<「非本来的な関係」の様態がシャッフルされたとき>
1 「夏の夜の三度目の微笑よ」 ―― 物語の梗概
「自分の家が、時々、幼稚園に思える」
こんなことを吐露するフレデリック・エーゲルマンは、中年弁護士で、現在19歳の若妻アンとセックスなき生活の代償に、かつての恋人で、女優のデジレへの思いが捨て切れないでいる。
「幼な妻に手を焼くのは、あなたの勝手よ」
これは、フレデリックの愚痴を聞かされたデジレの切り返し。
「私たちは友達だと思っていた」とフレデリック。
「あなたの友達は、あなた自身だけよ」とデジレ。
デジレの家での、感情の齟齬(そご)を生じる二人の会話を中断させたのは、軍役に就くマルコルム伯爵。
デジレの現在のパトロンである。
「弁護士は全て寄生虫です」
現役の軍人にストレートに本音を言われたフレデリックは、一瞬身構えるが、体よくデジレの家を追い出される始末。
「あの豚が何をしようと平気よ。私も仕返しするわ。彼を憎んでいるの。男は自惚れが強くて、横柄で、汚らわしいわ・・・デジレは気丈で自立してるわ。デジレは恋の経験がないのよ。自分に恋してるだけ」
これは、アンの友人であるマルコルム伯爵夫人シャーロッテが、デジレと夫の関係をアンから聞かされて、吐き出した悪口。
こんなことがあって、まもなく、フレデリックとアンの夫妻、更に、義母のアンに恋心を抱く息子のヘンリックは、デジレのパーティに招待された。
デジレの母親の別荘で開かれたパーティに招待されたのは、他にマルコルム伯爵夫妻がいて、いずれも夫婦関係、恋愛関係に不満を持つ連中である。
伯爵夫人は夫との間で、フレデリックを誘惑できるか否かという酒宴の賭をする余興もあり、牧師を目指すヘンリックは、最後までパーティの雰囲気に溶け込めず、嫌気がさして抜け出してしまう始末。
パーティを抜け出したヘンリックが別荘庭園で目撃したのは、女中のペトラと馭者の恋模様。
ペトラに男女感情を抱きつつあった真面目な青年は、衝撃のあまり縊首を図るが、しくじってしまう。
縊首する紐が切れてしまったのだ。
その結果、密かに思いを抱くアンと結びつく顛末があったが、そこに巧妙なからくりが仕掛けられていたというオチがつくのは、如何にもコメディの自在なフリーハンドに因るもの。
若さの勢いで、アンとヘンリックが駆け落ちをする現実を見て、今度はフレデリックが絶望感に打ちひしがれる。
心の空洞を埋めるべく何もない状態で、フレデリックはマルコルム伯爵とロシアン・ルーレットによる賭けを行い、敗北する。
その瞬間、拳銃が炸裂するが、フレデリックは煤だらけの顔を晒すばかり。
拳銃には煤が詰めてあっただけで、実弾が装填されていなかったのだ。
一切が終焉したのである。
フレデリックはデジレとの関係を復元し、賭に勝った伯爵夫人は夫との関係を修復させるに至った。
何もかも、フレデリックとの関係の復元を目途にしたデジレの策謀であった。
そして、白夜の中で結婚を約束した二人の男女がいた。
馭者と女中のペトラである。
映像のラストシーン。
「これが人生だ。こんな素晴らしいものはない!」
「夏の夜の三度目の微笑よ」
この馭者と女中の結婚の誓いによって、コメディタッチの映像が閉じていった。
2 「ワインを飲む者は各自が自分の責任で飲み、それに答えるのです」
「映画会社のお仕着せ企画の間に実戦的な作品を発表してきたベルイマン。会社のコメディ路線をゴリ押しされ“いっそ何組もの恋人関係をゴチャゴチャにすれば面白かろう”と撮ったのが本作である」(「夏の夜は三たび微笑む」株式会社ジェイ・アール・エー ビデオジャケット解説より)
こんな事情で生まれた作品の割に、本作は、コメディタッチというカテゴリーだけは例外だが、様々に手の込んだベルイマンらしい演劇的要素が強い佳作として評価に値する映像であった。
コメディの自在なフリーハンドによって、「展開のリアリズム」は初めから削り取られているが故に、「男女の愛」についてのベルイマンの主張がストレートに提示され、観る者を存分に楽しませるマスターピースに仕上がっていたからである。
ベルイマンが言いたいことは、唯一つ。
「このワインはブドウを搾って、その赤い滴が白い樹皮の上に滴り落ちたものなのです。一つ一つの樽の中には、若い母の膨らんだ乳房から、滴り出た乳の一滴と、若い牡馬の精液の一滴が加えられて、それらがこのワインに恋の魔力を与えています。そして、これを飲む者は各自が自分の責任で飲み、それに答えるのです」
これは、デジレの母が「訳ありのパーティ」の場で、そこに出席した「訳ありの男女」に語った言葉。
要するに本作は、プロット説明で簡単に書いたように、「本来的な関係」を構築し得ていない幾組かの男女の関係を、一旦「がらがらぽん」することで、自分に釣り合いの取れた「愛の対象人格」との組み合わせに落ち着かせていく形態に戻すという、一種の「人生ゲーム」を映像化した作品であった。
それを、3で具体的に書いていく。
3 「非本来的な関係」の様態がシャッフルされたとき
ここでは、五つの関係に注目したい。
第一の関係は、フレデリックとアンの夫婦。
この夫婦の最大の問題点は、「自分の家が、時々、幼稚園に思える」と公言する中年弁護士が、若妻を「成人した女」として愛せないことに尽きる。
恐らく、何某かの事情でデジレと別れて、孤独を託っているように見えた中年弁護士への心理的共感を推進力にして、16歳で結婚するに至った若妻の「早とちり」が内包した、セックスなき夫婦生活の矛盾は、全て前述した一点に還元されるだろう。
従って、セックスの対象人格として扱われない若妻は、「いつも恋してます」と言う男性経験豊富なお手伝いのペトラに、「楽しいことって、いやらしいことばかりね」と嘆くのみ。
彼女は、処女の若妻だったのだ。
従って、その「いやらしいこと」を求めつつ、満たされないストレスが沸点に達したとき、彼女は最も自分の自我のサイズにフィットする同年代の青年(義子)に裸形の感情を持ち得たのである。
第二の関係は、デジレとマルコルム伯爵。
貴族としての矜持によって、際立って自立心の強い女優を精神的、身体的に独占するのは初めから不可能であった。
女優にとって、軍人伯爵の存在は、単に「恋愛ゲーム」の限定的対象人格でしかないのである。
伯爵夫人から、「デジレは自分に恋してるだけ」と揶揄(やゆ)されるような余裕の中で、女優は時間限定のゲームを愉悦しているということだ。
この関係の形式性こそ、「男女の愛」と対極にある様態であると言わざるを得ない。
第三の関係は、マルコルム伯爵とシャーロッテ夫婦。
この関係の不幸は、「自分を顧みない夫」への顕著な欲求不満によって、「あの豚が何をしようと平気よ」と嘲罵(ちょうば)する屈折を露呈している妻の心の有りようである。
それは、明らかにデジレと違って、夫に対する依存性の現れであるからだ。
「あなたの連れがあなたの長所を生かさずに、結婚を退屈なものにしているのです」
これは、デジレの母がマルコルム伯爵に言った言葉。
この鋭利な指摘の通り、単に依存するだけの女の自我にストックされたストレスが、内側から溶かされていく契機になったのが、例の「恋愛ゲーム」のパーティという外部状況の変化であったという事実は、この非自立的な女の変わりにくさを証明するものとなったという訳だ。
即ち、パーティでの「恋愛ゲーム」による大団円の中で、デジレに振られた夫が自分に向かって、ようやくその視線を向けたとき、そこに相対的均衡が成立したのである。
第四の関係は、ヘンリックとぺトラ。
これは、〈性〉への渇望から、女中であるぺトラに手を出そうとし、逆に翻弄される初心(うぶ)な青年の愛情前線が、未だ思春期の文脈を抜け切れていないことを検証するものだった。
第五の関係は、フレデリックとデジレ。
「捨てないでくれ」
「あなたはとても退屈な人間で、私は立派な女優よ。私はポケットの中に、あなたの愛をしまうわ」
「私を捨てないでおくれ」
「私はここにいるわ」
「ありがたい。ここはとても良い」
ラストシーンでの、この二人の会話の中に、映像を支配して来た中年弁護士と女優の関係の性格が端的に露呈されていた。
かつて、この「退屈な人間」の退屈な振舞いが、際立って自立心の強い女優の不満と不興を買い、別離に至ったと考えられるが、年輪を経て成長した女優の包括的な自我が、改めて「自分にとって必要な対象人格」を特定化できたのだろう。
それは、「退屈な人間」でも包括的に受容できる成熟した自我になお張り付く、固有の異性感情の発見でもあったに違いない。
同時にそれは、中年弁護士の相対的独立心への期待を待つ心の余裕でもあったと言える。
そんな女をこそ憧憬する男がそこにいて、「自分の家が、時々、幼稚園に思える」という空洞感を体感する中で、一貫して、男は女を求め続けていたのだろう。
男にとっても、女にとっても、それ以外にない関係の再構築の時間を所有できる、緩やかな「人生の歓喜」を手に入れることができたのだ。
以上、「非本来的な関係」の様態がシャッフルされ、「本来的な関係」にまとまっていく人工的なドラマの、一応の逢着点がここに完結したのである。
即ち、駆け落ちを果たす、アンとヘンリックの最も若い関係。
マルコルム伯爵とシャーロッテ夫婦の、外部条件の変化による関係修復。
ぺトラと馭者の、陽気なる等身大の関係。
そして最後に、フレデリックとデジレの関係の、相対的な発展性を内包する復元。
かくて、「夏の夜の微笑」が其処彼処(そこかしこ)で生まれ、或いは、息を吹き返すに至ったのだ。
4 「白夜の夏」という、特段の季節の計らいで
白夜(イメージ画像・ウィキ)
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これは、デジレの母が言う、「ワインを飲む者は各自が自分の責任で飲み、それに答えるのです」、という言葉に最も近い関係様態だったと言えるだろう。
しかし、青臭さの延長で駆け落ちした、アンとヘンリックの恋愛の行き末を含め、そこで成立した新規蒔き直しを図るカップルの、その関係の構築が、必ずしも「幸福家族」に発展する理想形を描くとは限らないというアイロニーも、本作にはさり気なく挿入されていた。
どれほど相思相愛の男女関係であったとしても、それが理想形の夫婦関係を構築し、「幸福家族」を手に入れる保証は全くないのである。
「人は他人の苦しみを庇ってやることができないのよ。それで人は、うんざりしてしまうのだよ」
このデジレの母の言葉こそ、ある意味で、本作を適度に相対化させる人生の真実を言い当てていたのだ。
映像が、白夜の中で、「夏の夜の三度目の微笑よ」というウィットに富んだ形容の内に閉じていったのは、まさに「白夜の夏」という、特段の季節の計らいであったという含みが潜んでいたのである。
(2010年5月)
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