<凛として、新しい人生を切り開く希望に繋がって>
序 無機質のドアの向こうと、此方の空間を明確に仕切る世界の内側で
産科院という、特殊でありながらも、人間の営為の最も根源的な問題を包括する、非日常の限定空間での、「産む」ことの尊厳性と本質に迫る、ベルイマン的な厳しいヒューマニズムの一篇。
そんな非日常の限定空間であればこそ、そこに入院を余儀なくされた女性には、もう日常的な臭気への妥協や遠慮が希釈化されて、それぞれの固有の事情を抱えた自我が本来の裸形の様態を曝け出し、社会的制約を突き抜ける会話が随所に拾われたのである。
無機質のドアの向こうと、此方の空間を明確に仕切る世界の内側に、非日常であるが故に裸形の感情を露わにするリアルな人生が記述されるのだ。
その無機質のドアによって仕切られた産科院の一室に、3人の女がそれぞれの事情を抱えて、まさに「産む」ことの尊厳性と本質を抉(えぐ)る会話を繰り広げていた。
1 嗚咽しながら吐き出す女、所狭しと踊って胎児に語りかける女
その一人。
妊娠三カ月の身で流産を余儀なくされた教授夫人、セシーリア。
「最初から異常が・・・作ったのが間違いね。あの子は望まれない子だった。父親に望まれず、母親は子供を愛するだけの強さがない。だから産まれずに、下水に流されてしまった。私が弱かったせいよ。愛が足りなかったのよ。私には以前から分っていた。私は失格者なのよ。妻としても、母としても。今、それが良く分ったわ。妊娠を知った時も、心から喜べず、どこかでこう思っていたわ。“この子は産まれてこない”夫は私を愛していない・・・悲しみで人は死なないわ。また食べて、寝て、笑う。私を慰めようと、本や花を贈ってくれる。退院したら、また元通りの暮らしに戻って行くのよ。でも、ここは外とは違うわ。ここは子宮だけでなく、心の中までメスを入れられるのよ。私は死ぬまで、この一瞬を忘れないわ。子宮から手を伝わって、流れ去った命・・・」
母体安全の故の流産の事実を知らされて、自分の中で封印されていた思いの丈を、産科院のナースであるブリタに、嗚咽しながら吐き出す女、セシーリア。
時々、高熱に冒されるセシーリアを世話するスティーナの天真爛漫な明るさは、まもなく産まれてくる愛児誕生の歓喜の前のパフォーマンスと切れたものだった。
現代の産科院・徳島赤十字病院HPより(イメージ画像) |
件のスティーナもまた、難産を経験してきて、今度ばかりは待望の愛児との対面が叶う喜びに充ちていた。
「お腹の中で食べて、眠っている子。やっとスリムな体に戻れるわ!お前のために可愛い服を用意してあるのよ。お前のパパも待っているのよ。ママは待ちくたびれたわ」
胎児に語りかけ、限定空間の室内を燥ぐように、所狭しと踊っているのだ。
陣痛促進のため、ひまし油を飲んたことで、そんな彼女の心に死産への不安が走るが、心優しきブリタに励まされ、すぐに元気回復。
まもなく、スティーナの夫が見舞いにやって来た。
「眠れなくて、戸棚に揃えてある小さなシャツやズボンを眺めた。その後は、ぐっすり眠れたよ」
「あなたも、私に負けない親馬鹿ね」
相思相愛の夫婦の、この会話の中に、愛児待望の強い思いが充分に凝縮されていた。
2 故郷を捨てた家出娘の嗚咽、包み込む女の援護射撃
ひまし油の影響か、スティーナに陣痛がが始まった。
かつてなく身悶えするスティーナの喘ぎが、夜間の産科院の限定空間を切り裂いた。
スティーナが陣痛で苦しんでいる間の、セシーリアとヨルディスの会話。
ヨルディス |
厳しい母との同居に耐えられず、無責任な男と故郷を捨てた家出娘のヨルディスには、今や頼るべき男からも見放されていて、その男に孕まされた子の堕胎を願って入院して来たのだ。
さすがに、分娩のシビアな現実に立ち会って、ヨルディスの表情から幼児性が消えていた。
「タバコの味がしない。憎らしい子供のせいね」とヨルディス。
「“憎らしい”なんて子供に罪はないわ」とセシーリア。
「そうね。悪いのは私」
嗚咽するヨルディス。
「夜、眠れないで考えていると、自分に腹が立ってくる。何もかも悪い方へ向いて・・・それが私にのしかかってくる。もし状況が違っていたら、私だって、こんな風には・・・」
「“状況が違っていたら”ってどういうこと?」
「私を愛してくれている人がいて、結婚できたら・・・家があって、家庭を築けたら・・・私だって妊娠を喜ぶわ。でも、私なりに昔は子供好きだったのよ」
「昔って?」
「両親と一緒に暮らすのが窮屈になって、飛び出したの」
「御両親に相談したら?」
「ママは許してくれないわ。私が家を出るときも、こういうことを恐れていたわ。“子供なんか連れて戻るんじゃないよ!”」
「母親は皆、そう言うわ。でも、娘は可愛いはずよ」
「ウチは違うわ。ウチのママは強くて、厳しいの・・・」
「赤ん坊の父親は?」
この問いに、ヨルディスは、彼女なりに考えた思いを曝け出していく。
「あんな男なんか・・・前にも一度、中絶させられたのよ。私は何も分かず、彼の言うなりになって堕ろしたの。でも、もう二度と御免よ!溺れ死ぬ方がマシだわ・・・今はお腹の中で塊になって、私の血を吸っているわ。でも、あなたの言った通り、子供に罪はない・・・子供が“産んでくれ”と頼んだ訳じゃない。私はこの子より幸せよ。ちゃんと父親がいたもん。この子は尋ねるわ。“なぜ、僕を産んだの?”と。やはり産まれない方がいいのよ」
真剣に耳を傾けていたセシーリアは、ヨルディスの封印された思いを包み込んでいく。
「お母さんとちゃんと話をするのよ。きっと分って下さるわ。お母さんだって、一度は若かったのよ」
大人であるセシーリアの反応は、まもなく、ヨルディスへの援護射撃になっていったのである。
3 凛として、新しい人生を切り開く希望に繋がって
限定空間での3人の女たちの、切実な振舞いと会話によって成ることで、余分な描写を削り取った90分にも満たない映像世界のインパクトは、妊娠女性の10%以上が流産するというハイリスクを抱えるシビアな現実から逃れられない、「産む」ことの尊厳性と本質に迫る鮮烈な問題提起の一篇でもあった。
そこで結論付けられているのは、結局、「愛情」の強力な支えなしに「産む」ことの尊厳性が保障されないという、極めて常識的な文脈であったが、人間の内面描写の凄味を見せるベルイマンにかかると、相当の説得力を持ってしまうのである。
思うに、この映画は、ヨルディスを主人公とした映画と観ることもできる。
性欲の捌け口として利用され、中絶させられた過去を持つ彼女は、今また、二度目の中絶を余儀なくされ入院していた。
そんな彼女の前に、二人の女がいる。
どちらも彼女より年上で、遥かに大人である彼女たち。
その一人は、夫の深い愛情に恵まれながらも、習慣流産の疑いを持つが故に、どうして産みたい子供を産めないで、またしても絶望の淵に置かれたスティーナ。
本作の冒頭での彼女の叫びと嗚咽は、まさに彼女の裸形の感情の露呈であり、逆に言えばそれは、夫との愛情確認の中で「愛する我が子」を産みたいという思いに他ならない。
「怖いわ。命が全て。死に絶えたみたい。もう、何も産まれないみたい」
これは、難産の激しい苦しみの中で、またしても死産した現実を受容できず、その明るい性格の欠片すら奪われて、「自死」を願っているかのような態度を見せるスティーナを正視できないで、セシーリアの懐に飛び込むヨルディスの言葉
ヨルディスは、そんな二人を間近に見て、自分の心の動揺を抑え切れず、嗚咽の中で、その思いの丈をセシーリアに吐露していた。
一見、野放図に振舞う印象を与えるヨルディスだが、彼女もまた、幸福な家庭を築きたいという普通の願望を持ち、それを満たすに足る最適なパートナーとの、穏やかな睦みを感受したいのだ。
その複雑で屈折した感情が、本作のラストシーンに繋がっていく。
ヨルディスは心優しき婦長に頼み、母に電話する金銭を借りた。
「ママと電話している間、手を握らせて」
そんな甘えを見せつつも、彼女にとっては、少なくとも、何事につけても厳しい母親の理解を得たいのである。
「ママ、ヨルディスよ。私も具合が悪くて入院してたの。もう元気よ。ママ、子供が産まれるの。それで病院へ・・・始末しようと思ったけど・・・ママ、父親はいないけど、私は産みたいの」
ここまで本音を開くヨルディスに対して、電話の向こうの母は好反応を見せた。
「“いいから、早く帰っておいで”と。あの厳しいママが・・・」
ヨルディスの表情から、心からの歓喜の思いが噴き上げていた。
一方、夫との離婚すら考えていたセシーリアは、義姉の見舞いを受けていた。
そんなセシーリアの思いを知った義姉は、穏やかな口調の中で、夫婦の話し合いの必要性を諄々と説いていく。
元々、離婚への覚悟を持たないセシーリアであるが故に、義姉の言葉が素直に受容できたのである。
彼女の小さな微笑が、全てを語っていた。
映像のラストシーン。
セシーリアとの別れを告げたヨルディスが、スティーナを案じつつ、退院していく。
その行き先は、無論、母の元だった。
それは、2度の中絶の絶望感にまで追い詰められていた一人の若い女が、生まれて初めて「産む」ことの尊厳に目覚め、凛として、新しい人生を切り開く希望に繋がった瞬間だった。
イングマール・ベルイマン監督 |
ほぼ、完璧過ぎる映画であった。
さすがに、イングマール・ベルイマンの映像世界の求心力は絶大だった。
(注)本作の画像が得られないため、今回は、晩年のベルイマンの写真を利用した。そのベルイマンは、2007年7月に89歳で逝去した。何よりも重要な映像作家の死は、私に少なからぬ衝撃をもたらした。全5部のよって成り、5時間以上の大作である「ファニーとアレクサンデル」の批評は、私の一つの楽しみとして、今なおリザーブ中である。
(2010年5月)
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