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2009年3月21日土曜日

草の乱('04)    神山征二郎


 <善悪二元論を突き抜けられない革命ロマンの感動譚>



1  「奥武蔵・秩父」という固有の存在性



今から30年もの昔、自由民権運動に強い関心を持っていた私は、地域でささやかな文化運動に挺身しながら、関東近県の町村を歩き回っていた。

在野の研究者を気取って、メモ帳片手にオーラル・ヒストリー(聞き書き)の如き趣味を楽しんでいたのである。

主に夫婦二人で移動した聞き書き旅行は、信じ難いほどに縦横無尽の身体表現であったが、主観的には「徘徊」という範疇で収まらない意味づけをそこに付与していたから、しばしば辛い経験に遭遇しても、心の中は結構充実していたと思っている。

その聞き書き旅行の中で、最も多くの時間と労力を注入したのは、間違いなく「秩父事件」についての学習的ストロークである。

と言うより、この事件に対する深い関心こそが、聞き書き旅行の最大のモチベーションであり、発火点でもあった。

たまたま西武池袋線の沿線の近郊都市に居住していた関係から、秩父との感覚的距離感を持つことが殆どなかったのだが、それもまた、この地方へのハイカー的なアプローチを継続させていた経験と無縁ではないだろう。

壮年期には、奥武蔵と秩父への貪欲極まる趣味的撮影行が、長く私の心を捉えて離さないほど無我夢中になった思い出として、その心地良き時間の記憶を今に留めている。

だから私にとって、「奥武蔵・秩父」という固有の存在性は、「心の故郷」とも言うべき、掛け替えのない何かなのである。

村上泰治の肖像・ブログより
猛吹雪の中で訪れた、堂々とした家屋の風格がひと際目立つ村上泰治(下日野沢村)の生家、風布の大野苗吉、更に困民党の中枢拠点である下吉田の落合寅市、石間の加藤織平という「志士」たちの生家、そして秩父困民党軍壊滅の地である、信州東馬流(南佐久郡小海町)の「秩父事件戦死者の墓」(確か当時は、「秩父暴徒戦死者の墓」と書かれていたと記憶する)といった所縁(ゆかり)の場所などを隈なく訪ね歩き、その度に過分な持て成しを受けて、若い心の中に終生忘れ得ない貴重な経験が鏤刻(るこく)されたのである。

しかしながら、そんな私が、常に待望して止まなかったはずの「秩父事件」の映画化を知ったときの想いは、単に懐かしいものと再会できる喜びを、ほんの少し随伴する心情と言っていいだろう。

私の中で何かが変わり、何かが残ったのである。

そこで残ったものは貴重な経験の思い出であり、恐らくそれ以外ではなかった。

そして今、「事件」への様々な想いが詰まっている私が「草の乱」を観たのだが、正直、昔だったら他の映画とは異なった深い感情移入の中で、まるで恋する者の気分にも似た初々しさを表出することさえ躊躇(ためら)わず、存分に鑑賞したに違いないだろうと思われる。

然るに、既に相応のリアリズムによって「自己武装」(?)していると自負する気分の私には、もうこの種の映像を素直に受容できなくなくなってしまっているようだ。

映画「草の乱」のオープンセット. 道の駅 龍勢会館
以下、ネットの映画関連のサイトで頗(すこぶ)る評判の高い本作を、出来得る限り客観的で、青臭い感傷を排した視座によって簡単に批評したいと思う。



2  善悪二元論を突き抜けられない革命ロマンの感動譚




結論から書く。

井上伝蔵(右)

秩父事件を描いた映画「草の乱」では、事件を知る誰もが考えるように、北海道(野付牛町 現在の北見市)まで逃亡した井上伝蔵の病床での回顧によって事件の概要が語られていくが、肝心の蜂起の後の「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」についての描写の甘さが、映像のリアリティの基幹部分を壊し、単なる「革命ロマンの感動譚」に流してしまったのである。

 「今の日本のありよう、進路に強い危機感を抱いています。国民が望まない方向に日本をもっていこうとする政治の意図を、強く感じます。秩父事件当時の時代状況とも、よく似ているんです(略)明治政府は、養蚕農民を助けるどころか逆をやる。これにつけこんだ極端な高利貸しの横行。消費者ローンの看板が全国どこにでも出ている、今の日本の風景と重なり合いませんか」(「しんぶん赤旗 日曜版」 04.9.12より)

これは、「秩父事件を映画化したいという思いは、監督になった頃から持ちつづけていました」(同紙より)と語る、本作の作り手である神山征二郎監督自身の言葉。

良かれ悪しかれ、欧米列強の餌食とならないという大義名分によって、かなり暴力的で人工的な近代国家の構築のための軍事強国を目指したが故に、「集会条例」(1880年公布)、「出版条例」(1869年に公布)に象徴されるように、政治活動の自由を厳しく規制する言論統制を敷いた時代と、好きなことを好きなだけ言えるばかりか、国家権力の「手先」と看做(みな)される警察官に職務質問されただけで激しく抵抗した男子中学生が、あろうことか、拳銃を奪おうとした事件すら出来するほどに権力を恐れない社会風潮があり、更に、1700パーセントもの関税をかけてもらって国に守ってもらえるコンニャク芋農家等(それもWTO交渉で厳しい現実あり)が存在する現代の政治・社会・経済状況を安直に重ねてしまうその能天気さは、いつもながら、この手の表現者の殆ど化石化した常套句、即ち、「今の時代は最悪だ」という根拠の乏しい床屋談義的な言論のレベルを全く越えられていないのである。(注1)

神山征二郎監督
このように殆ど返す言葉がないような信じ難き歴史観を持ち、多分にイデオロギーの濃度の深い作り手の人間観の底の浅さが、「人民救済を標榜するヒューマニストにも、心の弱さが多分に潜む」という、あまりに当然の人間把握を簡単に素通りしてしまう致命的欠陥を晒してしまうのは、残念ながら、この国の一群の映像作家たちの、確証バイアス過多な「本領発揮」の様態であるとも言えるだろうか。

従って、この作り手もまた、感情移入を抑えたつもりの人物描写を、結局、お決まりの善悪二元論の「感動歴史活劇」の範疇を越えられなかったのである。

神山征二郎監督が、安直で粗悪な作品を作ることを好まないタイプの作り手であり、それ故にどちらかと言えば、私自身、特別に揶揄することなく、他人が手掛けない仕事を好むという「スノッブ効果」とか、「希少性の快楽」(人との差異を好む心理傾向で、私の造語)を有するマイナーな映像作家であるという一定の評価をしているだけに、数多の浮薄な作り手たちの手法と同様に、映像の決定的な局面でリアリズムから逃避した本作の出来栄えを受容できなかったのである。

30年以上もの間、映画化の企画を抱懐していると、事件に対する存分な思い入れによって、その情感系が、内側で堅固な感傷的イメージの粋として化石化されてしまうのだろうか。

蜂起の後の、「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」についての描写の甘さ。

即ち、「善悪二元論を突き抜けられない革命ロマンの感動譚」―― これが全てだった。


要するに、映像が「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」の中枢に存在したであろう、井上伝蔵の非日常下での立ち居振舞いを物語展開の軸に据えてしまったため、それ以外の人物描写が稀薄になりすぎて、事件の主要な局面である「金屋(本庄市)の戦闘」(10人以上の戦死者を出す)とか、菊池貫平を領袖とする信州転戦や、その流れの中で出来した、「東馬流(南佐久郡小海町)の激戦」(14人の戦死者を出す)といった事件展開との脈絡の描写が弱く、それらは単にエピソード的な位置づけしか持たなくなってしまったのである。

辛辣に書けば、それらの描写を「幹部逃亡」との脈絡で描き切れないのは、「幹部逃亡」の脆弱さを露呈するからであったとしか思えないのだ。「前線基地での幹部の闘争放棄」について、正確な情報把握を持ち得ない当時の混乱した状況下(注2)では、その人間的振舞いを心理学的に把握し得るのが充分に可能であり(だからと言って、彼らの行為の責任の重さは免れ難いものがある)、それ故にこそ、前述したように、「人民救済を標榜するヒューマニストにも心の弱さが潜む」という、あまりに当然の人間把握をベースにした映像を記録して欲しかった、と指摘せざるを得ないのである。

要するに、自由民権運動の最高到達点と評価される「秩父事件」の「偉大さ」、「革命性」を強調したいという歴史家たちの、事件に対する特定的な切り取りによる「顕彰」活動の、その特定的な視座に捕捉されたかのような作り手の主観的な思い(ロマンチシズム)が、存分に反映された表現世界の枠組みを、本作は残念ながら越えられていなかったということだ。

JR小海線「馬流」駅にある「秩父暴徒戦死者之墓」
物語展開に対する私の主観を敢えて書けば、この事件をよりダイナミックに、且つ、リアリスティックに映像化しようとするならば、例えばそこに、菊池貫平率いる信州転戦に至るような異様な緊迫感を伝える状況描写による、客観的で複眼的な視座を持った表現を捨ててはならないと思うのである。

しかし、それは無い物ねだりであった。

そのような表現を初めから捨てていたと想像できてしまうのは、「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」という把握が、作り手の中に全く存在しないと思われるからである。

或いは、それが仮に存在していたとしても、それをリアルに描いてしまうと、「革命ロマンの感動譚」という幻想が根柢から壊されてしまうので、どうしても事件の最も重要な局面から意図的に眼を逸らす以外になかったのであろう。

現実の歴史をモデルにした映像化に際して、自分の思想性や、観客の反応を意識した商業的発想と無縁に成立し得ないコンテンツ提供への配慮を考えるとき、その辺の特定的な切り取りは、当然の如く、多くの映像作家が自在に駆使する手法なので難詰するには及ばない。

椋神社に集結した秩父困民党の幹部たち
それにも拘らず、表現的完成度の高さによって映像作品を評価する視座を決して捨てない者にとって、本作の物語展開の、何かあまりに静謐で感傷的な流れ方は、事件から34年後に、死を目前にして、未決の確定死刑囚であった過去を回顧する井上伝蔵を主人公にすることによって、初めから予定調和の「革命ロマンの感動譚」が約束されてしまっていたのである。

結局、このような作品と付き合うときは、ゆめゆめ「映画から歴史を学ぶ」などという、恐らく、そのとき限りの感傷に流された挙句、歴史のリアリズムを学習したつもりにならないことだ。それ以外ではない。



3  闘争心の欠如した決起者



その辺について、筆者は、「この国の『闘争心』の形・2 急転直下の大爆発」という拙稿の中で言及しているので、いつものように映像評論から離れるが、事件の中枢を担った者たちの心理の脆弱さを理解する上で不可欠だと思われるので、本稿の最後として、その一部を以下に転載したい。

そのテーマは、「闘争心の欠如した決起者」という所であろうか。

自由民権運動家・大井憲太郎の演説を聞く秩父の農民たち
「この事件は、この国の農耕民にとって、一揆とは最終的に闘争が崩壊し、戦線が解体してしまう時間に確実に立ち会うことになったとき、元々、高利貸への怨恨からの蜂起的性格を持っていた激甚な闘争の、その主体であった自己をどうすれば沸騰し切った戦線からスマートに離脱させていくかという、極めてネガティブな心理文脈に関わるテーマの切実さについて、私たちに教えてくれるのである。

椋神社(旧秩父郡吉田町)での決起集会で過剰に肥大した情感系の氾濫の中で、秩父札所23番として名高い、松風山音楽寺の鐘の乱打を合図に、一気呵成に大宮郷(現在の秩父市)に雪崩れ込んだ秩父の養蚕農民が、そこにコミューンを作り出すまでの熱気は全く申し分がない。

しかし、この熱気が冷めるのも早かった。状況の大きな変化の中で、『分』を越えた過激なるリスキーシフト(集団の空気によって過激に振舞ってしまう心理)の沈静化もまた必然的だったのだ。


『政府軍迫る』という誤報に浮足立って、本格的な戦端が開かれる前に、何と最高幹部が先んじて脱走してしまうのである。

美化された田代栄助(左)と、井上伝蔵の「前線基地での幹部の闘争放棄」
名目上の最高指導者である田代栄助(この初老の侠客は革命軍総理でもある!)と、実質的な最高指導者である井上伝蔵(蜂起の際に『会計長』という役割を負った、この自由党のインテリ幹部は困民党の頭脳であった!)他の面々である。

彼らは『革命』を放棄しただけではない。

あろうことか、重傷を負った困民党軍の最高指導者を、『自由自治元年』という決定力のある言葉を標榜したとされる者たちが、闘争の前線基地に置き去りにしたのである。

放棄前の爆発で捕虜にした青木巡査によって長楽寺で斬られた、頭部重症の甲隊大隊長、新井周三郎が担架で皆野の旅宿『角屋』(本陣)に運ばれて来たという偶発的事件に田代らは驚愕し、誤報が重なったことも手伝って、もうそれだけで『万事休す』と考えてしまったようなのだ。(注3)

強奪した軍資金を手にして、自分とその家族の身の保身だけを考えたのだろうか。

持病の胸痛が出たとは言え、仮にも蜂起の最高責任者が、後はもう、逃亡する算段だけで頭は一杯だったとしか思えないのだ。

悲惨を極めたのは、前線に置き去りにされた新井周三郎である。

彼は少年事時代の手習いの恩師を頼って明善寺に辿り着くが、彼はその恩師である住職に密告されるという散々な始末。おまけに、重傷の体を自ら引き摺って夜通し歩かされる受難が続くが、同情するに当らない。それが『確信的決起者』の宿命であり、ある意味で、『恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ』と檄を飛ばした闘争者たちの栄光ですらあるはずだ。

田代栄助の墓(金仙寺)
角屋を脱走した田代栄助にしても、かつての自分の子分に密告されて御用となったが、そのことを怨む田代は、迷った末に大役を引き受けたにしても、決起者の人生を最終的に選択したことが間違っていたことを知るべきだった。

振り返り見れば昨日の影もなし
行く先くらし 死出の山道

この田代の辞世の歌(秩父市影の森にある、金仙寺の墓標の背面に刻まれている)からは、決起者の意地のようなものを全く窺い知ることはできない。

あまりに痛々しいのである。

しかし、武器を持って決起した以上は、相当の覚悟を括って『闘争者』の物語を生きねばならないのだ。

 
(注1)「パラダイス鎖国」化したと思われる、現代日本の覚悟なき有りようについて、少なくとも、緩々(ゆるゆる)の現代とは比較すべきもない絶対的に困難な状況下で、「自由自治元年」を標榜して決起した明治の農民たちの命懸けの戦いと、全く無縁な空気感の中を漂流するイメージを持って言及した、「『幸福の最近接領域』―― 自我をスモール化した若者たちの戦略の行方、或いは、覚悟なき『絶対依存』の冷厳な現実を直視して」という拙稿を参照されたい。

(注2)それ自体、事件の本質に「革命性」を認知してもなお、その闘争様態が高利貸しへの破壊的行為に見られるように、最大規模と化した「一揆」の限界を超えていない事実を物語るであろう。

(注3)「味方ニ裏切リガアリ、周三郎外弐名ヲ切リ斃サレルト報知アルヤ否、周三郎戸板ニ乗セ連レ来リ、栄助是ヲ見ルヤ忽チ色ヲ変ヘテ『嗚呼残念』ト云フ言葉ヲ発シテ皆野村角屋ノ裏ヨリ駆出シタリ」(「暴徒一件書類警視部」『柴岡熊吉訊問調書』より)


(2009年3月)

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