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2009年3月29日日曜日

善き人のためのソナタ('06)    フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル


<スーパーマンもどきの密かな睦み―或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡>

 




1  序 「善」なるものという確信的理念系



恐らく、初めから人間が普通に生きていくレベルの自由を保障されている「西側」に住む感覚が、それ以外の感覚を経験し得ないほどに自我の内に張り付いてしまうと、その自我は「自由の価値」の実感を改めて感受する時間とは無縁な形成性の中で、その固有の展開を様々に身体化していくであろう。

その自在性こそが、「西側」に呼吸を繋ぐ者の自我のごく普通の様態なのだが、そこで作り上げられた感覚によって、それとは異質な形成性を示す自我の有りようと遭遇するとき、そこで垣間見る「自由の価値」の絶対的な欠乏感に対して、「あってはならない由々しき現実」という把握以外に反応する術を持ち得ないに違いない。

些か困ったことに、その把握の内には、その自我が馴染んできた観念や文化、例えば、「民主主義」、「ヒューマニズム」、「自由恋愛」、「自在なる芸術表現」、「闊達な議論」等の、ごく普通の人間学的文脈の表現の価値を天賦のものと決めつけているから、それを保持しにくい国家に住む人々の不幸を絶対化してしまう心理傾向を持ちやすいということだ。

それ自体、「西側」に呼吸を繋ぐ者にとっては何の不都合もないだろうし、その価値の拡大的定着を図っていく努力も捨ててはならないだろう。

ところが、その「普遍的価値」を、人間それ自身の「善悪」論の基軸にして、その価値を保持しにくい国家に住む人々の不幸を絶対化することで、その人たちにその価値を認知させ、「善」なるものの覚醒を促し、「人間としての本当の喜び」を共有したいと願う心理が、例えそこに相応の抑制的表現によって均衡を保持していたとしても、それが確信的な理念系によって押し出されてくると、しばしば人間の心の奥に澱み、時には激しく葛藤する様態を晒すであろう、普段はとても見えにくい複雑で繊細な情感的世界の文脈を拾えにくくなってしまうのである。

一貫して「西側」に呼吸を繋ぐエリート青年によって創作された、「善き人のためのソナタ」という頗(すこぶ)る評判の良い映像作品を観終わったとき、事態をリアリズムによって把握する堅固な習慣を身につけてしまった私の感性には、以上のような感懐が印象深く刻まれたのである。



1  「善き人」に変容していく心理的プロセスの跳躍(1)



本作への私の感懐を、もう少し具体的に書いてみる。

結論から言って、作品の出来栄えは決して悪くない。充分に抑制も効いている。テンポも良い。映像の導入も見事である。

そして何より、本作の背景となった社会の権力機構の描写については、相当のリアリティを感じさせる重量感を持っていて、一つの時代の、特殊な国家の、その特異な有りようが、観る者の皮膚感覚にダイレクトに伝わって来たのも事実。

「フロリアン・ヘンケルス・フォン・ドナースマルク監督は、この映画のため4年間にわたって徹底的にリサーチをしました。自身は当時の西ドイツ出身のため、旧東ドイツの実態をつかむまでにこれほどの時間を要したとのこと。

シュタージ博物館・ブログより
大量の文献を読み、当時の東ドイツを知る人々、元シュタージ職員、その犠牲者に実際に会って何時間もインタビューする。その中で多くの矛盾する話も聞いたけれど、最終的にはこの時代の一つのまとまったイメージ、この時代が抱えていた問題をはっきりとつかむことができたそうです。また出演者やスタッフの中にも多くの旧東ドイツ出身者がいて、彼らの個人的経験はこの映画に多大な真実味を与えたと言います」(「All About」2007年 1月 31日より)

以上の一文を読んで了解し得るように、本作を映像化するに当って、ケルン生まれの若き監督が、4年間にも及ぶ丹念な取材を経てきたという営業努力が、その初の長編作品に結実したのであろう。

しかし、少々厭味を込めて言えば、彼の営業努力の成果が映像に反映されたのは、国家保安省(シュタージ)に象徴される全体主義国家の権力機構の内幕に関する描写においてであって、殆どそれ以外ではなかったと思われるのである。

シュタージの養成機関での教育、盗聴の実態とその乱暴極まる情報収集の現実、そしてシュタージによって盗聴される側にいた、「反国家分子」と称される者たちの置かれた不安と恐怖に満ちた生活の実態、等々についての描写は相当のリアリティを保証するものだったが、残念ながら、映像のリアリティはその範疇を逸脱することが叶わなかった。

なぜなのか。

「シュタージの実態を抉った問題作」としての評価が定まった感のある本作が、「理念系の快走(?)」によって突き抜けてしまっていたからである。

ヴィースラー大尉
“この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない”などという、恥ずかしくなるほどのスーパーインポーズに込められた、あまりに創作的で青臭いメッセージに集約される映像には、一貫して「感動のヒューマンドラマ」を、些かロマンティシズムの濃度の深い視界に捕捉して止まない作り手の意図が、観る者に容易に見透かされる甘さを露呈していたと言わざるを得ないのだ。

それにも拘らず、それが特段の厭味にならない程度の緩衝地帯、即ち、限定的なリアリズムによって相対化された映像導入が、際立って目立たない限りの作為性を、一定程度中和化することで補償された作品の質は効果的だったが、しかし相当に危うい均衡をギリギリに保持し得たという印象だけは拭えなかったのも事実。 

この種の問題作を映像化するにしては、そのプロット展開のサスペンスフルな娯楽性と、充分過ぎるほどの巧妙な創作性の濃度の深さが、結局、女の死を前提にしなければ成立し得ないだろう予定調和のエンディングの嵌め方の内に、奇麗に流れ込む以外に軟着できなかった映像の嘘臭さを浮き上がらせてしまったのである。

我が国において信じ難いほどに評判の良い本作に、重箱の隅を突(つつ)くレベルの悪態をつくのが本稿のテーマではないから、本質的なことだけを言及する。

本作を観始めて暫くして、私にはどうしても最後まで了解し難い描写があって、それがこの作品に対する評価を貶めている決定的な因子になってしまったのである。

端的に言えば、主人公の心理描写が比較的丹念に描かれていながらも、最も重要な局面における心理の微妙な綾についての描写が、何かそこだけは殆ど無造作に素通りしている感じが否めないのだ。言わずもがなのことだが、最も重要な局面とは、主人公のシュタージ局員が「西側」の文化・生活を彷彿させる様態に触れて、「善き人」に変容していく心理的プロセスの場面である。

「あり得ない」と、私は率直にそう思った。

ヴィースラー大尉
正確に言えば、人間の精神的営為に関わることで「あり得ない」と言い切れる現象は少ないだろうが、少なくとも、本作で提供された描写に限って言えば、主人公のシュタージ局員の内面世界の中で、「変容」への「飛躍」を「予約」させるような決定的な心理の蓋然性が殆ど存在しないと言っていいのだ。

たとえ、それが「映画の嘘」と分っていながらも、テーマとした問題の深甚さを考えるとき、私にはとうてい首肯しかねる表現の内実であったのである。

なぜなら、本作と付き合っていく中で、或いは作り手自身が、「どのような『悪人』でも、『善性』を持っている」という類の普通の人間学的な把握を突き抜けて、「だから『悪』もまた、ヒューマンな振舞いや『優れた』音楽、文学と遭遇するだけで、『善』に変容する」という殆ど宗教的な人間観を確信的に抱懐していて、達者な映像表現力のストーリーテラー的な全開の中に、却って作り手自身の人間理解の底の浅さを露呈させているのではないかと訝(いぶか)る思いが、私の内側で沸々と沸き起こってきたのである。

要するに、そのリアリズム感覚の非武装性、鈍感さが看過できなかったということだ。

この類の作品を観る者もまた、映像の透徹したリアリズム的なラインの仕上がりを求めず、ひたすら「感動溢るるヒューマン映画」への需要が基幹的モチベーションになっているという心理も、当然の如く理解できるし、それを受容する思いも全く皆無ではない。

それでもなお、本作の生命線とも言える決定的な局面での心理描写の怠慢(?)について、オーソドックスな視座によって批判せざるを得ないのは、本作のような厄介で困難なテーマを、長編映画の処女作に選んだほどの若い作り手の意気込みだけは評価したいと思う気分が、私自身の中でなお生き残されていたからである。

国家保安大臣を務めたエーリッヒ・ミールケ(ウイキ)
と言っても、本作が、「シュタージの戦慄すべき恐怖の実態」を中枢的テーマとして映画化されたものでないことは、映像のプロットラインを丹念にフォローしていけば了然とするだろう。この作り手が、恐らく、単に一人の巧みなストーリーテラー以上の才能の主ではなく、それ以下でもないことを。



2  「善き人」に変容していく心理的プロセスの跳躍(2)―― 時系列を追って



辛辣な物言いは、この辺にしておこう。

以下、本稿において、私が最も拘る主人公の心理描写を中心に検証していきたい。

興味深いのは、本作の導入部分の描写である。

国家保安省(シュタージ)局員であるヴィースラー大尉が、「ポツダム・アイヒェシュタージ大学」で、未来のシュタージの卵たちにレクチャーする印象的な描写は、作り手の精密な営業努力の結実と言えるだろう。

本作の主人公であるヴィースラー大尉が、そこでレクチャーした内容は以下の通り。

「国家の敵はしぶとい。覚えておけ。尋問は忍耐強く40時間以上続けること」
「一睡もさせないのは、あまりに非人間的です」

この発問をした学生を「要注意人物」としてチェックした後、彼はきっぱりと答えたのである。

「時間が経過すると無実の囚人は苛立ってくる。不当な扱いに対して大声で怒り出す。その一方で罪を犯した囚人は泣き出す。尋問の理由を知っているからだ。白か黒かを見分ける一番いい方法は、休まずに尋問することだ。……真実を話すものは言葉を変えて表現する。だが嘘つきは、圧力をかけられると用意した言葉に縋り付く。……更に、圧力をかけろ。…… 尋問相手は社会主義者の敵だ。それを忘れるな」

以上がレクチャーの要点だが、この描写だけで、ヴィースラー大尉の拠って立つ精神的基盤の在り処が確認できるだろう。

「非人間的」な取り調べの現実に小さな異議を申し立てる学生を、「要注意人物」としてチェックするほどに、大尉の国家観は堅固であるということだ。

こんな男が、この映像の中で根柢的な変容を遂げていくのである。

その変容過程の中で、大尉のアイデンティティの基盤となっている国家が、誰の眼にも容易に見える限りの崩壊の予兆を開く事実が存在しない現状下において、果たして、そんな事態が可能であるのか。


もう少し、その辺の心象描写を把握・確認するために、本作のスト―リーラインを具体的に羅列しながら、時系列的に追っていこう。


ドライマンとクリスタ
(1)中佐の依頼を受けて、盗聴を決める。その対象は、劇作家のドライマンと舞台女優であると同時に、同棲中の恋人クリスタ。

(2)温もりを感じさせない、ヴィースラー大尉の一人暮らしの風景。マッシュポテトにケチャップソースをかけるだけの淡泊な食事。

(3)盗聴開始。その際、ドライマンの部屋の向かいの部屋に住む女性に、乱暴な盗聴の仕掛けを目撃され、他言したら娘を退学させることを告げて、脅す。

(4)反体制的な振舞いによって、演出家としての仕事が禁じられているイェルスカの家を、彼を尊敬するドライマンが訪問。ドライマンは、演出家としてのイェルスカの復活の可能性について話し、勇気づけるが、二人とも、それが確かな根拠を持たないことを感受している。

(5)帰宅してから、程無くドライマンの誕生日パーティ。そこに、ドライマンに招かれたイェルスカが孤立するようにしてソファに座っている。(当然、盗聴)

ドライマンとイェルスカ(右)
(6)「善き人のためのソナタ」プレゼント。(イェルスカ→ドライマン)

(7)大臣との密会。(クリスタ)

(8)目撃の仕掛け。密会の現場を探知したヴィースラーは、「見ものだぞ」と言って、ドライマンに玄関の呼び鈴を鳴らして知らせる→ドライマンは現場を目撃する。

(9)「二人の絆」がこの時点で壊れない現場を盗聴。ドライマンは何も言わずに、クリスタを受容する。

(10)帰宅したヴィースラーは、シュタージ御用達(?)のコールガールを呼んで、激しいセックス。コールガールの事務的な処理の後、帰ろうとする際に、ヴィースラーは思わず、「もう少しいてくれ」と懇願する。

(11)イェルスカがドライマンに贈ったブレヒトの本を盗み出し、ヴィースラーは自宅で読書。

その内容は、以下の通り。

「9月のブリームーンの夜、スモモの木陰で、青ざめた恋人を抱きしめる。彼女は美しい夢だ。真夏の青空。雲が浮かんでる。天の高みにある白い雲。見上げると、もう、そこにはなかった」

(12)イェルスカの自殺の知らせ。


(13)ドライマンは「善き人のためのソナタ」というピアノ曲を弾く。ヴィースラーは陶然とした表情で聴き入る。

「レーニンはベートーヴェンの“熱情ソナタ”を批判した。“これを聴くと革命が達成できない”この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない」とドライマン。

(14)エレベーターの子供との短い会話。シュタージを悪人のように話す子供に、ヴィースラーは子供の親の名を聞かず、子供が持つボールの名を聞くだけ。

(15)ドライマンはクリスタに対して、大臣との秘密を知っていることを告白。

「2つのことを恐れてきた。『孤独』と『書けなくなる』ことだ。だが、どうでもいい。他人のことも。君を失うことも」

以下、クリスタの批判的な反応。

「私は彼が必要じゃないと?この体制が必要じゃないと?あなたは?あなたは連中と寝てるも同じよ。どんなに才能があっても、彼らは簡単に握りつぶすわ。イェルスカみたいな末路は嫌でしょ?だから行くのよ」

ドライマンの懇願。

ドライマンとクリスタ
「君のいう通りだ。僕はそれを変えたい。お願いだ。頼むから行かないでくれ」

明らかにこの会話を盗聴する、ヴィースラーは衝撃を受けている。

(16)バーに入った女に近づき、ヴィースラーは話しかける。以下、その際の会話。

「ファンです。今のあなたはあなたじゃない」
「私は最愛の男を傷つけてると思う?芸術のために身を売っていると?」
「芸術家がそんな取引をしてはいけません」

(17)この言葉に心を動かされて、女は20分後に帰宅。

(18)イェルスカの葬儀。

(19)西側のメディアに、東側の世界の実態(イェルスカの自殺とその背景)を公表するための画策。

(20)男は上官の中佐に報告に行く。

(21)中佐のドライマンについての話。

「入獄中の反政府芸術家のパターン。芸術家には5つのタイプがある。ドライマンはタイプ4だ。“ヒステリー症で、人間中心主義”孤独に耐えられず、友を必要とする。だから彼らを裁判にかけてもうまく切り抜ける。一次的に拘留して、誰にも会わせないのが一番だ。釈放期限を知らせずに孤立させる。彼らを優遇して虐待も中傷もしない。そして、10ヶ月後に突然釈放。奴らはもう問題を起こさなくなる。何も書かなくなる。絵も描かない。他の芸術家も同じだ。何の圧力もかけずに済む。いとも簡単に解決するんだ」

(22)結局、ヴィースラーは報告を止めて、逆に、ドライマンの監視を緩めることを中佐に提案する。

(23)単身の監視を続ける。

(24)ドライマンは原稿を床下に隠すところを、クリスタに目撃される。

(25)「シュピーゲル紙」に掲載され、当局を動揺させる。

(26)中佐の犯人捜し。大臣の命令で、中佐は薬物所持の疑いでクリスタを逮捕させる。

(27)「演じられなくなったらどうする?」と中佐。
クリスタ
「できることは何でもするわ。国家…保安省のために」とクリスタ。
 「もう遅い」
 「芸術家の知人が多いの。何でも探し出せるわ。あなたの力になりたいの。2人で楽しまない?」
 「残念だが…君は実力者を敵に回してしまった。私には自由な権限がない」
 「私を救う道はないの?」

(28)「シュピーゲル誌」の自殺の記事について問われた女は、事実を告白。

(29)ドライマンの家宅捜査。何も出てこない。

(30)ヴィースラーが直接の尋問。中佐は隣の透し部屋から監視。後ろ姿のヴィースラーはゆっくり振り向いて、クリスタに正対する。この時点で、クリスタは男を認知できず。

(31)「隠し場所を言え。出られなくなるぞ……ファンを忘れるな」とヴィースラー。この言葉によって、クリスタは男を初めて認知し、事情を察知する。

(32)告白して、クリスタ帰宅。

(33)ドライマンの再家宅捜査。

(34)ドライマンはクリスタの俯(うつむ)き加減の仕草によって、自分を裏切ったことを感知。既に、男によってタイプライターは移動。

クリスタの死・ヴィースラーの謝罪
(35)クリスタの死。

「私は弱い女なの。犯した過ちを償えないわ」とクリスタ。虫の息の中の言葉。
「償う必要はない。私がタイプを移動した」とヴィースラー。
「僕を許してくれ。許してくれ…」とドライマン。

(36)「私の任務は終わった。誤ったタレコミだった。済まない」と中佐が、ドライマンに一言。

(37)「覚悟はできているだろうな。君は終わりだ…退役するまで地下室での手紙の開封作業だぞ。これから20年間ずっと…」と中佐が、ヴィースラーに最後通告。


(38)4年7カ月後 ―― 地下室でのヴィースラーの作業。「壁が壊れた。崩壊したぞ」とのラジオからの情報が、ヴィースラーの耳に入る。

(39)2年後。ドライマンは劇場で、クリスタを愛人にしていた元大臣と会う。

元大臣とドライマン
「なぜ僕は監視されなかった?」とドライマン。
「監視されていた。完全監視だ…我々はすべてを知ってた」と元大臣。
「こんなクズが国を操っていたとは」とドライマン。

(40)シュタージの監視記録が公開され、ドライマンは自分に関するデータを調べていく中で、クリスタが裏切っていたことを確認する。

(41)ドライマンは自分の秘密の行動について虚偽の報告をしていた、シュタージ局員である「HGV」の存在を知る。

(42)ドライマンは「HGV」を捜し当て、車内から確認するが、会わずに去る。

ヴィースラー
(43)それから2年後、ヴィースラーは書店に貼られたドライマンの大きなポスターを見つける。

(44)入店し、ドライマンの著作(「善き人のためのソナタ」)を手にする。

「感謝をこめて HGW XX7に捧げる」との文字を、ヴィースラーは確認。
「ギフト包装は?」と書店員。
「いや、私のための本だ」とヴィースラー。


以上が、本作のプロットを時系列的に羅列したものである。



3  「善き人」に変容していく心理的プロセスの跳躍(3)―― テーマに沿った描写



ここでは、本稿のテーマに沿った描写のみに注目して言及していく。

(8)の「目撃の仕掛け」の場面の前まで【(1)から(7)まで】、ヴィースラーはシュタージの優秀な局員である事実に疑う余地がない。彼の心に微妙な波動が見られるのは、この「目撃の仕掛け」の場面においてである。

なぜ、彼はこのような行為をしたのか。

単なる遊び半分の行為と把握するには、それまでのこの男の振舞いが情報機関員としての範疇を逸脱しない、鋳型にはまったラインでの描写と繋がりを持ち得ないのである。

最も考えられる説明は、それ程の期間を経ていないと思われる状況下で、彼が目撃する二人の男女の「愛情」を深さを確認したいというモチベーションによる発動であるだろうか。

そこに、著名な女優である女へのファン意識による嫉妬の感情も働いていたのかも知れないし、或いは、好色な大臣に対する挑発的意図が含まれていたのかも知れない。また、際立ってヒューマンな人間性を見せる劇作家の心の奥を覗きたいと思ったのだろうか。

いずれにせよ、当時の東独の国家保安省の内部において、このような盗聴現場のインモラルで、職務を逸脱するような実態が、日常的に行われていた爛れかたを写し取った描写であるとも言えるのだろう。

帰宅したヴィースラーが、シュタージ御用達(?)のコールガールを呼んで、激しいセックスで下半身の処理をする(10)の場面の伏線は、(9)における「二人の絆」の確認の内にあるのは言うまでもない。

そこでヴィースラーが、思わず「もう少しいてくれ」と懇願する描写の導入は、それまでの彼の内面の波動が小さくも、しかし明らかな変容を示す、極めて人間的な様態の振幅を見せるシーンになっている。


ベルトルト・ブレヒト(ウイキ)
ヴィースラーのこの心理の振れ方の先に、「ブレヒト本の読書」の場面が待っていた。(11)において、彼は感情含みのトーンでそれを読むのだ。恋の詩に浸る男の情感が、騒いで止まないのである。

そしてこの描写の後に、あの決定的な場面が待機していたのである。

イェルスカの自殺を知ったドライマン(12)が、恋人の前で、「善き人のためのソナタ」というピアノ曲を弾く場面(13)である。あろうことか、ヴィースラーは陶然とした表情で、この美しい旋律に聴き入るのである。

「この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない」

恐らく、作り手が作品の勝負を賭けた、ヴィースラーの内面が決定的な変容を見せる、この決定的な場面の導入以後、彼は国家保安省の優秀な局員であることを放棄して、「善き人」としてのスーパーマンもどき【(16)(22)(31)(33)(35)】に変質していくのである。

それ以降の描写には、一度だけ自分が国家保安省の局員であることを自己確認して、国家に誠実に奉仕しようと振舞おうとするが、自分の出世だけを考える中佐の長広舌(21)を聞いて、保安省局員としての最も重要な報告を放棄してしまうシーンがあるものの(22)、一度裏切った心を遂に復元させる行為を示さなかったのだ。

その後のヴィースラーは、ハリウッド的な「苛酷な試練の果ての全面解決」を約束するヒーローではなかったが(35)、それでも「不完全なスーパーマン」を演じ切る「立派なヒーロー」としての、相応に面目面目躍如たる活躍ぶりを見せてくれるのである。

本作に対する、それ以降の描写への言及には全く興味がないので一切省くが、ここまで検証してきても、私にはヴィースラーの心の決定的な変容の描写にはどうしても納得し得ないのだ。

大体、ヴィースラーは大尉という枢要なポストに就いている限り、その過去において何度もこのような経験をしてきているはずであり、嫌というほど人間の生身の生態について観察し、そのドロドロの愛憎の模様をも視界に収めてきたはずである。

中には、ドライマンに劣らないヒューマンな人間も、クリスタのような蠱惑(こわく)的な魅力を持つ女性も、心に響く音楽との出会いもなかったとは言えないだろう。

無論、人間の心は、その者にしか届かない固有の振れ方を示すから、それらの例を挙げても意味のないことは重々承知している。それにも拘らず、敢えて言ってしまえば、ヴィースラーの内面の変容は、「人間は変わり得る存在である」という範疇を明らかに逸脱しているのだ。

考えてもみよう。

盗聴器を仕掛ける際に、ドライマンの向かいに住む、反独的とも思えない女性を無表情で恫喝する冷厳さを持つほどに、軍隊式の階級を持つシュタージという秘密警察に所属する、一貫してプロフェッショナルな諜報員として生きて来た愛国者が、高々、男女の睦みや美しい旋律の調べを耳にしたくらいで、劇的にその人間性が変容し得るというプロットのラインがあまりに不可解なのである。


ドイツ民主共和国の建国記念日の軍事パレード(ウイキ)
たとえそこに、女に対する慕情の介在があったり、男のヒューマンな態度に触れたにしても、プロの諜報員としての役割意識や使命感を持ち、それを具現させる基盤である全体主義の国家にアイデンティティを確保している男の内面が、一時(いっとき)騒ぐことがあったにせよ、自らの拠って立つアイデンティティの基盤を自壊させるほどの変容を身体化するには、如何にも文学的なあざとい発想を印象づける、本作の幾つかの象徴的な描写の導入によって説明し切るには、その人間心理の描写においてあまりに無頓着であり、表現世界の非武装性を晒し過ぎると言えるのだ。

決定的な局面での、決定的な心の変容を描き切ることなしに成立しない映像であるが故に、その変容のプロセスを観る者に了解し得る内面的葛藤、心の振幅、関係性の微妙な落差等の伏線的な描写の導入が不可避であるにも拘らず、あろうことか、本作はその最も中枢的な描写を、「音楽」と「人間の愛憎」というシンボリックな映像の安易な導入によって説明し切ってしまったのである。

恐らくシュタージには、このような内面的転換を図った人物は殆ど皆無に近かったと思われる。

なぜなら、本作の主人公がシュタージの優秀な職員、それも大尉という国家防衛のの最前線を指揮する重要な役職を担っていて、且つ、当人が就業する時代の只中において社会主義国家の根柢的な瓦解を、センシブルに感受させるような大状況的な激変が存在しなかったからである。


以下、2009年3月31日付、BS1の「世界のニュース」の放送、「冷戦終結20年(2)統一ドイツの課題」という特集番組で拾った、興味深いエピソードを紹介する。


ヨアヒム・ガウク(ウイキ)
1989年に民主化運動に邁進していた、牧師のヨアヒム・ガウク氏(69歳)へのインタビューでの話である。

後に、「ガウク機関」を組織して、シュタージの文書解読と保管に大きな役割を果たしたヨアヒム・ガウク氏は、当時、反体制派のリーダー的存在でもあったが、民主化を求める集会の場で、監視の仕事をしていた2名の警察官から、「ベルリンの壁の崩壊」の一報を聞いたときの驚愕を、印象的に回顧している。

「それを聞いて信じられませんでした。私は何かの間違いだろうと言いました。この20年前まで社会主義体制下にあったドイツ人としては、私は東ドイツが自由な国になることはないと思っていました。こうなるとは信じられませんでした」

この正直な感懐が物語っているように、「汎ヨーロッパ・ピクニック」(注)から「ベルリンの壁の崩壊」の決定的な局面においてもなお、民主化運動の最前線に立っていた壮年牧師の脳裏には、「東ドイツが自由な国になることはないと思っていました」と確信するに足る状況が、実感として捕捉されていなかったのである。

「1980年代以降、ドイツ社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長は、ハンガリーやポーランドで社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省を動員して国民の統制を強めていた」(ウイキペディア・「ベルリンの壁崩壊」より)

このウイキペディア出典の一文が意味するものは、時代の大きな無視し難い変容を直観する全体主義国家の危機意識であろうが、しかしそれは、この国に住む者の意識に社会の根柢的な崩壊を感受させるほどの、由々しき状況の変容に直結するものではないだろう。何よりも、「ベルリンの壁崩壊」の4年半前に当たる本作の時代背景を考慮するとき、殆どそれは言わずもがなの現実であると言っていい。



汎ヨーロッパ・ピクニック・ブログより 
(注)1989年8月19日、ハンガリーで開かれた政治集会のこと。このとき、東独の市民の国境越えの亡命が話題になった。


従って、拠って立つ国家の劇的な変容を示す何ものも存在しない状況下で、そのアイデンテイィティを自壊させるような心理の変容は容易に出来しないであろう。

仮に、際立ってプライベートな事情によって主人公の内面が劇的に変容したならば、その辺りの描写の丹念な繋ぎを絶対に外してはならないのである。そこが丸ごと欠落した、本作のあまりに無防備な映像の中で、作り手の理念系だけが自在に騒いでしまっているのだ。

男のダンディズムを誇示したかのような(42)(「HGV」を捜し当てたドライマンが、会わずに去る)の描写の意味は、何の事はない。それから2年経って、(43)のシーン(ヴィースラーが書店に貼られたドライマンのポスターを見つける)を起点にした、(44)の極め付けの描写による括り(ヴィースラーが放った、「いや、私のための本だ」との一言)のための重要な布石になっていただけだった。

このような映像的なラインが、実は、厳しいリアリズムによる本作の突き抜けを大きく中和させ、稀釈化させてしまったという把握を持ってしまうとき、この種の映像と付き合う際に私の中で想像していた、「フラットなヒューマンドラマ」のカテゴリーを逸脱しない、ごく普通の商業映画のイメージを単になぞってしまうだけの、ごく普通の娯楽作であるという心象を確認する以外ではないのである。

「毎日盗聴を続けていくうちに、ドライマンとクリスタの人間らしい自由な思想、芸術、愛に溢れた生活に影響を受け、冷徹なはずのヴィースラーの内面に変化が生じ始めます」(「All About」2007年 1月 31日)

以上のような把握が、恐らく、本作に感動する観客の一般的な反応であるだろうが、私には言葉だけが勝手に踊った感のある、この種の映像理解とは殆ど相容れない、天の邪鬼な映像鑑賞を既に身に付けてしまっているようなので、後は全て「好みの問題」に尽きるだろうとしか言えないのだ。



4  スーパーマンもどきの密かな睦み――或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡



―― 最後のまとめ。

フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル 監督(左)
結局、本作は“この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない”という、ある意味で極めて傲慢且つ独善的で、気障(きざ)で青臭いメッセージを伝えたいのみの映画であった。

無論、本作はどこまでも表現文化としての一つの映像作品だから、そこに創作的な映像宇宙を構築するための「嘘の垂れ流し」も一向に構わないだろう。

それなら尚更、人間の心の問題の奥深さ、困難さを、少なくとも、決定的な局面に踏み込む辺りの心理の振幅だけは、丁寧に且つ、シビアに描き切ってもらいたいものである。

以上の結論を簡潔に言えば、本作は、私の把握の中で、「スーパーマンもどきの密かな睦み――或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡」というサブタイトルこそが相応しいと考える次第である。

―― ついでに、もう一つ。

シュタージに象徴される全体主義国家の破綻の根柢には、単に政治・経済的な諸事情ばかりでなく、「人間は…である」、「反体制の人間の心理・行動パターンは…によって動き、反応する」というようなマニュアルなしに動けない、柔軟的思考を際立って欠如した者たちが、彼らの絶対的なマニュアル通りに動かない種類の人間に遭遇したとき、全く為す術もない脆弱さを本質的に抱え込んでいた心理的文脈と無縁でなかったという問題が伏在するということ、この事実こそが全体主義国家の決定的な弱点であり、その弱点故に、国家の体裁を堅固に誇ったものの被膜が剥がれるようにして、まさに内側から崩壊したという把握も捨ててはならないだろう。


【追記】  〈なお軟着陸できない「シュタージの闇」〉


「シュタージ」に関わる一つのニュースが、ドイツから飛び込んできた。

「シュタージの闇」がなおこの国で軟着陸できない現実を伝える由々しき記事を、以下、「AFP BBNEWS」から紹介する。


「1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、旧東ドイツの秘密警察として知られる『シュタージ(Stasi)』(旧国家保安省)が解体されてから、今年で20年が経過する。シュタージが作成した『監視対象者』に関する膨大な機密文書は、現在も保管されているが、閲覧希望者が後を絶たない。

シュタージの記録を管理している『シュタージ・アーカイブ(Stasi Archive)』のマリアンネ・ビルトラー(Marianne Birthler)氏によると、2007年の閲覧申請者は10万人超、08年はやや減の8万7000人だったが、解体から20年を迎える今年に入ってからは再び、ひと月あたり約1万人と急増している。

ベルリンの旧シュタージ中央庁舎(ウイキ)
シュタージはその40年の歴史において、国家による反体制派弾圧のための世界で最も効率的な機関のひとつで、冷戦時には27万人以上の要員を擁し、東ドイツ国民は東欧圏のなかでも最も過酷な監視下に置かれた。

1990年に東西ドイツが統一され、翌91年には一般市民でもシュタージの機密文書を閲覧できるようになった。アーカイブ開設以降、これまでの閲覧申請者は延べ160万人以上に上っている。

閲覧によって初めて、友人や同僚、家族がシュタージの『陰の協力者」』あったことを知った人は多い。また、これまでにシュタージのスパイであったことを自ら公表した人は数千人に達している。

シュタージの機密文書にはまだ、爆弾が眠っているとも考えられている。前週には、1967年の西ベルリン(当時)のデモで学生だったベンノ・オーネゾルク(Benno Ohnesorg)さんが警官に射殺された事件で、この警官がシュタージのスパイだった事実がシュタージの記録によって明らかになった。この事件は、西ドイツの左派学生運動の派閥の多くを過激化させる転換点となった」(2009年05月28日付 )


【本稿擱筆(かくひつ) 2009年3月29日】

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