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2009年1月26日月曜日

鶴八鶴次郎('38)     成瀬巳喜男



<「自己基準」に崩された愛、砕かれた芸道への夢>



1  覚悟を括った女の決定力



「ねえ、お豊ちゃん、あんた本当に帝劇に出るつもり?」
「ええ出ます。あたしはもう一度高座へ出て、昔の人気を取り戻してみたくなったの」
「それは願ったり叶ったりだけれど、ご主人が何て言うかな」
「大丈夫。許してくれるに決まってます。もしもいけないようなら、いっそ離縁を取って、独りになります。…あたしはこの生きがいのある芸の仕事に、もう一度惚れ込んだのよ」

この極めつけのような会話の決定力。

女のこの表現が、本作を根柢から支えていると言っていい。

ここで、「お豊ちゃん」と呼びかけた男が鶴次郎で、その「お豊ちゃん」が鶴八。

共に新内語りの名コンビだが、この会話の状況の背景は、芸と愛情の縺(もつ)れによって仲違いをして、2年間に及ぶ関係の断絶の挙句、一方は芸の道から離れた金満家の妻となり、他方は身を持ち崩してどさ回りの芸人となっていたが、周旋屋の佐平らの尽力で、再び名人会の高座に出演し、それが大成功を収めた興奮覚めやらぬ楽屋での一齣(ひとこま)である。


その状況に至るまでのプロットを、簡単に説明しておこう。


新内枝幸太夫の世界・ブログ
江戸時代に「座敷浄瑠璃」として発展した「新内語り」の文化の伝統を守る、一組の男と女がいた。鶴八鶴次郎である。

鶴八は先代の一人娘で、鶴次郎は先代の直弟子。

浄瑠璃を語る太夫の鶴次郎と、三味線弾きの鶴八の若いコンビの人気は、大衆の娯楽が限定的であった時代下の文化を賑わすほどの持て囃(はや)され方だったと言えるだろう。

若くして「名人会」の高座に出演する二人だったが、お互いに男女の感情を意識しながらも、芸に対する深い思いの故に、それぞれの芸に対する把握の内実が微妙な差異を見せていて、事あるごとに衝突してしまうのである。

具体的には、先代の教えを忠実に守り、それを表現していくことに自分の芸の意味を見つける鶴次郎と、母である先代のコピーをすることに、少なからず拒絶反応を示す傾向を持つ鶴八との対立の構図と言っていい。

しかも厄介なことに、芸術観の相違による二人の衝突の内に、相互に思いを寄せる男女の感情が深々と絡んできてしまうから、この関係修復の行程の軟着点の困難さが、時として、決定的な事態を招来してしまうのだ。

二人の芸を後援する贔屓(ひいき)筋の松崎の存在が、それでなくとも意地っ張りな二人の関係に常に一定の緊張感を運んできて、少なくとも、鶴次郎の主観的立場から見ると、鶴八に横恋慕しているようにしか見えない、パトロンとしての男が放つ「御為ごかしの親切」は、二人の関係にとって障壁以外の何ものでもなかった。

三角関係の様相が尖って顕在化するように見えたとき、男の悋気(りんき)が不必要なまでに暴れてしまったのである。これが、本作の起承転結の「起」の要諦である。

そんな二人の関係の緊張が、佐平らの尽力で柔和な軟着点に達するまでが、物語の「承」の部分である。温泉宿で遂に愛を確認し合った二人は、帰京後、独立の気概を持って自らの寄席を作ろうとして奔走する。


まさに順風満帆の日々が続いたのも束の間、贔屓筋の松崎の資金援助の事実を知った鶴次郎が、抑え切れない怒りを鶴八に爆発させることで、巷間、話題になった二人の新婚もどきの関係は呆気なく壊れてしまうのである。

鶴八と別れた鶴次郎が、どさ回りの芸人に身を持ち崩して、宿賃も払えないで堕ちていく生活風景を描き出すのが、本作の「転」に相当する部分である。

物語の中で、観る者の感情を最も揺さぶって止まない盛り上がりを見せる「転」の部分が、悲哀を極める男の内面世界の澱みをネガティブに写し撮る描写であるところは、如何にも成瀬らしいが、この描写が映像の表現的な価値をしっかり支えていたからこそ、作品に豊饒な膨らみを保証したと言えるだろう。

とりわけ、些か出来過ぎの感があったが、自分の名前が書かれたポスターが土地の子供に破かれた挙句、紙で作った船に化け、川に流されていくところを悲痛な眼で眺める男の描写は秀逸であった。

その後、泥酔した男が別れた女との、一時(いっとき)の幸福なる時間の日々を回想するシーンは、その直後にシフトする物語のラインの骨格を成していて、既に戦前において自分の表現世界を構築した映像作家の真髄を見る思いがする。

そして、物語の「結」の部分に映像が流れていくが、ここには、冒頭に言及した鶴八と鶴次郎の会話によって象徴される、本篇の本質に関わる描写が待機する。

繰り返すが、周旋屋の佐平らの尽力によって、再び名人会の場に戻って来た二人は、2年間のブランクを感じさせない巧みな芸によって大喝采を浴び、あわよくば、帝劇への出演のチャンスを掴みかける状況を作り出したのである。

その好機を目の当たりにして、芸一筋に生きんと欲する鶴八の強い意志を伝える会話が、冒頭の会話である。

ところが、夫と別れる覚悟をも括った鶴八の態度を見て、どさ回りですっかり疲弊した鶴次郎が困惑し、愛する女のためにひと芝居を打つのである。

男が女の芸の拙劣さを厳しく批判する芝居によって、例によって、二人の関係は修復の余地がない状態を出来させてしまうのだ。

一時(いっとき)の人気に終始する危うさを持つ芸人稼業の虚しさを、嫌というほど味わった男から見れば、本来の女の幸福が金満家の妻の生活にこそ存すると考えたのは、寧ろ、自然の成り行きであったとも言えるだろう。

この決定的な場面において、男の配慮が「自己犠牲的な精神」を発揮したかのような描写によって説明された後の物語展開は、自分が打った芝居の事実を周旋屋に告白し、彼と共に場末の飲み屋での苦い酒盛りのうちに映像が閉じていくのである。

そこには、いつものようにハッピーエンドで映像を括ることを嫌う、成瀬の表現世界の真骨頂が窺えた。



2  「自己基準」に崩された愛、砕かれた芸道への夢



この完璧すぎる映画を、どう読み解いたらいいのか。

以下、私自身の独断に基づく把握である。


それを要約すれば―― 兄妹のように育てられながらも、「ウエスターマーク効果」(男女が幼少時より共存すると、性的感情が生まれにくいという心理現象)も出来することなく、半生にわたって一人の女を特定的に愛したため、その女に対する独占支配感情の過剰さによって破滅していく男の物語、という文脈である。

「自己犠牲的な精神」を発揮したと信じる幻想によって、ほぼ近代的自我を立ち上げていた女の、その強靭な願いまでも奪い去るほどの独占支配感情に呪縛されていた男の自我の偏頗(へんぱ)性と、その爛(ただ)れ方、そして、そこに起因する人生模様の悲哀―― これが、私の本作への基本的把握である。

そのような把握を基に、本作の男と女の関係の危うさについて、心理学的観点に立って具体的に書いていこう。

異性に対する過剰な悋気による嫉妬感情は、間違いなく、対象人格への独占感情をも惹起させるだろう。

「この女は俺のものだ」という情感ラインが、「この女は俺だけのものだ」という独占的支配感情にまで高まっていくのである。

ところが、そこに自分の感情を鮮明に表現することを躊躇(ためら)う男の虚栄心が深々と媒介することで、その特定的な異性感情は、その虚栄心の尖り方に比例して内側に屈折していくだろう。

それでもなお抑え切れない感情が現時間性の中に置き去りにされるとき、その心的現象を、何か別の生産的な物語のうちに昇華することで、目立って肥大した感情を上手に中和化するスキルを持ち得ていれば好都合だが、それが叶わない自我を持った場合、その自我から間断なく煩悶が分娩され、決定的な場面でマグマのように噴き上がっていくに違いない。

映像における男のケースは、まさにこの心情ラインをなぞっていったのである。

そして三角関係にある対象人格の存在の大きさが、加速的に自分の感情を大きく揺るがすほどに膨らんでいったとき、男はその対象人格にではなく、自分が惚れ抜く女の人格総体に向かって噴き上がってしまったのだ。

その時点で、男は既に女との関係の相愛性を確認し、それを信じ切っていたが故に、自分の感情を率直に表現できない男の屈折した心理は殆ど削られていたが、それでも男の独占支配感情は虚栄心との感情リンクの中で激発せざるを得なかったのである。

その辺りが、このような男の最も厄介な部分である。

要するに、喰えない男なのだ。

しかも更に厄介なのは、男の独占支配感情が新内芸の独自性を追求する女の、本来的に創造的で、その主体的な精神世界までをも支配しようという意識を、不必要なまでに顕在化させてしまったのである。

男の偏頗な自我の濃度が、過剰なほど高かったということだ。

男のそんな意識の偏頗さを、端的に表現した会話がある。

新内芸を見事に演じ切った二人に、観客の讃辞が追いかけていた頃の、映像の序盤での、楽屋での会話である。

満足の表情を見せる女に対して、男は言い放ったのだ。

「あれはやっぱり、先代のようにやらなきゃいけないね」
「そんなことはありませんよ。あれでいいんですよ」
「どんな芸だって太夫が亭主で、三味線弾きが女房って昔から決まっているんだぜ。女房が亭主の言うことを聞くのは当たりめえでぇ。そいつをいちいち楯を突いていられちゃ、一緒に高座がなりたたねぇや」

男は先代の芸を継承する自負心によって、女の芸の独自性と創造性を支配しようとしたのである。

この場面は、純粋に新内芸に関わる衝突であったが、一貫して男は自分の芸の正当性のみを主張し、それを女に押し付けるばかりなのだ。

この対立の構造性は、本作を貫流するほど重要な点であった。

然るに、本篇のプロットでも書いたが、芸に関わる二人の関係に明瞭な変化が顕在化されていった。

物語の「転」に相当する場面において、どさ回りの悲哀の果てに待機していた、名人会における女の芸との共演の中で、女の芸のそれが、自分の芸を上回るほどの能力を発見するに及んで、男は女の芸を独占支配する感情が削がれたに違いない。

新内芸への思いの深さが育んだ男の虚栄は、この時点で崩れ去ったのである。

それでも、男の本来的な独占支配感情は死んでいなかった。

物語の最終局面で放った、なお愛しい女に対する男の大芝居は、どこまでも喰えない男にとって、女の幸福を願う純粋な感情表現であったに違いない。

しかし、そこでの「自己犠牲的な精神」の発露もまた、そのような芝居を打つことによって、女の未来の時間を自分が管理掌握しようとする感情の表れであると見ることができるのだ。なぜなら女は、心優しく穏健で、抱擁力を持つ夫と離縁してまで、自分の芸の創造的な継続の意志を、男に対して強靭な言葉を結んでいたのである。


女の幸福は男によって決められるものではなく、女自身が自ら選択し、決定づけていくという極めて近代的な観念の文脈が、そこに濃密に窺えるが、男はその繊細な内面世界にまで踏み込んで、新派人情劇のような大芝居を打つに至るのだ。

しかもその行為が、「男の粋」を具現化した、「諦念」による「自己犠牲的な精神」の表れであると信じて止まない心情として、男の内側に伏在していたのである。

そして、極めつけのラストシーン。

周旋屋と苦い酒を酌み交わすときに生まれた僅かの間(ま)―― その間隙を縫って聞こえてきた三味線こそ、芸に生きると括った女の恨み節だった。率直にそう思った。それは、男の勝手な幻想を撃ち抜く挑発的な旋律であるとも思えるのだ。

自己基準を押し付けるな!

本作を、悲哀を極めた感のある男の側からでなく、その男によって翻弄され続けた女の側から見ていくと、恐らく、その感情を集約するのは、このような言葉による噴出であるに違いない。


要するに、この映画のサブタイトルは、「『自己基準』に崩された愛、砕かれた芸道への夢」という表現こそが相応しいだろう。



3  ポスターで作った紙船の川流れ



三味線弾きの独立的な自我を砕く三文芝居への、決定的なアンチテーゼ―― 映像を素直に受容できない天の邪鬼の私には、その一言に含まれた物語の括りを、成瀬映画のメタメッセージとして読解したかったが、実の所、不分明である。

ところが、戦後に「リメイク」版として作られた「鶴八鶴次郎」(大曾根辰保監督/1956年)という映画になると、多くの点で短篇の原作を大きく膨らませた作品に仕上がっていたせいもあって(ラストシーンで、新内の三味線が聞こえる場面は、成瀬作品と同様に原作にはない)、成瀬のそれとは全く別物の娯楽人情劇に変容を遂げていた。

確かに成瀬の作品も、見方によっては、「諦念」と「意地」を主要なメンタリティとする、「江戸っ子の粋」を描いた「自己犠牲の人情劇」という把握も充分に可能であるばかりか、いや寧ろ、そのような文脈で本作を受容した人の方が多かったと思えるが、それでも大曾根辰保作品に過剰に見られた多くのエピソードを、確信的に削り取った本作のリアリズムの秀逸さが抜きん出ていたとする評価は否定しようがないだろう。

なぜなら、成瀬が削り取った描写こそ、生涯を賭けて愛した女や、恋人のために自分を裏切った愛弟子を救済する鶴次郎の、その男っ気溢れる厚情深き人格像が丹念に紹介するエピソードであったからだ。

大曾根辰保作品
大曾根辰保作品の描写の極致は、ラストシーンにおける、男と女のエピソードに尽きると言っていい。

帝劇への出演を閉ざされた鶴八が向かった先に待っていたのが、包容力溢れる旦那の懐であり、女はそこで、「あたしをしっかり捕まえておいて下さい」と言って、咽び泣いたのである。

女の中に潜在していたに違いない芸道に賭ける強靭な覚悟は、そこで根柢から崩されて、金満家であると同時に艶福家でもあったに違いない旦那の、その柔和な視線の内に深々と溶解していってしまうのだ。大袈裟な情緒的旋律が二人の抱擁を包み込み、まさに悲哀の人情ドラマを過剰に演出してくれたのである。

そして鶴次郎のラストの括りは、一人で酒を飲みながら、遠くから聞こえてくる三味線の音に反応し、女と同様に咽び泣くのだ。この咽び泣きの描写が丹念に描かれて、映像は括られていくのである。

この二つの極めつけの場面は、言わずもがな、成瀬の作品には存在しないものだった。成瀬が、このような情緒過多の描写を自作に挿入する訳がないのだ。


成瀬巳喜男(画像)という稀代の才能を持つ男は、大体、その作品を構成する物語にとって不可欠と思える描写のみを、それを必要とする最も自然な場面で挿入する技巧に長けた映像作家である。それ故、彼の作品を観る者は、物語の展開に殆ど違和感なしに入り込むことができると言える。

だから彼の作品は総じて長尺のフィルムが少なく、多くの場合、自然に展開し、観る者の普通の律動感の中に自然に終焉していくという、言わば、匠の技を持つ演出家の良質のパターンを感受させる映像宇宙を創り上げていくのだ。

従って、一貫して声高にならない、かくも地味な映画監督の作品に馴致してしまうと、彼以外の数多の巨匠連のごく普通の作品ですら、どうしても描写や台詞回しの過剰さが眼についてしまうのである。

それほど粗悪な出来栄えとは思えない大曾根辰保監督の「鶴八鶴次郎」を、成瀬の作品の後に鑑賞してしまったせいもあって、私にはエピソード満載のその映画を感覚的に受容し切れなかった。不必要なエピソードと説明的な台詞を盛り込み過ぎることで、映画が散漫になってしまったからである。

成瀬作品より30分も多く要するこの映画と付き合っていくうちに、残念ながら、鑑賞自体の継続力をしばしば失って、正直、疲労感を覚えてしまったほどだ。

原作に忠実に描くことの是非の問題は、なお重要なテーマであると言える。原作に引っ張られてしまう映像は、既に敗北した作品であるだろう。なぜなら、映像それ自身の持つ表現の総合性によって、原作では不可欠な会話の場面をも省略でき得るからである。

少なくとも、成瀬の映像の多くが文芸作品の映画化でありながらも、殆ど原作に引っ張られることのない独自の世界を構築していたことは事実である。ある意味で、彼の作品の妙味は、作品の中で削られ、捨てられていった描写を視野に入れる鑑賞にこそ存在するとも言えるのだ。

大曾根辰保監督の「鶴八鶴次郎」の中の、堕ちゆく鶴次郎のエピソードと、成瀬のそれを比較するとき、「鶴次郎の悲哀」を痛々しいまでに感受させる作品がいずれであったかについて答えるのは、あまりに野暮な発問であるだろう。

僅か15分程度の描写の中で、成瀬が表現した世界の秀逸さは圧巻だった。

先述した「ポスターで作った紙船の川流れ」に象徴されるシーンの見事さは(当然の如く、原作にも大曾根作品にも登場しない)、鶴次郎のその後の展開を決定づける心理的文脈になっていたことで自明である。鶴次郎の内面が追い詰められている心的現象を自己確認するこのシーンこそ、大袈裟に言えば、本作の生命線であるからだ。

以上の映像的検証を待つまでもなく、成瀬は本作でも、第一回直木賞受賞作の原作に全く蹴散らされることがなく、明らかに映画監督としての勝負に勝ったのである。



4  最後まで超えられなかった女の精神世界



稿の最後に、敢えて「人生論的映画評論」のスタンスで物言いをしておこう。


男はあのような欺瞞的な大芝居を打つことなく、苦労の果てに掴んだと信じる、芸道の厳しさに関わる経験則を率直に語ることによって、独立心の強い女の自我と正対し、堂々と対峙すべきだったのだ。それが為し得ない自我の屈折を晒してしまう人格の脆弱さが、男の大芝居の内に暴露されてしまうという事実以外の何ものでもなかったということである。

男は最後まで、覚悟を括った女の精神世界を超えられなかったのだ。

その覚悟が内包する強靭さこそが、まさに男の観念の枠内では理解できない「芸道精神」の証明であったと言えるのである。

だから近代的自我のマニフェストを目の当たりにした男の自我は、ただ狼狽(うろた)え、怯懦(きょうだ)し、結局、「太夫が亭主で、三味線弾きが女房って昔から決まっているんでぇ」という啖呵を切るだけの、創造的精神に欠ける自己基準を押し付けるばかりであった。


男の我が儘で、継続力を持たない「芸道精神」の限界を超えて、未来に突き進む強靭な自我の存在を把握し得ない決定的な能力欠損のさまが、そこに捨てられていたのである。

ともあれ、完璧な映画の完璧な括りに、圧倒された。

但し、本作に唯一の欠点があるとすれば、500人ものエキストラを使いながら、新内芸を聞き入る彼らの表情には全く覇気がなく、情感を揺さぶられる一欠けらの感性の伝播が見られなかったということであろう。ダイレクトな演技指導を嫌う作り手の、あまりに消極的な性格が露呈されていたと観念するべきなのか。

(2009年1月)

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