人々の安定的な秩序が維持されるのである。

その発現様態において、しばしば暴力性を内包するその権力体系によって守られている人々を「国民」と呼び、その「国民」を守っている権力体系を「国家」と呼ぶ。

「主権」、「領土」、「国民」によって成る「国家」は、「国民」に守るべき行動規範を強制し、当然の如く、特別のケースを除いて、何人もその例外を許容することはないのだ。

それ故にこそと言うべきか、「法律の体系」という外的強制力によって、「国家」が「国民」に強いる行動規範を特定的に切り取って、特定的に切り捨る行為を身体化する者が存在するとしたら、その者を我々は「犯罪者」と呼ぶ以外にないだろう。

そしてその「犯罪者」の内側に、その特定的な行動規範が凛として存在し、そこに一片の躊躇や逡巡もなく、自らが拠って立つ自己完結的な存在性それ自身によって、あっという間に空気を変色してしまう決定力をいとも簡単に身体化させしめる、その圧倒的な支配力を目の当たりにさせられるその不気味さに対して、私たちは一体何と形容すべきなのか。

ここに一人の男がいる。

この男は、「アメリカ」という帝国的な「国家」による外的強制力の一部分を、堅固に守る律儀な性格を持ち合わせていたために、予測し難い交通事故に遭遇し、大怪我をしてしまう。交通ルールをきちんと守って走行する男の車に、一時停止を無視した車が衝突し、その結果、腕の骨が皮膚から飛び出る重傷を負ってしまうのである。

一命を取り留めた男は、子供にシャツを売ってもらって腕を吊り、そのまま、まるで何事もなかったかのようにして、平然とその場所から去っていくのだ。

このカットが、際立って毒気の強い映像における、この男の最後の「雄姿」を伝える描写となった。

律儀なまでの男の規範意識は、全て内側から組織されてきたものだ。

その行動規範に則って行動し、生きてきたに違いないのだが、多くの場合、「国家」が強いる法体系という名の重要な行動規範を無視したことによって、男は無慈悲な殺人鬼と呼ばれ、なお捕縛されずに自己基準によってこれからも動いていくのであろう。

交通事故に遭う直前に、男は自分のルールに則って、命を請う振舞いを見せたかのような若い女性を殺害してきたばかりなのである。

このシーンが、映像を通して、男が最後に「記録」した殺人となったが、実はそれ以前にも、何人もの罪なき人々や同類の犯罪者が、この男によって絶命させられてきているのだ。

肝心な部分での心理描写を半ば確信的に捨てたであろうこの恐るべき映像は、この男によって一貫して支配され、リードされていて、観る者は否が応でも、男の堅固な行動規範の超越性を見せつけられていくのである。

男は人生を、コインの表か裏によって判断する賭けごとのように考えている。

男が投げたコインが表と出るか裏と出るか、その結果によって、男が命令した相手の生死をも決定づけてしまうのだ。

先の若い女性(男によって追跡された、ベトナム帰還兵の女房)の前に、まるで予約された悪霊のようにして出現した男は、そのときもまた、女に自分の生死をコインで判断させようとしたのである。

以下、そのときの二人の会話。

「私を殺しても意味はない」
「だが約束した。お前の亭主に」
「主人に私を殺すと約束したの?」
「彼には君を救う機会があった。だが、君を使って助かろうとした」
「それは違うわ。そうじゃない。殺す必要はないわ」
「皆、同じことを言う」
「どう言うの?」
「“殺す必要はない”」
「本当よ」
「せめてこうしうよう。表か裏か」
「・・・決めるのはコインじゃない。あなたよ」
「コインと同じ道を俺は辿った」 

最後の男の言葉は意味深だったが、ともあれ、映像はその殺人現場を映し出さなかった。

しかし、女の家を出た後の男の仕草(血糊が付いたであろう靴を地面に叩く)によって女が殺害されたことを、観る者は認知するのである。

勿論、男の仕草がなくても、男が女を殺害したであろうことは、本作と付き合ってきた鑑賞者には了解し得るだろう。

なぜなら、男はコインによって相手の生死を決定づけるという恐怖ルールを、決して反古にしないことを知り得るからである。

大体、男の独自で畏怖すべきルールの基幹には、「犯行現場で自分の顔を見た者」と「自分の命令に逆らった者」、「自分の行動継続に邪魔になる存在」は必ず殺すという行動規範が厳として存在するのである。女もまた、自分が与えたコイントスの「チャンス」を拒否したから、殺害される運命から逃れられなかったのだろう。

人生は賭けごとであるが故に、人は誰でも、これまでずっと賭け続けてきた歴史を持つという認識が男の内側で前提化されているから、男によって与えられたと信じさせるに足るコイントスの「チャンス」を、相手の恣意性によって拒むことは決して許されないのである。

コインで相手の生死を決定づける描写は、本作の20分後にあった。

ガソリン代を支払う際の、男と雑貨店主の会話がそれである。

以下、少し長いが、本作の本質を集約したかのようなこのシーンの重要性を無視できないので、5分間にも及ぶその不条理なる会話を再現してみよう。

「途中、雨に降られました?」と主人。
「どの道で?」と男。
「ダラスからでしょう?」
「どこから来たか、お前に関係あるか?」
「意味はありません」
「意味はない?」と男。
「ただの世間話です。それで頭に来るのならどうしたらいいか…他に何か?」と主人。

この辺りから、自分の対話相手が尋常な人間ではないことを感受するが、相手によって偶発的に作られた状況から、如何にも人の良さそうな老主人は出口のない袋小路に捕捉されてしまうのである。

「さあ、あるかな?」と男。
「気に入りません?」と主人。
「何が?」
「何でも」
「“気に入らないことがあるか”と俺に聞くのか?」
「他に何か?」
「さっき聞いたよ」
「そろそろ店を閉めるので」
「店を閉める?何時に?」
「今です」
「だから何時に閉める?」
「普通は暗くなる頃に」
「何を言ってるんだ?」
「はい?」と主人。
「何を言ってるか、分ってないだろ?」と男。

厄介な相手を満足させ得る適切な答えが見つからず、老主人は困惑し切った表情を露わにするばかりである。

「何時に寝るんだ?」と男。
「はい?」
「耳が悪いのか?お前は何時に寝るんだ?」と男。
「大体、9時半頃だと思います」
「その頃、また来る」
「なぜです?閉店するのに」
「聞いたよ」
「もう閉店します」
「裏の家に住んでいるのか?」と男。
「ええ、そうです」
「生まれた時から?」
「以前、ここは女房の父親のものでした」
「財産目当ての結婚か?」
「長いことテンプルに住んでいました。子供を育てたのもテンプルで、ここに来たのは4年前」
「財産目当てか?」
「そう言うなら…」
「俺がどう言おうと、それは事実だろうが」と男。

男は菓子の包み紙を握りつぶし、テーブルの上に置いた。

「過去にコインの投げの賭けで、負けて失った一番大きいものは何だ?」と男。
「さあ、分りません」と主人。
「当てろ」
「私が?…何を賭けて?」
「いいから」
「表か裏を言う前に何を賭けるかを…」と主人。
「お前が言うんだ。俺が言ったらフェアじゃない」と男。
「何も賭けていません」
「いや、賭けたよ…お前はずっと賭け続けてきた。このコインの発行年は?」
「さあ」
「1958年。22年旅をして、これは今、ここにある。表か裏か、どっちか言え」
「勝ったら、何をもらえるんです?」
「全てだ」
「と言うと?」
「勝てば全てが得られる」と男。
「それでは…表です」と主人。
「・・・よく当てた。・・・ポケットにしまうな、それは幸運のコインだ」
「どこに入れたら?」
「ポケット以外だ。ただのコインと交ざってしまう・・・ただのコインだが」

絶対に口答えが許されない恐怖と、相手を満足させるに足る答えが見い出せない恐怖が、そこにあった。

この映像と、ファーストシーンにおける保安官補殺しの描写によって、本作がこれまでのカテゴリーに収まらない種類の映像であることが判然とするであろう。

それ故に、映像に対峙する態度として、観る者に相当の覚悟を括ることが求められてしまうのである。

観る者にも了解し得たであろうが、この描写の後、男は年老いた店主を殺害しなかった。殺害できなかったのである。

自らの運命を決めるコイントスの「勝負」に、老店主が「勝利」したからである。

男の行動規範の中には、「偶然性」という要素が重要な条件になっていること ―― 少なくとも、映像の鑑賞者にはそれだけは認知し得るのである。

それにしても、この雑貨店の主人との意味のない会話の不気味さに、観る者は驚きを禁じ得ないだろう。

この厄介な男には、人間的感情を含んだ会話というものが成立しないようなのだ。

そんな厄介な男の、冷静過ぎる乾燥した凶暴さは、本作のファーストシーンで如実に表現されていた。

保安官補に逮捕された男が、保安官事務所で待機させられているとき、男は手錠を嵌められた腕を保安官補の後ろから回して、力の限り首を絞めたのである。

絞めて、絞めて、なお絞め続けて、男は遂に若い保安官補を絞殺してしまったのだ。

この震撼すべきシーンに、作り手は一分間もの時間を使っている。

この描写が、本作における男の本質を的確に表現する描写になっていくことを、観る者は認知することになるのだが、同時にこの映像が、一貫して音楽を必要としない作品であることをも了解するに至るだろう。

更に、この男が映像を支配し切ってしまう予感をも感受するに違いない。

観る者のそのような感受性の構えが、この作品の怖さを予約してしまうのである。



2  敵愾心の感情を無化されてしまうような恐怖感



では、この映画の怖さとは、一体何だろうか。

二つある、と私は思う。

一つは絶対に死なないだろうと思わせる犯罪者が、決して諦めることなく、自分を追い続けて来ることの怖さ。

もう一つは、世間一般のごく普通の行動規範が全く通じない怖さであって、この怖さこそ、雑貨店主に象徴される、映像の中で善良そうな人々が目の当たりにした怖さであると言っていい。

真の怖さとは、相手に憎悪や敵愾心の感情すらも無化されてしまうような恐怖感なのである。

そんな怖さを画面一杯に体現させた男こそ、これまで本稿で言及してきた、アントン・シガーという名前を持つ殺し屋だった。

本稿では単に「男」と呼んできたが、この「アントン・シガー」という名前は、殆ど記号以外の何ものでもないだろう。この男の人格をサイコパスという概念に当て嵌めることが難しいほど、男は一切を超越しているのだ。

彼は「羊たちの沈黙」のレクター博士の分類の内に当て嵌めるのも無理があるし、かつて高い評価を得た同じ作り手による、「ファーゴ」という作品に出てくる凶暴な大男の人格の範疇に含めることすら困難であるだろう。なぜなら、彼らには他者のそれと異なる感情の、それなりの振幅が見られるからである。

ところが、本作の男には人間的感情のターミネーターであり、殺人マシーンであり、言ってみればジム保安官が呟いた「幽霊」のような存在に近い何かである。

事件現場に平然と戻って来る犯人の異常性について、地元の保安官に問われたジムは、一言、こう呟いたのだ。

「異常者じゃない。“幽霊みたいなもんだ”と思うときがあるよ」

事件の闇に肉薄できない苛立ちを、「人が敬語を使わなくなった結果がこれだ」と表現したジムには、男の存在それ自身の実在性をも訝ってしまうのである。

「犯罪者」という範疇をも超越するかの如き男に対するイメージは、もはや人間ではないと考えることによってしか心を鎮められないのだ。

では一体、この男は何者なのか。

作り手にとって、この男の存在性を象徴するイメージとは何だったのか。

ここに、興味深い一文がある。

一見鋭利な分析のように見えるが、極めて文学的濃度の深い、本篇の原作に寄せた訳者の把握がそれである。少し長いが引用してみる。

「本書を支配している闇は『社会の闇』でもなく、いわば『世界の闇』とでも言うべきものではないか。もちろんここで『世界』というのは、国家を超えた全人類社会のことではなく、『世界内存在』と言うときのような哲学的な意味の『世界』だ。

それはこの小説で悪を体現しているシュガーのことを考えてみればわかることだ。いったいアントン・シュガーとは何者なのか。(中略)

結論はもうおさっしのとおりで、要するにシュガーという男は、悪魔か、死神か、死の天使か、異星人か、あるいはベル保安官の言葉を借りれば『生きた本物の破壊の預言者』か、ともかく何か『純粋悪』とか『絶対悪』とでも言うような存在であるかのように描かれているのだ。ちなみにマッカーシー本人は、ヴァニティー・フェア誌2005年八月号のインタビューで、シュガーを『純粋悪(pure evil)』と呼んでいる。(中略)

この小説はギリシア悲劇である、と考えれば、しばしば現れる運命論的な記述も納得できる。シュガーが説くコイン投げの哲学や、弾丸が当ったカレンダーの日付けや、カーラ・ジーンが語るルウェリンとのなれそめの話など、そうした箇所はいくつも出てくる。

シュガーやモスの言葉からは、ある一つの人間観が浮かびあがってくる。それは、人は誰でも誰でも生まれたときから一本の線を描いて生きていくという見方だ。家族や地域や国家という面に所属するのではなく、一人一人がそれぞれの一本の線を描いていくのだ。

その線が、あるときシュガーのような『純粋悪』が描く線と交わってしまう。こんなことは全くの偶然で、理不尽きわまりないことだ。モスの場合は自業自得の面があるかもしれないが、わけのわからないうちに即死させられる男もいるわけである。人はこういうことを運命として受け入れるべきなのだろうか。

オイディプスは、自身が描く線と、実の父親の描く線が三叉路で交差したとき、知らずに『罪』を犯してしまうが、それを運命として引き受ける。カーラ・ジーンは、自分に落ち度があるとはとうてい言えない事柄の結果を、最後には運命として受け入れるように見える。そこはいったいどういう理路があるのか。それは私たち現代人にも意味があるとことなのかどうか。

近代的思考は、『内なる闇』と戦えと主張してきた。悪魔だの怒れる神々だのが支配する『外の闇』と戦えと主張してきた。悪魔だの怒れる神々だの支配する『外の闇』など存在しない。問題は人間の心であり、人間と人間の関係なのだと。不都合があるなら心の治療し、社会を変革すればいいのだと。

『対人間、対社会の次元』を超えた何かの秩序について―― 外の闇について―― 私たちはふだんほとんど何も考えていないように思える。シュガーはそのことを考えろと迫ってくるのである」(「血と暴力の国」コーマック・マッカーシー作 黒原敏行訳 扶桑社刊 「訳者あとがき」より/筆者段落構成)

私もこのような類の文章を書いてしまう嫌いがあるのは認めつつも、それでも常に具象的イメージを持って、限りなくリアルに表現することを心がけているつもりだ。

正直、上記の文章はあまりに文学的すぎて、所謂、「何となく分ったようで分らない」というようなファジーな印象で片づけてしまう不快と同居する時間を、逸早く回避したいと欲する感情のラインの内に、肝心なテーマ言及を稀釈させたまま、多くの場合、あっさりと流してしまう傾向を持ってしまうのである。

私が「哲学」に餓えていた20代初めのころ、マルティン・ハイデッガーの「存在と時間」を読んだとき、スピノザの「エチカ」とか、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」、或いは、マックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」に象徴される、他の多くの哲学者の著作がそうであったように、その難解極まる観念論の洪水に辟易(へきえき)しながらも、「何となく分ったようで分らない」気分との心理的同居に耐えられるような孤独志向が媒介されていたので、自分だけは「世界」と直接的に繋がっているという「稀少性の快楽」を何だか勝手に手に入れたつもりになって、辛うじてアイデンティティの喪失の危機を回避してきたように思えたのである。

果たして、原作も映像も、「世界内存在」というハイデッガーの哲学概念を必要とせざるを得ない類の、際立って「高尚」な作品なのか。

「外なる闇」、「内なる闇」とか「純粋悪」などという概念にも、今の私の中ではあまりに馴染めない気分が横溢してしまっているのだ。

どうしても具象的なイメージによって捉え難いのからである。

一切は言葉のゲームでしかないと思うのだ。

それでも「一本の線」という把握には、本篇を通底するキーワードとして興味を喚起させられたことは事実である。

確かに、以上の文学的文脈による把握には好奇心をそそられる面もあるが、しかしそれはどこまでも、原作への把握の範疇を越えないのは言うまでもない。

コーエン兄弟
私には、本篇の作り手が心理描写を半ば確信的に回避したという感懐を持つので、そのことが意味する内実は、本篇の登場人物たちの振舞いについての解釈を、映像の鑑賞者に委ねていると捉える以外にないと思うのだ。

特段の問題意識を持たなければ、ザラザラしたフィルム・ノワールの一篇という解釈で済んでしまうのだろうが、恐らく、テキサス州出身のトミーリー・ジョーンズが演じたジム保安官の「キャラクター」の存在性によって、アカデミー作品賞に逢着したかのような印象を持たせるほどに救いのない物語の話題性に乗って(実際は、自己完結的なキラーを演じたハビエル・バルデムが助演男優賞を獲得)、まるで厄介なゲームの謎解きを迫るような原作と、それをほぼ忠実に映像化したと言われる本篇の「静謐過ぎる暴力性」は、観る者の分析意欲を惹起させる何かであった。



3  「世界」の爛れ方を集約する記号として



以下、一人の映像鑑賞者としての視座で、「幽霊」のような存在である男についての解釈を中枢の問題意識に据えて、一度見たら決して忘れ難いほどの毒気に満ちた本作への言及を進めたい。

この映像の背景となっている時代が、「ベトナム後」の1980年であることは軽視できないだろう。

男に追われるモスも、大金目当てでモスを病院に訪ねる、一匹狼的な雇われキラーもベトナム帰りだった。

この二人とも、本篇を一貫して支配し切った男の銃弾の餌食となって無残な死を遂げるのだが、少なくとも、溶接工であったモスの人生の振れ方がベトナム経験と無縁であったとは考えられない。

彼は遥か彼方の東南アジアの「小国」との戦争に二度出兵し、運良く生還できたベトナム帰還兵だったが、溶接工としての真面目な勤務と隔たった辺りで、彼の生活風景が成り立っていたであろうことは、大金強奪に関わる描写と、ハンティングを趣味とするファーストシーンにおける一連のカットによって想像し得るだろう。

もう一人のキラーの人生について、本篇では全く語られていないが、一匹狼的な雇われキラーの立ち上げが、「ベトナム以後」であったのは間違いないと思われる。

「ベトナム」は無敵の帝国的国家の威信を傷つけたばかりか、そこに住む人々の生活文化の有りようを変容させるほどに、甚大な歴史的インパクトを持つ何かであった。

ベトナム帰還兵であったモスが、まさにその「勲章」によって、保守的な風土を持つと言われるテキサスでは大手を振るって歩けたかも知れないが、「ベトナム」はそんなテキサスの文化風土を、彼ら「ベトナム帰還兵の心の闇」に象徴される、この国の歴史の「負の遺産」と同居する危うさを随伴して、じわじわと、しかし明らかに眼に見える形で変容させしめていったのである。

事件の異常性に立ち往生して、ジム保安官に嘆く地元の保安官の言葉がある。

「もしも20年前に、将来、テキサスの子供が“髪は緑色、鼻にピアス”だと聞いたら信じなかっただろう・・・悲惨だよ。原因は一つじゃない」

恐らく彼らにとって、「昔は良かった」というときの昔の時代とは、ベトナム戦争が始まる以前のこの国の文化であり、その時代に生きた人々の慣習であり、そしてそこだけは何か独立国家のような存在感を誇示してきた感のある、「テキサスの古き良き文化風土」の色彩感であったに違いない。

テキサスで生まれ、テキサスで育った保安官にとって、そのテキサスの中で出来する異常な現実は、テキサスそれ自身と、それが帰属する帝国的国家の否定し難い爛れ方を意味しているのだろう。

本篇を支配し切った凶暴な男は、テキサスと、それが帰属する帝国的国家を破壊する異界の存在体であり、理解不能な秩序の破壊者であった。まさにこの男が象徴するものは、恐らく、原作者が把握する「純粋悪」、「絶対悪」という概念の範疇で収まらない、何かもっと大きな歴史性を内包するイメージこそ相応しいのではないか。

それは「世界の現在性」という概念こそ、私にはフィットし得るイメージなのである。

即ち、「ベトナム」によって裂傷を負った帝国的国家が、自らに関わる異界的な世界に残した様々な傷跡を含む歴史性、それこそが由々しき事態を分娩した内実だったと思われるのだ。

思えば、この国にとって、「世界」とはこの国それ自身であり、この国に利益をもたらすことのない、それ以外の存在は彼らの関心領域の内に含み得ないジャンクな何かでしかないのであろう。

従って、「世界の現在性」とはこの国の現在性であり、もっと言えば「ベトナム後」のこの国の歴史性それ自身ではないのか。

「ベトナム後」がこの国に負わせた裂傷の象徴性が、本篇の巨大なキラーの存在性を象徴する何かであると思われるのである。

男は自分の内側に、他者の自由の領域すら容易に剥奪し得る絶対的な行動規範を持ち、それ以外の一切の規範を認知しないのだ。それもまた、この国の「ベトナム後」の「世界の現在性」を象徴しているとは言えないか。

恰も異界からの凶暴なるインベーダーとして、この国に唐突に舞い降りてきた感のある「妖怪」だが、その「妖怪」は、恐らく異界から「舞い降りてきた」のではなく、一個人の力量では全く何も為し得ないと思わせるに足る、大きな世界の予測し難い展開のリアリティの前で、この国に呼吸を繋ぐ人々の規範の変容感覚が静かに、しかしそこだけは確実に視界に収め得る「世界の現在性」の不気味な胎動というものが、その内側から分娩した「鬼っ子」であるように思われるのだ。

そんな「鬼っ子」が、「鬼っ子」としての本領を存分に身体表現した描写がある。

その会話を詳細に再現した、先述の雑貨店主との恐るべき遣り取りである。

それは本作の中で、私が最も重要であると思えるシーンだが、この不毛であるように見えながらも、まさにその不毛性の中に映像の本質が垣間見えるこの描写の決定力は圧巻であり、且つ、奇怪なまでに歪んだ物語の震撼すべき内実をこれほど露わにした場面はないだろう。

「途中、雨に降られました?」

雑貨店主が店の客に対して、今までもそうであったようなごく普通の挨拶レベルの何気ない会話を、全く含むところなく求めたとき、殺人を犯して来たばかりの無表情な男から返って来た答えは、「どの道で?」という一言。

「ダラスからでしょう?」と反応した雑貨店主に対する男の答えは、「どこから来たか、お前に関係あるか?」のみ。

「意味はありません」としか反応できない状況が作られてしまったとき、雑貨店主の内側には、「ただの世間話です。それで頭に来るのならどうしたらいいか…」という答え以外の何ものも選択し得ない恐怖が、一気に広がっていったのである。

先述したように、この恐怖の本質は、相手を満足させるに足る答えが見い出せない恐怖であると言っていい。

人間は反応しなければならない何かを全く持ち得ない状況下で、その反応を拒絶できない不条理に拉致されて、且つ、状況からの物理的突破の可能性が断たれてしまっているとき、完全に無力な存在になるであろう。

そんな恐怖をひしと感受した店主が、得体の知れない男から、なおも畳み掛けられていくのだ。

「何時に寝るんだ?」、「耳が悪いのか?お前は何時に寝るんだ?」、「裏の家に住んでいるのか?生まれた時から?」、「財産目当ての結婚か?」などという思いもよらない詰問に追い詰められていった挙句、雑貨店主は遂に自分の命を賭けるコイントスを迫られるのである。

「お前はずっと賭け続けてきた」と言い放つ男の「人生哲学」が、そこに一つ開かれたのだ。「勝てば全てが得られる」と言う男の言葉の含意には、「負けたら全て失う」という震撼すべき現実が隠されているのである。

男の「人生哲学」に貼り付く「偶然性への譲歩」によって、雑貨店主は辛うじて命を落とさずに済んだが、人生を永遠なるギャンブルの連鎖と考える男には、究極的に「生か死か」を決断せずに生きることから逃避する世俗者の存在を認知しないのだ。 

「コインと同じ道を俺は辿った」という男の言葉が、本篇のラストに用意されていたことが意味するものは何か。

それは詰まる所、「生か死か」を決断して生きてきたと思わせる男の人生の、その「一本の線」である軌跡の確認であるだろう。

然るに、男はそのような軌跡を持たない他者を軽侮し、自分の人生のラインに関わる他者の人生をも支配し切ってしまうのである。

「ベトナム後」の「鬼っ子」である男は、自らを分娩した「世界」の爛れ方を集約する記号として、なおその「一本の線」を突き抜けていくのだろうか。

思えば、本作の背景となった時代から21年後に出来した「9.11」において、人間と人間との関係の有機性が殆ど剥落したかのような震撼すべき状況が開かれてしまったように見える。

もうそこには、長い時間をかけて関係を作り上げていく一連の努力すらも反古にされてしまうような、言ってみれば、「世界の現在性」の爛れた様態が露呈されていて、時代の裸形のラインが露わにされてしまったのではないか。

本作の作り手がそのような問題意識を持って、この厄介な原作を映像化したかどうか判然としないが、私にはそのようなペシミズムに黒々と彩られた含みを、この抜きん出て挑発的な表現から読み取ってしまうのである。

私たちの時代が今、底知れないほどの未知のゾーンに搦(から)め捕られてしまっているようなのだ。

そんな嘆息が、決して声高にならない作り手の咽喉の奥深くから漏れ聞こえてしまうのである。

関係を有機的に繋いでいくことの意味すらも反古にさせる、稀代の「鬼っ子」の偶発的闖入の恐怖 ―― 作り手はそんなメッセージを本作に仮託したのであろうか。

以上が私の独断的解釈だが、多分にユーモアのセンス溢れる作り手以上に、ペシミズムの濃度が深い私には、それでもなお、「今の世界、今の社会が最悪だ」という類の証明困難な安直な解釈をするほど、乱暴極まる「評論家もどき」ではないという多少の自負位は堅持しているつもりである。

私たちの時代の私たちの社会は、確かに未知のゾーンを過剰に広げ過ぎてしまっているが、少なくとも、「先進国クラブ」に参入する国民国家の内側では、人前で平気で黒人を吊るす直接的な暴力性からは基本的に解放されたと考えるべきである。 

ともあれ、一人の鑑賞者である私には、些か挑発的な映像の基幹的なイメージは、「主観の暴走」という逸脱を一応回避し得たであろう、以上の言及によって収まる枠内で落ち着くものだった。

何よりも、このような奇怪な原作を映像化することを特定的に選択したように思われる作り手には、「世界の現在性」というものが、殆ど悲観的に感受せざるを得ない厄介な様態を露呈しているように見えるのだろう。



4  柔和なる軟着点への「原点回帰」  



だが私たちは、常に注意深く観察していかねばならない。

私たちが懐古的に「昔」という言葉を使うとき、そこに特別に痛切な心的外傷の類が張り付くことがない場合、それが意味する時代は、自分の脳が記憶した様々に彩られた経験の中で程好くシャッフルされ、濾過された快感情報だけが心地良く残った、殆ど幻想に近いイメージの束が奏でる時間性であると言えるということだ。

そこでは自我を不必要に甚振(いたぶ)る不快な情報群は、「認知的不協和理論」(注)の心理学によって巧みに読み替えられてしまっているので、「現在の自分」が、まさに「現在の時間」に呼吸を繋ぐに足る分だけ切り取られてしまっている筈なのである。


(注)矛盾する「認知」を自分の中に感受したとき、事実を巧妙に解釈することで自我を安定させようとする心理的営為。


だから私たちは、多くの場合、「懐古的な自己史」と上手に共存して呼吸を繋いでいるに違いない。

そうでもしなければ、自分の過去と折り合いをつけられないからである。自分の過去と折り合いをつけられない人生をなお繋いで生きていけるほど、私たちの自我は強靭ではないのだ。

繰り返し言及するが、そんな人生を体現する男こそ、本作でのジム保安官であるだろう。

作り手は、映像の通奏低音として脈打っている彼の感情世界の中に潜り込んで、まるでそこに多分にユーモアを含ませながらも、その基調は一貫して映像を支配し切った男の異界の如き理解不能な世界を中和させるかのようにして、そこで自らの思いを仮託させているように見える。

それを端的に語る描写が、本作のラストに用意されていた。

ジム保安官が妻に語る、二つの夢の描写がそれである。以下の内容である。

「二つ夢を見たが、両方に親父が出てきた。親父は今の俺より20歳若くして死んだ。夢では俺が年上だ。初めの夢は、どこかの町で親父に金をもらい、それを失くした。二つ目は、二人で昔に戻ったような夢で、俺は馬に乗り、夜中に山を越えていた。山道を通って行くんだが、寒くて地面には雪が積もっていて、親父は俺を追い抜き、何も言わず先に行った。体に毛布を巻き付け、うなだれて進んでいく。親父は手に火を持っていた。昔のように牛の角に火を入れて、中の透けた色は月のような色だった。夢の中で俺は知ってた。“親父が先に行き、闇と寒さの中、どこかで火を焚いている”と。“俺が行く先に、親父がいる”と。そこで眼が覚めた」

この夢が説明するイメージには、少なくとも、夢の主の直接的なメッセージが柔和に語られていてとても分りやすい。

人間は生まれたら必ず死ぬ。

神を信じていようといまいと、自分の死の向こうに待機する異界の世界に確実に近づく老境の思いが、せめて死によって完成するであろう「世代の継承」という物語が、そこにしか逢着し得ない軟着点の内に自己完結することの安堵感を切実に求めているのだ。

件の老保安官が、この俗世にあって、既に居ながらにして異界の人物である「鬼っ子」と、あろうことか、ロープで囲われた殺人現場の只中で最近接した際どい描写が映像の終盤に用意されていたが、いかにもサスペンスムービーの常道を外さなかったと言えるのだろうか。

ともあれ、緊迫感溢れる最近接描写の中で、いずれかが斃される危機を老保安官が運良く脱出できたものの、彼の内側には、遂に最後まで心理的にクロスできなかった未消化の神経感覚の記憶だけが生き残されたことで、もうそこには、人間的文脈によって永劫にクロスできない絶望感だけが漂流してしまうのだ。

それでも良いと彼は括って、決して戻り得ない過去に思いを馳せる時代との接続を、その小さくも、確かな温もりをなお残す関係世界の中で復元させていく時間の内に、それでも充分に幸福であったと信じたい自らの緩やかなる軌跡を確認し、それを内深くに包んで、今の自分より20歳若くして死んだ父の元に帰って行こうとする人生のラインだけは生きているのだろう。

作り手はそんな小さな語りの中に、「それでも、『世界』はまだ自壊していない」という希望的観測を結びたかったに違いない。

最後まで強靭な「一本の線」によって生き抜くであろう、一人の超越的な男の絶対的な秩序によって支配されてきた映像のラストにおいて、その男の自己完結的な世界と、「老境の夢の語り」が凛として対峙し得るかどうかについて些か疑問だが、それでも作り手は、この語りなしにこの厄介な物語を閉じられなかったのであろう。

何かそこだけが孤立しているように見えるラストシーンの括りは、誤読される危険性を大いに持つ危ういテーマを選択した者が、それなしに結べなかったであろう、柔和なる軟着点への「原点回帰」という風に把握するのは酷だろうか。

(2009年4月)

2008年11月13日木曜日

ファーゴ('96)      コーエン兄弟



<確信的日常性によって相対化された者たちの、その大いなる愚かしさ>




1  女房誘拐計画



「これは実話の映画化である。実際の事件は、1987年ミネソタ州で起こった。

生存者の希望で人名は変えてあるが、死者への敬意を込めて、事件のその他の部分は忠実な映画化を行っている」

これが冒頭の字幕である。


その次に映し出された風景は、雪靄(ゆきもや)の深い白銀の世界。

そこに一台の車が、故障と思しき車を牽引している。

画面はまもなく、ノースダコタ州ファーゴ(注1)に向うその車をフォローしていく。

一人の男が車から降りて来て、待ち合わせのバーに入っていく。

そこには、二人のいかつい顔の男がいた。車の男は二人に自己紹介した。

「ジェリー・ランディガードだ」
「あんたが?」とビールをラッパ飲みしていた小男。
「シェブの紹介だ」
「7時半の約束だぞ」
「8時半では?」
「1時間待った。こいつは小便3回」と小男。

隣に座る無口な大男を指して、一人で喋っている。

「すまない。シェブは8時半だと・・・間違いだ」
「車は?」 
「駐車場に入れた。新車のシエラだ」とジェリー。

彼が牽引していた車は、新車だったのである。

「よし、かけな。俺はカール。パートナーのゲア」と小男。

その名はカール。隣の男の名はゲア。何も喋らない。

「よろしく。で、すべて了解を?」
「心配なのか?」
「違うよ。シェブの保証付きだ。君らを信用している。じゃあ、これが車のキーだ」
「それだけか?新車と4万ドルだろ?」
「約束では、まず車を渡して、4万は身代金の形で支払うはずだ」
「シェブの話とは違う。第一、約束は7時半だ」
「それは間違いだ」
「聞いたよ」
「前金で払う約束はしていない。まず、君らに新車を渡して、それから・・・」
「議論は止せ。議論しにきたんじゃねえ。そっちの話が呑み込めねえ」
「計画はちゃんと出来ている」
「自分の女房を誘拐?」
「ああ」
「俺たちに誘拐させて、身代金を8万払い、半額の4万をあんたが取り戻す?自分が払った金を取り戻すのか?」
「僕が払うんじゃない。女房とその親父が金持ちなんだ。僕のトラブルを・・・」
「トラブルって?」
「その話はあまりしたくない。とにかく金が必要で、舅(しゅうと)の金を」
「直接頼めば?かみさんは?」
「頼めないんだ。二人は僕のトラブルを知らないし、金など出さない。とにかく僕の個人的な問題だ・・・」
「俺たちに、こういう仕事を頼んで置きながら・・・とにかく車を見よう」

なかなか進展性の乏しい以上の会話の中で、ジェリーという男が何のためにこのバーに来たのか、その理由だけは了解できる。

終始、大男は無言だったが、ただ一言、ジェリーに「かみさんは?」と最初に聞いた言葉だけを残すに止まった。

しかし隣のお喋り好きそうな小男が、空気を一人で支配しようとする、ちっぽけな見栄だけがそこに露呈されていた。



2  連続殺人事件に変容する偽装誘拐事件の非合理性



ミネアポリスのダウンタウン
ミネソタ州ミネアポリス(注2)。

ジェリーは「ファーゴ」での仕事を終えて、自宅に戻って来た。

彼には優しい妻、ジーンと、思春期盛りの息子が一人いる。彼の仕事は自動車のディーラー。

義父は業界の大物で、ジェリーにとっては目の上のタンコブだった。

この日も義父は自宅に訪ねて来ていて、ジェリーはよそよそしい挨拶をするばかり。


(注1)ノースダコタ州の都市の名で、夏はとても暑く、冬は酷寒の地と言われる。レンガ造りの歴史的な駅舎と、その駅舎にある古い年代物の時計で有名。ミネソタ州の隣に位置する。 

(注2)ミネソタ州の州都で、カナダに近いため冬の寒さは厳しいと言われる。商業、金融、製造業、ハイテク産業などが発達して、「ミネアポリス・セントポール国際空港」のような著名なハブ空港があることでも知られている。                                   


ジェリー
ジェリーは仕事でも上手くいかない。

顧客にクレームをつけられて、その対応に四苦八苦。彼は多額の負債を抱えていて、その返済に悩んでいた。そのため彼は義父に駐車場を作りたいという計画を申し出ていたが、義父は色好い返事をしない。そこで彼は妻の偽装誘拐の計画を立てて、多額の金を手に入れようとしたのである。

ところが、その義父から、彼の計画についての話があるという連絡があり、彼は慌てて誘拐計画を中止にしようと動き出す。彼は、例の二人の男たちを紹介した整備工のシェブのもとに赴き、二人の連絡先を聞くが要領を得なかった。

詳細な事情を知らないその二人の男たちは、いよいよ計画を実行しようとするが、その前に娼婦を伴ってモーテルに立ち寄っている。まだ彼らの脳裏には、偽装誘拐のリアリティの実感が迫っていないようだ。

そんな二人の、車の中での会話。

相変わらず寡黙な大男のゲアに対して、小男のカールは面白くない。

「声を出すのは損か?」
「返事したろ?」
「そう、4時間でたった一言。お前は素晴らしい話し相手だ。楽しくで涙が出る。変わってる奴だよ。ブレイナード(注3)からずっと、俺が運転している。退屈だから話をしようとしてんのに、なのにお前ときたら、黙りこくっているだけだ。いいさ、俺も話し相手にならんぞ。“黙りっこ”。二人でできる楽しいゲームだ。ご満足か?黙りっこだ・・・」

結局、最後までカールが話し続けていた。


(注3)ファーゴとミネアポリスとの中間に位置するミネソタ州の町で、州内でも有数の避暑地である。本作では、偽装誘拐の密談の地でもあった。


まもなく、カールとゲアの二人組は、ミネアポリスのジェリーの自宅に白昼堂々と押し入った。

覆面を被ったゲアは、ジェリー夫人のジーンの眼の前で窓ガラスを割って、驚愕する彼女の前に現われた。その身を羽交い絞めにされたジーンは、恐怖のあまりゲアの手に噛み付いて、二階に逃げ込んだ。そこに残されたゲアは、自分の傷の手当てのことしか頭になく、彼女を追い詰めた部屋の中で傷薬を見つけて、その手当てを優先するという愚昧ぶりだった。

そんな状況下で、白いカーテンの裏に隠れていたジーンは男に見つかって、カーテンを巻いたまま階段から転げ落ち、捕縛されたのである。彼女は完全にパニック状態になっていたのだ。

一方、ジェリーは、義父の話が自分の望んだ駐車場への融資ではないことを知って愕然とした。妻の父である義父ウェイドは、娘婿の能力を全く評価していないのである。

その事実を知って落胆したジェリーは、白銀の色彩の中に点在する植木を高々と俯瞰する、まるで抽象絵画のような世界の中をゆっくりと歩いていく。そこは彼が駐車場にするために手に入れようとしたスペースだった。

彼はそこにぽつんと置かれた愛車の中で、暫く閉じこもり、やがてフロントガラスに凍りついた雪を削り取った後、その怒りを雪の白の上で噴き上げていく。

まもなく、自宅に戻ったジェリーは、眼の前に散乱する部屋の様子を見て、妻のジーンが誘拐されたことに気がついた。

それもまた、彼の偽装誘拐の画策の結果だったが、義父の信頼を失った彼には、もうそれ以外に事態を打開する手段がないと括っているようでもあった。

誘拐されたジーンを後部座席に押し込んで、カールとゲアの二人は夜の雪道を進んでいく。

ところが、ナンバープレートを付けるのを忘れていたカールは、道の途中で検問する警察官に降車を求められ、予期せぬ事態に対応できないでいた。ゲアの拳銃が火を噴いたのはその瞬間だった。

事件の発覚を恐れたゲアは、傍らで慄くカールに命じて警官の死体を処理させた。ところがそこに、一台の乗用車が通りかかった。ゲアはその車を追走して、その車が転倒している現場に近づき、二人を射殺したのである。ゲアという寡黙な大男が、その生来の恐るべき牙を剥き出した瞬間だった。

これが、一つの由々しき事件に結ばれていく。今や偽装誘拐事件は、とんでもない連続殺人事件に発展しつつあった。



3  日常性を繋ぐ女性警察署長



夫の傍らで安眠する女。

そこに突然電話が鳴り、「すぐ行くわ」と答えた。ベッドから立ち上がった彼女は身重の体を揺さぶって、夫が作ってくれた卵料理を食べて自宅を後にした。彼女の名はマージ。ブレイナードの町の警察署長である。

夫の名はノーム。どうやら売れない画家らしい。性格はとても優しい印象が強く、妻を思いやる気持ちが観る者にひしと伝わってくる。

マージは直ちに現場に駆けつけた。

身重の体に合うような警察服に包まれて、実況検分をしている。

彼女は現場を検分して、すぐにその犯人が土地の者でなく、大男であることを確信した。


突然、彼女は現場で前のめりになり、共に検証に携わる男の警官から、「何かあったかい?」と声をかけられた。



「ちょっと吐き気がしたの・・・大丈夫よ。悪阻なの・・・治ったわ。お腹がすいたわ」
「朝飯はまだ?」
「ノームが卵を焼いてくれたわ」

更にマージは警官の死体を検分して、そこに残された足跡から、小男の存在を言い当てて、二人の男による犯行であると推理した。

マージが所轄署に戻ったとき、そこに昼飯用にハンバーガーを持って来た夫のノームが待っていた。

マージはその夫のために、袋一杯にミミズを入れて持って帰って来た。仲の良い夫婦の関係が、既にそんな日常的風景の中に映し出されている。

「絵は描けた?」とマージ。
「まあね。ハウプマンが展覧会に出品を」とノーム。
「あんたの方が上手よ」
「どうかな」
「あなたの方が上よ」
「そう思う?」

そんな何気ない会話の中に、身重の妻の夫への配慮が見え隠れしている。

そこに、二人組に関する情報が入った。それは二人組がモーテルに立ち寄ったという情報。その情報をもとに、マージは彼らを相手にした娼婦の聞き込みに向った。彼女の日常性は、警察署長としての仕事と地続きになっているようであった。

マージは娼婦たちから、二人組みの印象を聞き出した。

「それで、その二人の男の人相は?」
「小さい方は変な顔。変な顔なのよ」
「もう少し具体的に」
「割礼はしてなかったわ」
「それで変な顔?・・・他に何か特徴は?」
「ないわ。ただ変わった顔をしていただけ」
「もう一人は?」 
「マルボロ・マンに似てたわ・・・吸ってたタバコもマルボロ。無意識の選択ね」ともう一人の女。
「“ミネアポリスに行く”って」と初めの女。

殆ど意味のないような娼婦たちの証言だったが、最後の言葉だけが意味を持っていた。しかし未だマージは、連続殺人事件と誘拐事件の結びつきを確認できていない。

その夜半、安眠するマージに再び電話の音。

「マイク・ヤナギダ」と称する男からの電話だった。

彼はミネアポリスに来ていて、そこで事件のことを知り、事件を捜査するマージを思い出して電話したのだった。旧交を温めただけの電話で、物語のラインとは全く結びつかないのである。



4  「サスペンス映画」の類型的な枠組みを壊して



一方、湖畔の隠れ家にジーンを拉致した二人は、未だ金を全額手に入れることなく、山小屋の中で暇を持て余していた。

映りの悪いテレビに苛立って、カールはそのテレビを叩きつけるばかり。

そのカールは勤務中のジェリーに電話して、「三人の血が流れた」と報告し、金の上積みを督促した。

「何だと?君ら一体何を?話が違うじゃないか!」
「邪魔しないで聞け!」
「悪いがこっちは・・・」
「逆らわないで、8万全額をよこせ」
「冗談じゃない」
「血が流れてヤバイことになった。明日金を」
「そんな・・・約束は約束だ」
「そういうゴタクは、殺された3人に聞かせな」
「何だと?」 
「分ったな。じゃ、明日」

ジェリー
一方的に電話を切られたジェリーは、職場で荒れるばかりだった。

その夜、彼は義父と金を犯人たちに届ける件について話し合った。彼らはまだ警察に届けていないのである。しかし、ジェリーを信用しない義父は、自ら金を届けることを決断した。

また、モーテルから二人が電話した記録から、マージはシェブの存在を特定し、直ちに彼の勤務先へ向った。

仮出所中のシェブは、二人のことを話さないと自分の立場がまずくなることをマージに脅されて、不承不承ジェリーのことを話したのである。マージはそこで初めて、ジェリーの存在を知ったのである。

そのジェリーのもとに、マージが現われた。

マージはジェリーの受け答えの不自然さに疑問を持ちつつ、彼の勤務先を後にした。

マージがその後向った先は、マイク・ヤナギダとの再会を果たすために待ち合わせしたレストラン。彼のプライバシーを散々聞かされて、マージは別れのタイミングを狙っている。その程度の親交なのである。

「僕がバカだった。会ったら楽しいだろうと・・・」
「いいのよ」
「君は素晴らしい女性で、僕は孤独・・・」
「いいのよ」

話の途中で泣き出すヤナギダを前に、マージはまともな言葉をかけられない。このヤナギダとのエピソードは、明らかに本作の流れから逸脱している。このようなエピソードを挿入した作り手の意図はほぼ特定できる。

作り手は恐らく、「サスペンス映画」の類型的な枠組みを壊したいのである。

或いは、「映画」それ自身の約束事を壊したいのである。

本作には、このようなムービーラインの本質を確信的に外していくようなエピソードが満載していて、この「ヤナギダ」の話もまた、その確信的な表現手法の範疇に収まるものであろう。この時点で、本作が徒(ただ)ならぬ実験的表現世界に踏み込んでいることが、観る者に了解されるに至る。



5  「人生は、もっと価値があるのよ」



カールはシェブの部屋を使って、町の娼婦とファックしていた。

そこにシェブが帰って来て、カールはシェブに叩きのめされる。

それだけの話で、シェブのエピソードなど本作の流れと殆ど無縁だが、しかし、ストレスを溜め込んだカールのその後の行動の伏線として、その描写はギリギリに重大な意味を持つことになった。

カールのもとに、ジェリーの義父であるウェイドが現われたのである。

「貴様は誰だ?」
「金はここだ。俺の娘は?」
「話が違う。カバンを置け!」
「娘は?」 
「ジェリーはどこだ。こっちの指示と違うぞ」
「娘はどこだ。娘が先だ」
「カバンを置け!」
「娘と交換だ」
「ナメやがって!」

そう言った瞬間、カールの右手の拳銃が火を噴いて、眼の前のウェイドを撃ち抜いたのである。

 雪の路面に倒れたウェイドは、自らの力を振り絞ってカールの顎を撃ち抜いて相当の手傷を負わせた。激昂したカールはウェイドに銃を乱射し、殺害したのである。

その場に、ジェリーが車で到着した。

彼は義父の死体を見て、驚愕した。料金所に戻ってみると、そこにも死体があった。係員の死体である。殺害したのは、顎から血をだらだらと垂れ流していて、すっかり理性を失っていたカールである。

しかしジェリーは、そこでの一連の流れをを知らない。そのまま自宅に戻ったが、彼もまた完全に理性を失っているようであった。

カールは義父が持参した現金を手に入れて、それを何の変哲もない雪の道の中に埋めている。男の顎から噴出した血が、自分のシャツにべったりと鮮血の赤を染抜いて、その赤を拭った手が雪の白に伝わって、隠し場所の辺りの白を僅かに変色させていた。純白なる自然と凶悪なる暴走の赤が、鮮烈に交叉しながら映し出されていた。

アジトに戻ったカールは、そこに人質の死体を確認した。

カールが問い質したら、「喚き出しやがった」とゲアが、一言で片付けた。既に殺人に対する歯止めが効かなくなっていたカールは、金を手に入れた今、それを4万ずつ相棒と分けることにして、自分は車で逃げることしか考えていなかったのである。

勿論、自分が隠した金の在り処については相棒に言うはずがなかった。

そんなカールが表に出て、車に乗り込もうとするところを、ゲアの凶器が襲いかかってきた。

マージは湖畔のアジトを、遂に突き止めた。

彼女がそこに少しずつ近づいていったとき、彼女の視界に入って来た光景は、まさに常軌を逸するおぞましい世界だった。大男が死体をミンチにかけていたのだ。大男とはゲア。ゲアによって殺されたカールの死体が、一面の白に鮮血の赤を広げていく無機質なるものに変化しつつあった。

マージは拳銃を突きつけて、殺人鬼を追い詰めていく。

咄嗟の判断で、彼女は逃走する男の足を撃ち抜いたのだ。

最後まで冷静な態度を崩すことがなかった彼女は、遂に殺人鬼を逮捕したのである。

犯人を搬送する車の中で、マージは語ることを知らない男に、虚しさを知りつつも語りかけていく。

マージ
「・・・何のために?僅かなお金のため?人生は、もっと価値があるのよ。そう思わない?バカなことを。こんないい日なのに・・・理解できないわ」

映像のテーマの本質を射抜くような、この何気ない語りの中に集約された含みは、その反応が全く期待できない一方通行の表現であったが故に、相当の重量感を保持していたように思われる。

まもなく、この凶悪なる殺人犯であるゲアの逮捕の後、事件の実質的な主犯であるジェリーも逮捕されることになった。

この男が仕組んだ最も愚かな物語の結末は、最も愚かな男の全てを露わにするものだったのだ。



6  「展開のリアリズム」で勝負しようとしなかった作り手の覚悟



いつものベッドで、身重の女は、心優しき夫の腕にもたれかかっていた。

「発表があった」と夫。
「発表が?それで?」と妻。
「3セント切手だ」と夫。
「真鴨のデザイン?おめでとう!」と妻。喜びを満面に表した。
「でも3セント切手だ」
「すごいわ」
「ハウプマンは29セント切手。3セント切手を誰が使う?」
「皆が使うわよ。郵便代が値上げされた時にね。不足分を補うのに必要よ」
「そうか・・・そうだな」 
「良かった。私も鼻が高いわ。私たち幸せな夫婦ね」
「愛しているよ」
「私もよ、ノーム」
「あと2ヶ月」
「あと2ヶ月よ」

あと2ヶ月も経てば、新しい生命が誕生してくるこの夫婦の至福の境地が、観る者の心を静かに捉えて放さなかった。

最後まで、「展開のリアリズム」で勝負しようとしなかった作り手の覚悟が、このラストの夫婦の何気ない会話の内に、安寧に繋がる日常性のリアリティを初めて開いて見せたのである。


*       *       *      *



7  「実話」以上の「実話」と言ってもいい何か



「実話」と銘打ったこのフィクションが露わにしてくれたのは、自らの愚かさの故とは言え、非日常的な世界に搦(から)め捕られた人間の真実の様態であった。

「実話」と銘打ちながら、そこで自在に展開する物語を作り上げた結果、その内実が生み出したのは、相当にカリカチュアライズされながらも、いや寧ろ、そのような表現手法によってこそ逢着した、まさしく人間の真実の姿でもあった。

それは、「実話」以上の「実話」と言ってもいい何かである。

即ち、「実話」であることによる制約から解放されることで作り出した作品の中にこそ、それがいつでも、「実話」に転化しかねないような人間の内なる真実性を孕んでいたのである。

コーエン兄弟
本作はある意味で、「どうすれば自分の状況を、よりリスクの高い不利な状況にまで追い詰めてしまうのか」というテーマを、極めて人間学的な見地から明らかにした、秀逸な一篇だったとも言える。



8  どうすれば自分の状況を、よりリスクの高い不利な状況にまで追い詰めてしまうのか



―― 以下は、その事例である。

 日常から落差の大きい非日常に転化するときの、人間の起こすリアクションの甚大さ。そこで束の間、機能停止状態になった自我の空洞に侵入する非日常の落差感が、かつて経験したことのない恐怖感を生み出してしまうと、限りなく高い確率で自分の状況を不利にしていくということである。

例えば、本来凶悪犯ではないカールが、自分が経験したことがない非日常(連続殺人事件)の世界に呑み込まれて、理性を失っていくプロセスは状況論的に説得力を持っていた。

元々、堅固でない自我が呆気なく崩壊していくさまは、哀切極まるものであったと言える。男がこの事件の魔境にインボルブされなければ、ケチな小悪人のまま、傍から見れば、その取り柄のない生活様態を自分なりに謳歌しつつ、塀の中との人生を往還しながらも、その鈍走の軌跡を残すことで閉じられたのかも知れない。

しかしこの男は、後述するが、既に相棒の選択をしくじった時点で、自滅への坂を転げ落ちてしまっていたのである。彼は本来殺すべき意志のない二人の者を、殆ど行きがかりの感情の反動の爆発によって、愚かにも殺(あや)めてしまったのだ。未知なる恐怖に充ちた状況が、この男の脳内から過剰なノルアドレナリン(注4)系のホルモンを分泌させてしまったのであろうか。

この男のことを考えるとき、塀の中で後悔し、懺悔する凶悪犯の何割かは、人格障害の症状をラジカルに炙り出すような文脈とは無縁なところで、自分の能力では処理できない状況に拉致されたことによって、相当程度、偶発的な暴発に流れ込んでいくケースが存在するであろうことを了解せざるを得ないのである。


(注4)人間が遭遇する状況下で、不安や恐怖の感情を惹起させる際に、「闘争か、それとも逃避するか」という構えを作り出すことで、自分の自我を襲うストレスを中和させるための行動に入るとされるが、そこで必要に応じて脳内で分泌されるホルモンのこと。「怒りのホルモン」という誤解されやすい説明もあるが、確かに、このホルモンの分泌が慢性的に高い状態に置かれると、心理的な興奮状態を継続させやすくなり、PTSDの症状を現出させると思われる。(拙稿/「心の風景」より引用)


 自分の「分」=能力を越えた行動を選択すると、相当の確率で自分の状況をより不利なものにしていくということ。

ジェリー
例えば、ジェリーの場合。

この男は、自分の妻の偽装誘拐事件を画策しながらも、そこに緻密な計画性と行動力が決定的に不足していた。安直に元囚人である整備工に接近し、更に、そんな男に事件の請負人を依頼するという呆れるほどの杜撰さ。

そして犯人たちと会っても、事件の詳細な計画を丸投げする不徹底さは、まさに、この男の際立って致命的なる能力的欠陥を検証するものだった。

有能な義父から、この男が無能の烙印を押された理由は、ほぼそこに透けて見えるのである。

義父の眼力の正しさが証明されたということ以外ではないのだ。

 その自己防衛行動に於いて、ある種の狡猾さを含む合理的行動の学習を果たしていないと、唐突に開かれた自己防衛的局面で過剰に反応し、それが自分をいよいよ不利な状況に追い込んでいくということ。

ゲアの場合、この反応が連続殺人事件に結びつくことで、自分が手に入れるであろう利益の配分の可能性を自ら削り取ってしまったのである。

更にジェリーの場合も、事件の画策の根底には、義父への重なる恨みが見え隠れしていて、その行動自体が彼の防衛的反応の顕在化であるとも思われるのだ。そこに既に、彼の過剰さが存在していたのである。

 欲望が肥大していくと、それが独占欲と安易に結びついて、普通の人間の普通の理解のレベルでは到底及ばない、極めて残忍な行動を招来する危険性を孕んでいるということ。
ゲアの相棒殺しとその遺棄の残酷さは、彼がその歪んだ人格の表現様態の中で普通に開いた状況の典型でもあった。

 自分の相棒や伴侶を選び間違えると、とんでもない事態を出来する状況に搦(から)め捕られる確率を高めてしまうということ。

ゲアとカール(左)
ゲアと組んだカール、ジェリーとジーンの夫婦もまた、このケースに当て嵌まるだろう。

前者のケースは分りやすいが、後者の場合もまた、義父という「障害物」の存在によって、ジェリーの愚かな画策を、容易に戻るところができない辺りまで暴走させてしまったのである。



9  恒常的安寧を志向して止まない、その日常性の構築を作り上げるもの



以上の事例から導き出される人間学的文脈は、それほど難しいものではない。

それが、自分の意思の発動の如何に拘らず開かれてしまった厄介な事態の内に、その身を預けたとき、その状況がもたらす課題が自分の問題処理能力を上回ってしまう限り、人間がその状況で曝す愚かさや醜悪さ、滑稽さというものは、紛れもなく、その人間の自我の脆弱さを表現したもの以外ではないということだ。

そもそも、「快不快の原理」で生きてきた人間の行動原理が、前期思春期以降、少しずつ自覚的に身につけていく「損得の原理」と、更に青春期に至って、より選択的に吸収していくであろう、「善悪の原理」とのパラレルな内部精神の進化の固有なる軌跡こそ、自我の確立運動についての端的な把握と言っていい。

私たちの自我は、その根柢に於いて、「何が損で、何が得か」、更に、「何が悪徳と看做(みな)され、何が善なるものか」という判断基準を内包し得る、言わば、「人生の羅針盤」である。

通常、私たちが犯罪にその身を預け入れることがないのは、犯罪に踏み込んで手に入れる利益よりも、それによって失う利益や既得権、更に、そこで蒙る不利益の方が大きいと判断できるからである。

必ずしも、善悪の基準によって、私たちの行動規範が選択的に受容されている訳ではないということだ。多くの場合、私たちは、このような自我を親によって作ってもらって、ある時期以降、自らの努力でそれをより堅固なものに形成していくのである。

自我こそ、「内なる神」の正体であり、私たちが、通常、「良心」と呼んでいるものの別名であると考えられる。 

そして何よりもそれは、「これを為したら自分が損をする」ことを確信できる思考中枢の生命線でもある。堅固で豊かな判断能力を示すに足る自我があればこそ、私たちは恒常的安寧を志向して止まない、その日常性の構築を作り上げることが可能になるのだ。

この認知が、私たちの平均的な人間学の出発点なのである。



10  確信的に充実した日常性とは無縁なる者たちの、末梢的なる人間学的把握



―― 本作に戻る。


先述の事例で言及された者たちの愚かさの正体は、人間学的観点から言えば、彼らの自我の圧倒的な脆さとその歪みにある。

ゲア
ゲアについては、殆ど人格障害の様相を呈しているので、詰まるところ、事件の悲劇の発火点にまで遡及すると、この男の存在抜きには語れないということになる。

この男が犯した殺人が、次々に猟奇殺人にまで流れ込んでいったことを考えれば、単なる偽装誘拐事件という、呆れるほど間抜けな事件のカテゴリーで収まったのかも知れない出来事を、一気に凶悪化させしめた一連の悲劇の中枢に、「決してそこに置いてはならない男」を招き入れたという一点に於いて、この男の悪しき存在性を把握できるだろう。

しかし元々は、ジェリーの愚かさこそが、全ての事件のルーツにあった。

この男の幼稚で愚昧な思考は、明らかに、男の自我形成の未成熟を露わにしていて、事件を着想するに至るプロセスの中に、殆ど充分なほどの無能のさまが、集中的に曝されていたことを想像するに難くないのである。

男は恐らく、人並みに妻を愛し、息子を愛し、そして人並みに、家庭を大切にする気持ちを継続的に持っていたであろう。

然るに、男は自らの「分」を超える仕事の野心を捨てられなかったに違いない。その理由は、彼らの結婚を反対したであろう義父に対する反発感情であったと思われる。

義父の自分に対する低評価を決定的に覆したいという思いが、男の内面を支配していたのではないか。それ故、決して離婚を考えていないであろう自分の妻に対する偽装誘拐という事件を画策した。

それは義父に対するあからさまな反逆であったと考えられるのだ。この男の内側には、父性コンプレックスと思しき感情が見られるのである。

自分の能力を検証しようという彼なりの企画が、義父に悉(ことごと)く却下されたとき、彼は遂に事件に踏み込んだ。その名目は借金の返済にあったが、その意識の深い所で、義父を極限まで悩ませてやりたいという思いが沈殿していたと思われるのである。

そして彼の妻、ジーンもまた、父性コンプレックスを内包させていたようにも思われる。彼女は実父の前では、従順なる一人の娘の役割を演じていく。

父のウェイドもまた、娘を溺愛していた。

彼は娘を助けるべく、拳銃を携えて自ら凶暴な犯人の前に現われたのだ。

しかも車のトランクには、大金が用意されていた。彼は自分の命と財産に換えても、娘を救出しようとしたのである。このウェイドという男には、娘婿のジェリーに渡す金はなくても、娘のために投げ出す金は存分にあったということだ。

そんな父の愛をひしひしと感じる娘だからこそ、夫を助けるという理由で、実父に懇願するような主体的行動を選択できなかったのであろう。彼女の自我もまた、極めて未成熟なる様態を曝していたと言えようか。


―― 以上で、確信的に充実した日常性とは無縁なる者たちの、末梢的なる人間学的把握は終りにしよう。



11  確信的日常性によって相対化された愚かしさ



そして稿の最後に、これまで言及した者たちの自我の崩れ方のさまとは、全く没交渉な人物のことを書いていく。

本作の主人公であるマージである。

彼女は小さな町の警察署長にして、心優しき画家である男の妻である。

そしてこの妻は、あと二ヶ月足らずで出産を予定する妊婦である。この妊婦は未だ出産休暇を取らず、警察の職務に追われる日々を送っていた。

そんな中で発生した連続殺人事件の捜査を担当し、陣頭指揮に当って、その身重な体を揺さぶるように動き回る。果たして、そんなことが可能か否かというリアリティの問題はこの際棚上げにして、観る者は彼女の八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見守ることになる。

確かに彼女は有能だった。それは、「女にしては」という含みのある制約を無視して、特段に優れた捜査能力を発揮して見せたのである。

ところが、映像で映し出される彼女の描写の全ては、決して、事件と直接絡む出来事ばかりではなかった。とりわけ、「マイク・ヤナギダ」に関するエピソードは、事件と脈絡する伏線にもなっていなかった。

単に事件を知った旧友が、彼女との再会を懐かしがって見せただけのエピソード。なぜ、作り手はこのような描写に、全篇僅か90分の映像の一部を割こうとしたのか。

ストーリーの記述の際にも言及したが、作り手はこのような描写をふんだんに見せていくことで、「サスペンス映画」の約束事を破壊する実験をしたのであろうか。

それも充分に考えられるが、私はそれ以上に、彼女の枝葉末節のエピソードを多く盛り込むことによって、作り手は、絶対的安定感を手に入れた日常性の、その心地良き小宇宙を描き出したかったからであると考えている。

そこで紹介される、夫との微笑ましい共食風景や他愛のない会話の中にこそ、彼女の幸福なる日常性の世界の中枢があった。

それは、彼女の拠って立つ自我の絶対的安定の基盤だったのだ。

彼女は夫の売れない絵を賞賛し、常に夫の創作意欲を削ることがない心遣いを見せていた。家庭では事件のことは話さず、夫の大きな胸に、その身を柔和に預ける甘えを表現して止まないのだ。

夫もまた、妻の緊急の出勤の際には卵料理を作って、何とか栄養を補給させようとする。そしてその妻は、食欲がなくても夫の料理を満足げに食べて、常に夫への感謝の念を忘れないのである。

夫婦はまもなく産まれる子供のために、幸せな家庭の受け皿を築く努力をしているようにも見えるが、しかし彼らの振舞いは極めてナチュラルであり、どこまでも素朴である。相互に不必要な気配りをしているように見えないところにこそ、この夫婦の絶対的強みがあるのだ。

二人は心底幸福感を実感していて、そこに過剰なる尖りは全く見られないのである。

この二人についての日常描写は、事件を発動し、そこに翻弄される愚かなる者たちの非日常的風景と殆ど対極の関係を表現するものになっている。

そこにこそ、作り手のメッセージが仮託されていると解釈するのが自然なのである。

事件に翻弄される者たちの愚かさ、醜さ、滑稽さは、まさに確信的に、その身を日常性に委ねる穏やかなりし夫婦の存在性によって相対化され、その非日常的風景の崩れのさまを、より醜悪なる形で炙り出されてしまうのだ。

マージは警察署長であり、事件の中心的捜査官だが、彼女の勤務の内実は非日常的な醜悪さに触れることはあっても、彼女自身は特段の自己犠牲的使命感によって、且つ、そこに侵入するに足る相当の覚悟をも随伴させつつ、その非日常の刺々しさの中に踏み込んでいるようには見えないのだ。

彼女はあくまでも、マイペースに淡々と職務をこなし、時には悪阻の症状を見せて、職務を中断することさえある。

事件に対する彼女の入り方は、殆ど、彼女の日常性と地続きなのである。彼女の職務もまた、彼女の普通の日常のそれと変わらないのだ。

彼女がその身重の体を移動させながら、連続殺人事件という非日常の世界に踏み込んでも、その世界が放つ危険で醜悪且つ、刺々しい臭気を嗅いでも、彼女は全くそれに振られる素振りは見せないのである。

彼女にとって、自らの日常的職務の範疇にある事件への捜査とどれほど絡んでも、彼女が夫と共に求めるようにして作り上げた、その心地良き日常性が崩されることがないのだ。

だから彼女は、出産という非日常の時間と柔和に繋がっている、その固有な日常性を目立って身体化させても、本来の安定した意識の不動性を、そこに堂々と映し出して見せたのである。

映像は恐らく、その辺りについて淡々とした思いを寄せている。

しかしその思いは、確信的日常性を構築した者だけが理解し得るラインなのである。

これは、「確信的日常性によって相対化された愚かしさ」を描いた秀作であったと言えるのだ。

安定した日常性を確保した者(警察官)が、その勤務の日常性に自らを委ねるとき、その勤務が開いた非日常の現実(連続殺人事件)に入り込んでも、その者が確保する日常性との連続性が断たれていて、そこに安定した日常性を確保した者の真の強さが検証されたのである。

本作に於けるマージについての描写は、ダブルベッドでの夫との添い寝に始まって、そしてそのベッドの上で、夫との柔和な会話によって閉じていく。この描写の円環的な文脈こそが、本作の生命線であったと言えるのだ。

あと二ヶ月もすれば、新しい生命が誕生するかも知れない至福の境地を、夫婦は愉悦している。

この話は夫婦愛の極点を示す描写でもあった。

そして、妻の継続的に安定した精神的サポートがあればこそ、夫の絵が3セント切手に採用されるという細(ささ)やかな成功に繋がったと読み取れなくもない。そのエピソードの中に、慎ましやかなものに対する作り手の思いが仮託されていると見るのは、蓋(けだ)し自然であると思われる。

言わずもがなのことだが、マージとノームの関係だけが、本作で紹介された四組の典型的な関係の中で、唯一、柔和で破綻のない平和な秩序を現出していたのである。(因みに、他の三組とは、ジェリーとジーンの夫婦、ジェリーと義父ウェイド、そしてカールとゲアの犯罪コンビの関係である)

カール
最後に本作は、「変な顔」の男という記号でしか語られなかった小男が、その人格性を削られたまま、多少湿気のある日常性(娼婦遊び)と、乾燥した非日常性(事件の連鎖)を往還させながらも、その脆弱な自我をより劣化させる方向に崩していった様態を対極に置くことで、映像の基本ラインの構造を映し出しているとも把握できる。

結局この話は、それぞれの拠って立つ、自我の基盤の硬軟度や豊凶度のさまというものが、それぞれの自我が関与する状況下で、いかに自らを有利、不利なものに分けていくかということを人間学的に考察した一篇であったと、私が勝手に把握した次第である。

「・・・何のために?僅かなお金のため?人生は、もっと価値があるのよ。そう思わない?バカなことを。こんないい日なのに・・・理解できないわ」

このマージの言葉の重量感は、当然の如く、捕縛されているゲアには届かない。或いは、この映像を観る多くの者たちにも届かなかったのかも知れない。

それもまた、良しとしよう。映像から何を汲み取り、何を捨てていくのもまた、観る者の自在なスタンスや思い入れの度合いに因っているからである。



12  ある種の堅固さを持った、本質的な思考ラインから切れた者の怖さ



ただ、最後まで本質的なことを語ることをしなかったゲアという人間を、私たちがどう観るかというその眼差しだけは、正直気になるところである。

本質的なことをこの男が語らなかったのは、この男が、何かある種の堅固さを持った本質的な思考ラインを保持していないからである。

こういう男が最も怖いのだ。

なぜなら、そこに迸(ほとばし)る血流の不可避なうねりの音響というものが、私たちの感覚器官に捕捉されないからである。この男だけが、そこに特別な感情爆発のサポートなしに確信的に人を殺し、淡々と殺めたその死体をミンチ状にして、まるで無機物の感覚によって裁断することができたのだ。

ゲアとカール
この男は、紛れもなく人格障害者であり、それも極めつけの人格破綻者であったと把握すべきなのである。

こんな男は、ひたすら欲望の赴くままに動いて、それが遂に枯れることのない人生をこそ選択し続けるだろう。

だからこの男は、ただ単にフラットな意味で、この世にごまんと存在するであろう、「愚かなる者たち」のカテゴリーに入れることさえ難しいと言わざるを得ないのである。

ついでに言えば、映像の中でその哀れさと愚かさを曝し続けたのは、ジェリーとカールの二人である。しかしこの男たちに対する言及は、先述したラインの把握で既に充分であるだろう。

警察署内に、昼食用のバーガーを届けてくれる夫に対して、予め用意しておいたたミミズを渡すマージ。夫の釣りの餌をさり気なく渡すその振舞いは、極めてナチュラルに進行する夫婦の日常性の、その等身大のサイズに見合ったかのような、ゆったりした速度に嵌っていて、このような他愛のないエピソードを、センスに満ちたシナリオに書き込んだ作り手の、時間の観念を独創的に表現するものとして、限りなく印象的であり過ぎた。

それは、本作を観る者の時間の観念をも、そこに軌道修正させていくに足る説得力を含む描写となっていて、私としては、無前提に受容できた次第である。

返す返すも、見事な一篇だった。

(2006年7月)