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2009年4月8日水曜日

ノーカントリー('07)     コーエン兄弟


<「世界の現在性」の爛れ方を集約する記号として>



1  恐怖ルールを持つ男



個人が帰属する当該社会に遍く支持されている規範(ルール)、それを「道徳」と呼ぶ。

この道徳的質の高さを「善」と定義しても間違いないだろう。

しかしそれらは、どこまでも「やって欲しいこと」と「やって欲しくないこと」を内的強制力、内面的原理として成立し得る概念である。

そこでの規範を大きく逸脱する者は社会から心理的又は、しばしば物理的に排除されることによって、当該社会、或いは、共同体を維持する秩序からの身体的逸脱の行程を余儀なくされるかも知れない。

それでも逸脱した者の行動の自由は、本人がなお選択的に保障される範疇にあるだろう。

その逸脱者が帰属すると信じた生活圏から石を持って追われたにしても、別の生活圏に移動すれば、また新たな自己基準に則った人生を拓いていけば良いだけのことである。

ところが、人々の行動規範を外的強制力によって縛る「法律の体系」というものが、この世に存在する。

それが内的強制力、或いは、内面的原理としての「道徳」や「善」という概念と切れているのは、人々の自由の範疇を規定し、縛ることによって、それを逸脱した者に対して、一定のペナルティを課す可能性に関わる権力性を保有しているからである。

言わずもがなのことだが、社会秩序を維持するために強制される規範に基づくこの権力性の下で、人々の安定的な秩序が維持されるのである。

その発現様態において、しばしば暴力性を内包するその権力体系によって守られている人々を「国民」と呼び、その「国民」を守っている権力体系を「国家」と呼ぶ。

「主権」、「領土」、「国民」によって成る「国家」は、「国民」に守るべき行動規範を強制し、当然の如く、特別のケースを除いて、何人もその例外を許容することはないのだ。

それ故にこそと言うべきか、「法律の体系」という外的強制力によって、「国家」が「国民」に強いる行動規範を特定的に切り取って、特定的に切り捨る行為を身体化する者が存在するとしたら、その者を我々は「犯罪者」と呼ぶ以外にないだろう。

そしてその「犯罪者」の内側に、その特定的な行動規範が凛として存在し、そこに一片の躊躇や逡巡もなく、自らが拠って立つ自己完結的な存在性それ自身によって、あっという間に空気を変色してしまう決定力をいとも簡単に身体化させしめる、その圧倒的な支配力を目の当たりにさせられるその不気味さに対して、私たちは一体何と形容すべきなのか。

ここに一人の男がいる。

この男は、「アメリカ」という帝国的な「国家」による外的強制力の一部分を、堅固に守る律儀な性格を持ち合わせていたために、予測し難い交通事故に遭遇し、大怪我をしてしまう。交通ルールをきちんと守って走行する男の車に、一時停止を無視した車が衝突し、その結果、腕の骨が皮膚から飛び出る重傷を負ってしまうのである。

一命を取り留めた男は、子供にシャツを売ってもらって腕を吊り、そのまま、まるで何事もなかったかのようにして、平然とその場所から去っていくのだ。

このカットが、際立って毒気の強い映像における、この男の最後の「雄姿」を伝える描写となった。

律儀なまでの男の規範意識は、全て内側から組織されてきたものだ。

その行動規範に則って行動し、生きてきたに違いないのだが、多くの場合、「国家」が強いる法体系という名の重要な行動規範を無視したことによって、男は無慈悲な殺人鬼と呼ばれ、なお捕縛されずに自己基準によってこれからも動いていくのであろう。

交通事故に遭う直前に、男は自分のルールに則って、命を請う振舞いを見せたかのような若い女性を殺害してきたばかりなのである。

このシーンが、映像を通して、男が最後に「記録」した殺人となったが、実はそれ以前にも、何人もの罪なき人々や同類の犯罪者が、この男によって絶命させられてきているのだ。

肝心な部分での心理描写を半ば確信的に捨てたであろうこの恐るべき映像は、この男によって一貫して支配され、リードされていて、観る者は否が応でも、男の堅固な行動規範の超越性を見せつけられていくのである。

男は人生を、コインの表か裏によって判断する賭けごとのように考えている。

男が投げたコインが表と出るか裏と出るか、その結果によって、男が命令した相手の生死をも決定づけてしまうのだ。

先の若い女性(男によって追跡された、ベトナム帰還兵の女房)の前に、まるで予約された悪霊のようにして出現した男は、そのときもまた、女に自分の生死をコインで判断させようとしたのである。

以下、そのときの二人の会話。

「私を殺しても意味はない」
「だが約束した。お前の亭主に」
「主人に私を殺すと約束したの?」
「彼には君を救う機会があった。だが、君を使って助かろうとした」
「それは違うわ。そうじゃない。殺す必要はないわ」
「皆、同じことを言う」
「どう言うの?」
「“殺す必要はない”」
「本当よ」
「せめてこうしうよう。表か裏か」
「・・・決めるのはコインじゃない。あなたよ」
「コインと同じ道を俺は辿った」 

最後の男の言葉は意味深だったが、ともあれ、映像はその殺人現場を映し出さなかった。

しかし、女の家を出た後の男の仕草(血糊が付いたであろう靴を地面に叩く)によって女が殺害されたことを、観る者は認知するのである。

勿論、男の仕草がなくても、男が女を殺害したであろうことは、本作と付き合ってきた鑑賞者には了解し得るだろう。

なぜなら、男はコインによって相手の生死を決定づけるという恐怖ルールを、決して反古にしないことを知り得るからである。

大体、男の独自で畏怖すべきルールの基幹には、「犯行現場で自分の顔を見た者」と「自分の命令に逆らった者」、「自分の行動継続に邪魔になる存在」は必ず殺すという行動規範が厳として存在するのである。女もまた、自分が与えたコイントスの「チャンス」を拒否したから、殺害される運命から逃れられなかったのだろう。

人生は賭けごとであるが故に、人は誰でも、これまでずっと賭け続けてきた歴史を持つという認識が男の内側で前提化されているから、男によって与えられたと信じさせるに足るコイントスの「チャンス」を、相手の恣意性によって拒むことは決して許されないのである。

コインで相手の生死を決定づける描写は、本作の20分後にあった。

ガソリン代を支払う際の、男と雑貨店主の会話がそれである。

以下、少し長いが、本作の本質を集約したかのようなこのシーンの重要性を無視できないので、5分間にも及ぶその不条理なる会話を再現してみよう。

「途中、雨に降られました?」と主人。
「どの道で?」と男。
「ダラスからでしょう?」
「どこから来たか、お前に関係あるか?」
「意味はありません」
「意味はない?」と男。
「ただの世間話です。それで頭に来るのならどうしたらいいか…他に何か?」と主人。

この辺りから、自分の対話相手が尋常な人間ではないことを感受するが、相手によって偶発的に作られた状況から、如何にも人の良さそうな老主人は出口のない袋小路に捕捉されてしまうのである。

「さあ、あるかな?」と男。
「気に入りません?」と主人。
「何が?」
「何でも」
「“気に入らないことがあるか”と俺に聞くのか?」
「他に何か?」
「さっき聞いたよ」
「そろそろ店を閉めるので」
「店を閉める?何時に?」
「今です」
「だから何時に閉める?」
「普通は暗くなる頃に」
「何を言ってるんだ?」
「はい?」と主人。
「何を言ってるか、分ってないだろ?」と男。

厄介な相手を満足させ得る適切な答えが見つからず、老主人は困惑し切った表情を露わにするばかりである。

「何時に寝るんだ?」と男。
「はい?」
「耳が悪いのか?お前は何時に寝るんだ?」と男。
「大体、9時半頃だと思います」
「その頃、また来る」
「なぜです?閉店するのに」
「聞いたよ」
「もう閉店します」
「裏の家に住んでいるのか?」と男。
「ええ、そうです」
「生まれた時から?」
「以前、ここは女房の父親のものでした」
「財産目当ての結婚か?」
「長いことテンプルに住んでいました。子供を育てたのもテンプルで、ここに来たのは4年前」
「財産目当てか?」
「そう言うなら…」
「俺がどう言おうと、それは事実だろうが」と男。

男は菓子の包み紙を握りつぶし、テーブルの上に置いた。

「過去にコインの投げの賭けで、負けて失った一番大きいものは何だ?」と男。
「さあ、分りません」と主人。
「当てろ」
「私が?…何を賭けて?」
「いいから」
「表か裏を言う前に何を賭けるかを…」と主人。
「お前が言うんだ。俺が言ったらフェアじゃない」と男。
「何も賭けていません」
「いや、賭けたよ…お前はずっと賭け続けてきた。このコインの発行年は?」
「さあ」
「1958年。22年旅をして、これは今、ここにある。表か裏か、どっちか言え」
「勝ったら、何をもらえるんです?」
「全てだ」
「と言うと?」
「勝てば全てが得られる」と男。
「それでは…表です」と主人。
「・・・よく当てた。・・・ポケットにしまうな、それは幸運のコインだ」
「どこに入れたら?」
「ポケット以外だ。ただのコインと交ざってしまう・・・ただのコインだが」

絶対に口答えが許されない恐怖と、相手を満足させるに足る答えが見い出せない恐怖が、そこにあった。

この映像と、ファーストシーンにおける保安官補殺しの描写によって、本作がこれまでのカテゴリーに収まらない種類の映像であることが判然とするであろう。

それ故に、映像に対峙する態度として、観る者に相当の覚悟を括ることが求められてしまうのである。

観る者にも了解し得たであろうが、この描写の後、男は年老いた店主を殺害しなかった。殺害できなかったのである。

自らの運命を決めるコイントスの「勝負」に、老店主が「勝利」したからである。

男の行動規範の中には、「偶然性」という要素が重要な条件になっていること ―― 少なくとも、映像の鑑賞者にはそれだけは認知し得るのである。

それにしても、この雑貨店の主人との意味のない会話の不気味さに、観る者は驚きを禁じ得ないだろう。

この厄介な男には、人間的感情を含んだ会話というものが成立しないようなのだ。

そんな厄介な男の、冷静過ぎる乾燥した凶暴さは、本作のファーストシーンで如実に表現されていた。

保安官補に逮捕された男が、保安官事務所で待機させられているとき、男は手錠を嵌められた腕を保安官補の後ろから回して、力の限り首を絞めたのである。

絞めて、絞めて、なお絞め続けて、男は遂に若い保安官補を絞殺してしまったのだ。

この震撼すべきシーンに、作り手は一分間もの時間を使っている。

この描写が、本作における男の本質を的確に表現する描写になっていくことを、観る者は認知することになるのだが、同時にこの映像が、一貫して音楽を必要としない作品であることをも了解するに至るだろう。

更に、この男が映像を支配し切ってしまう予感をも感受するに違いない。

観る者のそのような感受性の構えが、この作品の怖さを予約してしまうのである。



2  敵愾心の感情を無化されてしまうような恐怖感



では、この映画の怖さとは、一体何だろうか。

二つある、と私は思う。

一つは絶対に死なないだろうと思わせる犯罪者が、決して諦めることなく、自分を追い続けて来ることの怖さ。

もう一つは、世間一般のごく普通の行動規範が全く通じない怖さであって、この怖さこそ、雑貨店主に象徴される、映像の中で善良そうな人々が目の当たりにした怖さであると言っていい。

真の怖さとは、相手に憎悪や敵愾心の感情すらも無化されてしまうような恐怖感なのである。

そんな怖さを画面一杯に体現させた男こそ、これまで本稿で言及してきた、アントン・シガーという名前を持つ殺し屋だった。

本稿では単に「男」と呼んできたが、この「アントン・シガー」という名前は、殆ど記号以外の何ものでもないだろう。この男の人格をサイコパスという概念に当て嵌めることが難しいほど、男は一切を超越しているのだ。

彼は「羊たちの沈黙」のレクター博士の分類の内に当て嵌めるのも無理があるし、かつて高い評価を得た同じ作り手による、「ファーゴ」という作品に出てくる凶暴な大男の人格の範疇に含めることすら困難であるだろう。なぜなら、彼らには他者のそれと異なる感情の、それなりの振幅が見られるからである。

ところが、本作の男には人間的感情のターミネーターであり、殺人マシーンであり、言ってみればジム保安官が呟いた「幽霊」のような存在に近い何かである。

事件現場に平然と戻って来る犯人の異常性について、地元の保安官に問われたジムは、一言、こう呟いたのだ。

「異常者じゃない。“幽霊みたいなもんだ”と思うときがあるよ」

事件の闇に肉薄できない苛立ちを、「人が敬語を使わなくなった結果がこれだ」と表現したジムには、男の存在それ自身の実在性をも訝ってしまうのである。

「犯罪者」という範疇をも超越するかの如き男に対するイメージは、もはや人間ではないと考えることによってしか心を鎮められないのだ。

では一体、この男は何者なのか。

作り手にとって、この男の存在性を象徴するイメージとは何だったのか。

ここに、興味深い一文がある。

一見鋭利な分析のように見えるが、極めて文学的濃度の深い、本篇の原作に寄せた訳者の把握がそれである。少し長いが引用してみる。

「本書を支配している闇は『社会の闇』でもなく、いわば『世界の闇』とでも言うべきものではないか。もちろんここで『世界』というのは、国家を超えた全人類社会のことではなく、『世界内存在』と言うときのような哲学的な意味の『世界』だ。

それはこの小説で悪を体現しているシュガーのことを考えてみればわかることだ。いったいアントン・シュガーとは何者なのか。(中略)

結論はもうおさっしのとおりで、要するにシュガーという男は、悪魔か、死神か、死の天使か、異星人か、あるいはベル保安官の言葉を借りれば『生きた本物の破壊の預言者』か、ともかく何か『純粋悪』とか『絶対悪』とでも言うような存在であるかのように描かれているのだ。ちなみにマッカーシー本人は、ヴァニティー・フェア誌2005年八月号のインタビューで、シュガーを『純粋悪(pure evil)』と呼んでいる。(中略)

この小説はギリシア悲劇である、と考えれば、しばしば現れる運命論的な記述も納得できる。シュガーが説くコイン投げの哲学や、弾丸が当ったカレンダーの日付けや、カーラ・ジーンが語るルウェリンとのなれそめの話など、そうした箇所はいくつも出てくる。

シュガーやモスの言葉からは、ある一つの人間観が浮かびあがってくる。それは、人は誰でも誰でも生まれたときから一本の線を描いて生きていくという見方だ。家族や地域や国家という面に所属するのではなく、一人一人がそれぞれの一本の線を描いていくのだ。

その線が、あるときシュガーのような『純粋悪』が描く線と交わってしまう。こんなことは全くの偶然で、理不尽きわまりないことだ。モスの場合は自業自得の面があるかもしれないが、わけのわからないうちに即死させられる男もいるわけである。人はこういうことを運命として受け入れるべきなのだろうか。

オイディプスは、自身が描く線と、実の父親の描く線が三叉路で交差したとき、知らずに『罪』を犯してしまうが、それを運命として引き受ける。カーラ・ジーンは、自分に落ち度があるとはとうてい言えない事柄の結果を、最後には運命として受け入れるように見える。そこはいったいどういう理路があるのか。それは私たち現代人にも意味があるとことなのかどうか。

近代的思考は、『内なる闇』と戦えと主張してきた。悪魔だの怒れる神々だのが支配する『外の闇』と戦えと主張してきた。悪魔だの怒れる神々だの支配する『外の闇』など存在しない。問題は人間の心であり、人間と人間の関係なのだと。不都合があるなら心の治療し、社会を変革すればいいのだと。

『対人間、対社会の次元』を超えた何かの秩序について―― 外の闇について―― 私たちはふだんほとんど何も考えていないように思える。シュガーはそのことを考えろと迫ってくるのである」(「血と暴力の国」コーマック・マッカーシー作 黒原敏行訳 扶桑社刊 「訳者あとがき」より/筆者段落構成)

私もこのような類の文章を書いてしまう嫌いがあるのは認めつつも、それでも常に具象的イメージを持って、限りなくリアルに表現することを心がけているつもりだ。

正直、上記の文章はあまりに文学的すぎて、所謂、「何となく分ったようで分らない」というようなファジーな印象で片づけてしまう不快と同居する時間を、逸早く回避したいと欲する感情のラインの内に、肝心なテーマ言及を稀釈させたまま、多くの場合、あっさりと流してしまう傾向を持ってしまうのである。

私が「哲学」に餓えていた20代初めのころ、マルティン・ハイデッガーの「存在と時間」を読んだとき、スピノザの「エチカ」とか、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」、或いは、マックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」に象徴される、他の多くの哲学者の著作がそうであったように、その難解極まる観念論の洪水に辟易(へきえき)しながらも、「何となく分ったようで分らない」気分との心理的同居に耐えられるような孤独志向が媒介されていたので、自分だけは「世界」と直接的に繋がっているという「稀少性の快楽」を何だか勝手に手に入れたつもりになって、辛うじてアイデンティティの喪失の危機を回避してきたように思えたのである。

果たして、原作も映像も、「世界内存在」というハイデッガーの哲学概念を必要とせざるを得ない類の、際立って「高尚」な作品なのか。

「外なる闇」、「内なる闇」とか「純粋悪」などという概念にも、今の私の中ではあまりに馴染めない気分が横溢してしまっているのだ。

どうしても具象的なイメージによって捉え難いのからである。

一切は言葉のゲームでしかないと思うのだ。

それでも「一本の線」という把握には、本篇を通底するキーワードとして興味を喚起させられたことは事実である。

確かに、以上の文学的文脈による把握には好奇心をそそられる面もあるが、しかしそれはどこまでも、原作への把握の範疇を越えないのは言うまでもない。

コーエン兄弟
私には、本篇の作り手が心理描写を半ば確信的に回避したという感懐を持つので、そのことが意味する内実は、本篇の登場人物たちの振舞いについての解釈を、映像の鑑賞者に委ねていると捉える以外にないと思うのだ。

特段の問題意識を持たなければ、ザラザラしたフィルム・ノワールの一篇という解釈で済んでしまうのだろうが、恐らく、テキサス州出身のトミーリー・ジョーンズが演じたジム保安官の「キャラクター」の存在性によって、アカデミー作品賞に逢着したかのような印象を持たせるほどに救いのない物語の話題性に乗って(実際は、自己完結的なキラーを演じたハビエル・バルデムが助演男優賞を獲得)、まるで厄介なゲームの謎解きを迫るような原作と、それをほぼ忠実に映像化したと言われる本篇の「静謐過ぎる暴力性」は、観る者の分析意欲を惹起させる何かであった。



3  「世界」の爛れ方を集約する記号として



以下、一人の映像鑑賞者としての視座で、「幽霊」のような存在である男についての解釈を中枢の問題意識に据えて、一度見たら決して忘れ難いほどの毒気に満ちた本作への言及を進めたい。

この映像の背景となっている時代が、「ベトナム後」の1980年であることは軽視できないだろう。

男に追われるモスも、大金目当てでモスを病院に訪ねる、一匹狼的な雇われキラーもベトナム帰りだった。

この二人とも、本篇を一貫して支配し切った男の銃弾の餌食となって無残な死を遂げるのだが、少なくとも、溶接工であったモスの人生の振れ方がベトナム経験と無縁であったとは考えられない。

彼は遥か彼方の東南アジアの「小国」との戦争に二度出兵し、運良く生還できたベトナム帰還兵だったが、溶接工としての真面目な勤務と隔たった辺りで、彼の生活風景が成り立っていたであろうことは、大金強奪に関わる描写と、ハンティングを趣味とするファーストシーンにおける一連のカットによって想像し得るだろう。

もう一人のキラーの人生について、本篇では全く語られていないが、一匹狼的な雇われキラーの立ち上げが、「ベトナム以後」であったのは間違いないと思われる。

「ベトナム」は無敵の帝国的国家の威信を傷つけたばかりか、そこに住む人々の生活文化の有りようを変容させるほどに、甚大な歴史的インパクトを持つ何かであった。

ベトナム帰還兵であったモスが、まさにその「勲章」によって、保守的な風土を持つと言われるテキサスでは大手を振るって歩けたかも知れないが、「ベトナム」はそんなテキサスの文化風土を、彼ら「ベトナム帰還兵の心の闇」に象徴される、この国の歴史の「負の遺産」と同居する危うさを随伴して、じわじわと、しかし明らかに眼に見える形で変容させしめていったのである。

事件の異常性に立ち往生して、ジム保安官に嘆く地元の保安官の言葉がある。

「もしも20年前に、将来、テキサスの子供が“髪は緑色、鼻にピアス”だと聞いたら信じなかっただろう・・・悲惨だよ。原因は一つじゃない」

恐らく彼らにとって、「昔は良かった」というときの昔の時代とは、ベトナム戦争が始まる以前のこの国の文化であり、その時代に生きた人々の慣習であり、そしてそこだけは何か独立国家のような存在感を誇示してきた感のある、「テキサスの古き良き文化風土」の色彩感であったに違いない。

テキサスで生まれ、テキサスで育った保安官にとって、そのテキサスの中で出来する異常な現実は、テキサスそれ自身と、それが帰属する帝国的国家の否定し難い爛れ方を意味しているのだろう。

本篇を支配し切った凶暴な男は、テキサスと、それが帰属する帝国的国家を破壊する異界の存在体であり、理解不能な秩序の破壊者であった。まさにこの男が象徴するものは、恐らく、原作者が把握する「純粋悪」、「絶対悪」という概念の範疇で収まらない、何かもっと大きな歴史性を内包するイメージこそ相応しいのではないか。

それは「世界の現在性」という概念こそ、私にはフィットし得るイメージなのである。

即ち、「ベトナム」によって裂傷を負った帝国的国家が、自らに関わる異界的な世界に残した様々な傷跡を含む歴史性、それこそが由々しき事態を分娩した内実だったと思われるのだ。

思えば、この国にとって、「世界」とはこの国それ自身であり、この国に利益をもたらすことのない、それ以外の存在は彼らの関心領域の内に含み得ないジャンクな何かでしかないのであろう。

従って、「世界の現在性」とはこの国の現在性であり、もっと言えば「ベトナム後」のこの国の歴史性それ自身ではないのか。

「ベトナム後」がこの国に負わせた裂傷の象徴性が、本篇の巨大なキラーの存在性を象徴する何かであると思われるのである。

男は自分の内側に、他者の自由の領域すら容易に剥奪し得る絶対的な行動規範を持ち、それ以外の一切の規範を認知しないのだ。それもまた、この国の「ベトナム後」の「世界の現在性」を象徴しているとは言えないか。

恰も異界からの凶暴なるインベーダーとして、この国に唐突に舞い降りてきた感のある「妖怪」だが、その「妖怪」は、恐らく異界から「舞い降りてきた」のではなく、一個人の力量では全く何も為し得ないと思わせるに足る、大きな世界の予測し難い展開のリアリティの前で、この国に呼吸を繋ぐ人々の規範の変容感覚が静かに、しかしそこだけは確実に視界に収め得る「世界の現在性」の不気味な胎動というものが、その内側から分娩した「鬼っ子」であるように思われるのだ。

そんな「鬼っ子」が、「鬼っ子」としての本領を存分に身体表現した描写がある。

その会話を詳細に再現した、先述の雑貨店主との恐るべき遣り取りである。

それは本作の中で、私が最も重要であると思えるシーンだが、この不毛であるように見えながらも、まさにその不毛性の中に映像の本質が垣間見えるこの描写の決定力は圧巻であり、且つ、奇怪なまでに歪んだ物語の震撼すべき内実をこれほど露わにした場面はないだろう。

「途中、雨に降られました?」

雑貨店主が店の客に対して、今までもそうであったようなごく普通の挨拶レベルの何気ない会話を、全く含むところなく求めたとき、殺人を犯して来たばかりの無表情な男から返って来た答えは、「どの道で?」という一言。

「ダラスからでしょう?」と反応した雑貨店主に対する男の答えは、「どこから来たか、お前に関係あるか?」のみ。

「意味はありません」としか反応できない状況が作られてしまったとき、雑貨店主の内側には、「ただの世間話です。それで頭に来るのならどうしたらいいか…」という答え以外の何ものも選択し得ない恐怖が、一気に広がっていったのである。

先述したように、この恐怖の本質は、相手を満足させるに足る答えが見い出せない恐怖であると言っていい。

人間は反応しなければならない何かを全く持ち得ない状況下で、その反応を拒絶できない不条理に拉致されて、且つ、状況からの物理的突破の可能性が断たれてしまっているとき、完全に無力な存在になるであろう。

そんな恐怖をひしと感受した店主が、得体の知れない男から、なおも畳み掛けられていくのだ。

「何時に寝るんだ?」、「耳が悪いのか?お前は何時に寝るんだ?」、「裏の家に住んでいるのか?生まれた時から?」、「財産目当ての結婚か?」などという思いもよらない詰問に追い詰められていった挙句、雑貨店主は遂に自分の命を賭けるコイントスを迫られるのである。

「お前はずっと賭け続けてきた」と言い放つ男の「人生哲学」が、そこに一つ開かれたのだ。「勝てば全てが得られる」と言う男の言葉の含意には、「負けたら全て失う」という震撼すべき現実が隠されているのである。

男の「人生哲学」に貼り付く「偶然性への譲歩」によって、雑貨店主は辛うじて命を落とさずに済んだが、人生を永遠なるギャンブルの連鎖と考える男には、究極的に「生か死か」を決断せずに生きることから逃避する世俗者の存在を認知しないのだ。 

「コインと同じ道を俺は辿った」という男の言葉が、本篇のラストに用意されていたことが意味するものは何か。

それは詰まる所、「生か死か」を決断して生きてきたと思わせる男の人生の、その「一本の線」である軌跡の確認であるだろう。

然るに、男はそのような軌跡を持たない他者を軽侮し、自分の人生のラインに関わる他者の人生をも支配し切ってしまうのである。

「ベトナム後」の「鬼っ子」である男は、自らを分娩した「世界」の爛れ方を集約する記号として、なおその「一本の線」を突き抜けていくのだろうか。

思えば、本作の背景となった時代から21年後に出来した「9.11」において、人間と人間との関係の有機性が殆ど剥落したかのような震撼すべき状況が開かれてしまったように見える。

もうそこには、長い時間をかけて関係を作り上げていく一連の努力すらも反古にされてしまうような、言ってみれば、「世界の現在性」の爛れた様態が露呈されていて、時代の裸形のラインが露わにされてしまったのではないか。

本作の作り手がそのような問題意識を持って、この厄介な原作を映像化したかどうか判然としないが、私にはそのようなペシミズムに黒々と彩られた含みを、この抜きん出て挑発的な表現から読み取ってしまうのである。

私たちの時代が今、底知れないほどの未知のゾーンに搦(から)め捕られてしまっているようなのだ。

そんな嘆息が、決して声高にならない作り手の咽喉の奥深くから漏れ聞こえてしまうのである。

関係を有機的に繋いでいくことの意味すらも反古にさせる、稀代の「鬼っ子」の偶発的闖入の恐怖 ―― 作り手はそんなメッセージを本作に仮託したのであろうか。

以上が私の独断的解釈だが、多分にユーモアのセンス溢れる作り手以上に、ペシミズムの濃度が深い私には、それでもなお、「今の世界、今の社会が最悪だ」という類の証明困難な安直な解釈をするほど、乱暴極まる「評論家もどき」ではないという多少の自負位は堅持しているつもりである。

私たちの時代の私たちの社会は、確かに未知のゾーンを過剰に広げ過ぎてしまっているが、少なくとも、「先進国クラブ」に参入する国民国家の内側では、人前で平気で黒人を吊るす直接的な暴力性からは基本的に解放されたと考えるべきである。 

ともあれ、一人の鑑賞者である私には、些か挑発的な映像の基幹的なイメージは、「主観の暴走」という逸脱を一応回避し得たであろう、以上の言及によって収まる枠内で落ち着くものだった。

何よりも、このような奇怪な原作を映像化することを特定的に選択したように思われる作り手には、「世界の現在性」というものが、殆ど悲観的に感受せざるを得ない厄介な様態を露呈しているように見えるのだろう。



4  柔和なる軟着点への「原点回帰」  



だが私たちは、常に注意深く観察していかねばならない。

私たちが懐古的に「昔」という言葉を使うとき、そこに特別に痛切な心的外傷の類が張り付くことがない場合、それが意味する時代は、自分の脳が記憶した様々に彩られた経験の中で程好くシャッフルされ、濾過された快感情報だけが心地良く残った、殆ど幻想に近いイメージの束が奏でる時間性であると言えるということだ。

そこでは自我を不必要に甚振(いたぶ)る不快な情報群は、「認知的不協和理論」(注)の心理学によって巧みに読み替えられてしまっているので、「現在の自分」が、まさに「現在の時間」に呼吸を繋ぐに足る分だけ切り取られてしまっている筈なのである。


(注)矛盾する「認知」を自分の中に感受したとき、事実を巧妙に解釈することで自我を安定させようとする心理的営為。


だから私たちは、多くの場合、「懐古的な自己史」と上手に共存して呼吸を繋いでいるに違いない。

そうでもしなければ、自分の過去と折り合いをつけられないからである。自分の過去と折り合いをつけられない人生をなお繋いで生きていけるほど、私たちの自我は強靭ではないのだ。

繰り返し言及するが、そんな人生を体現する男こそ、本作でのジム保安官であるだろう。

作り手は、映像の通奏低音として脈打っている彼の感情世界の中に潜り込んで、まるでそこに多分にユーモアを含ませながらも、その基調は一貫して映像を支配し切った男の異界の如き理解不能な世界を中和させるかのようにして、そこで自らの思いを仮託させているように見える。

それを端的に語る描写が、本作のラストに用意されていた。

ジム保安官が妻に語る、二つの夢の描写がそれである。以下の内容である。

「二つ夢を見たが、両方に親父が出てきた。親父は今の俺より20歳若くして死んだ。夢では俺が年上だ。初めの夢は、どこかの町で親父に金をもらい、それを失くした。二つ目は、二人で昔に戻ったような夢で、俺は馬に乗り、夜中に山を越えていた。山道を通って行くんだが、寒くて地面には雪が積もっていて、親父は俺を追い抜き、何も言わず先に行った。体に毛布を巻き付け、うなだれて進んでいく。親父は手に火を持っていた。昔のように牛の角に火を入れて、中の透けた色は月のような色だった。夢の中で俺は知ってた。“親父が先に行き、闇と寒さの中、どこかで火を焚いている”と。“俺が行く先に、親父がいる”と。そこで眼が覚めた」

この夢が説明するイメージには、少なくとも、夢の主の直接的なメッセージが柔和に語られていてとても分りやすい。

人間は生まれたら必ず死ぬ。

神を信じていようといまいと、自分の死の向こうに待機する異界の世界に確実に近づく老境の思いが、せめて死によって完成するであろう「世代の継承」という物語が、そこにしか逢着し得ない軟着点の内に自己完結することの安堵感を切実に求めているのだ。

件の老保安官が、この俗世にあって、既に居ながらにして異界の人物である「鬼っ子」と、あろうことか、ロープで囲われた殺人現場の只中で最近接した際どい描写が映像の終盤に用意されていたが、いかにもサスペンスムービーの常道を外さなかったと言えるのだろうか。

ともあれ、緊迫感溢れる最近接描写の中で、いずれかが斃される危機を老保安官が運良く脱出できたものの、彼の内側には、遂に最後まで心理的にクロスできなかった未消化の神経感覚の記憶だけが生き残されたことで、もうそこには、人間的文脈によって永劫にクロスできない絶望感だけが漂流してしまうのだ。

それでも良いと彼は括って、決して戻り得ない過去に思いを馳せる時代との接続を、その小さくも、確かな温もりをなお残す関係世界の中で復元させていく時間の内に、それでも充分に幸福であったと信じたい自らの緩やかなる軌跡を確認し、それを内深くに包んで、今の自分より20歳若くして死んだ父の元に帰って行こうとする人生のラインだけは生きているのだろう。

作り手はそんな小さな語りの中に、「それでも、『世界』はまだ自壊していない」という希望的観測を結びたかったに違いない。

最後まで強靭な「一本の線」によって生き抜くであろう、一人の超越的な男の絶対的な秩序によって支配されてきた映像のラストにおいて、その男の自己完結的な世界と、「老境の夢の語り」が凛として対峙し得るかどうかについて些か疑問だが、それでも作り手は、この語りなしにこの厄介な物語を閉じられなかったのであろう。

何かそこだけが孤立しているように見えるラストシーンの括りは、誤読される危険性を大いに持つ危ういテーマを選択した者が、それなしに結べなかったであろう、柔和なる軟着点への「原点回帰」という風に把握するのは酷だろうか。

(2009年4月)

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