<「アンチ・ハリウッド」の気概すら感じさせる、切れ味鋭い映像の「自己完結点」>
1 「日常性のサイクル」の恒常的な安定の維持の困難さ
刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なく、それなりに「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」では、そこで呼吸を繋ぐ人々の多くは、「日常性のサイクル」を形成しているだろう。
因みに、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。
従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。
「日常性」のこの傾向によって、そこには一定のサイクルが生まれる。
この「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の仮説。
しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。
「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。
「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。
その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。
2 収拾付かない状況を露わにする鈴木家の「日常性のサイクル」
さて、本作のこと。
本作では、必ずしも、この「日常性のサイクル」が十全の機能を果たしていない家庭が中心的に描かれているが、その家庭の欠損性に乗じるかのように、そこに侵入してきた「非日常の毒素」によって、件の家庭の欠損性がじわじわと侵蝕されていくことで、それでなくとも風通しの悪さの故に劣化した、ミニマムな「自己解決能力」すらも失いつつあるプロセスを、「ブラックユーモア」を内包したコメディタッチで淡々と描き切った一篇 ―― それが「松ヶ根乱射事件」だった。
拠って立つ自我の安寧の基盤が相応に担保されているからこそ、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の変わりにくさが、「バブル失墜」とは無縁な継続力を保証してしまったのだが、そのことは、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性を示すものである。
「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性のうちに依拠していた地域コミュニティの復元力は、刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なかった分だけ脆弱になり、「非日常の毒素」への免疫耐性を恒常化してしまっているだろう。
白銀の世界に横たわる赤いドレスの女の死体(?)に、ランドセルを背負った児童が、その女の胸や下半身を触るという、映像冒頭のインモラルなまでに過剰なシーンに端を発した「轢き逃げ事件」が、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」に馴致した人々の日常性に、加速的に波紋を広げていく。
本作で中心的に描かれた、「日常性のサイクル」が十全の機能を果たしていない家庭を構成する面々とは、以下のラインアップ。
認知症の祖父。
不倫の「確信犯」で、不在の父。
近所の理髪店の女の家に転がり込んでいる父に代わって、畜産業を営む母と姉。
この家の女は、その父が不倫相手の娘を孕ませたことで、近所に顔向けできないでいて、ウツ的な母と、尖り切った姉の不満が絶えない。
その父母には、双子の兄弟がいる。
光と光太郎(右) |
体が大さく、警察官をしている弟の名は、光太郎。
光こそ、東京での自立に頓挫し、帰郷するや否や、「轢き逃げ事件」を惹起した張本人だ。、
これが、十全の機能を果たしていない家庭を構成する鈴木一家のラインアップである。
そして、「轢き逃げ事件」で検死中、赤いドレスの女が蘇生したことから、本物の事件が開かれていく。
赤いドレスの女の名は、みゆき。
極道風情の男の情婦だった。
極道風情の男の名は、西岡。
西岡と光 |
彼らが目論む犯罪の内実とは、冬に結氷湖と化す白一色の世界の一画に、アイスピック等を使って穴を穿ち、湖底からバッグを引き上げること。
そのバッグから出てきたのが、金の延べ棒と男の生首という、ホラー含みの仰天の展開だ。
小心者の光は腰を抜かすばかりか、以降、西岡らに、今は空き家になっている鈴木家の古い家屋に居座られてしまう始末。
一方、事情を知らない警察官の光太郎の関心は、派出所の天井を騒がせるネズミ捕り。
光太郎にしか聞えない、派出所の天井を騒がせるネズミ捕りに執心するが、失敗の連続に、彼のストレスもまた膨れるばかりだった。
西岡とみゆき |
当然、ネズミ捕りの失敗の連続が、彼のストレッサーの最大の因子だった。
以下、同僚の警官との会話。
「やっぱり、道絶たないとダメなんじゃないですかね。一匹一匹捕まえてたら、キリないですもん。大元封じ込めないと、どんどん入って来ると思うんすよね」
「あのさ、本当にいるの?ネズミ。俺、一回も見た事ないんだよな」
「絶対いますよ。天井走るの、何度も聞いていますもん。やっぱりね、元から塞ぐべきなんですよ」
これは、光太郎の自我が追い詰められていく伏線となる会話だった。
このように、鈴木家の面々が、少しずつ、或いは、決定的に「日常性のサイクル」から逸脱し始めていた、そんな渦中で惹起した「大事件」 ―― それは、鈴木家の父親が転がり込んでいる理髪店の女の娘である、知的障害を持つ春子に、父親が孕ませたと噂される子供が、近々産まれるという由々しき事態だった。
そして今、その日がやってきた。
春子が産気づいた事実を知った父は、慌てて春子の病院に行くのだ。
更に、「轢き逃げ事件」の張本人である鈴木光は、生首の発掘を経て、光太郎に事件の告白をしていたが、警察への通報を断念させた直後、憎き西岡を屠るために討ち入りに行くのである。
その結果、相討ちとなり、両者とも病に伏せる痛手を負うという顛末を、そこもまた、「ブラックユーモア」含みで、映像は切り取ったのである。
鈴木家の面々にとって、「轢き逃げ事件」に端を発した「日常性のサイクル」の狂いは、いよいよ収拾付かない状況を露わにするばかりだった。
3 「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の生命線としての「日常性のサイクル」
顔面傷だらけの光の隣に横たわって、光太郎は一言洩らした。
「どうしようもないな。ネズミばっか増えてよ」
これは、知的障害を持つ春子の出産への毒舌でもあった。
まもなく、光太郎は市役所の建設水道課に行って、水道水や浄水場、ダムに殺鼠剤を撒くことを本気で相談するが、役所の者は、その本気の表情を目の当たりにして反応できないのだ。
「中途半端じゃ、ダメなんですよ。根元から絶ちたいっすよ。一匹でも逃しちゃうと、あいつら、すぐ増えちゃいますからね」
これが、光太郎の捨て台詞。
一方、無理押しして乗っ取った、鈴木家の古い家屋の玄関に、「非日常の毒素」であったはずの西岡の情婦は、「西岡ゆうじ・みゆき」の表札を掲げるのだ。
その直後の映像は、決して無傷では済まなかったであろう鈴木家の面々が、かつてそうであったような、元の日常性に戻っていくシーンを映し出した。
鈴木家の父と愛人 |
当然、父は愛人の元に走り、光は畜産業の営為に戻り、母もまた、かつて元気一杯だったに違いないイメージをなぞるように、地域コミュニティの人たちに交じって、太極拳に興じていた。
彼らは、それが本来の日常性の有りようであると言わんばかりに、事態の根源を見ることが叶わず、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性を繋いでいくのである。
本作で特定的にチョイスされたのは、一つの劣化した家族を襲う、「非日常の毒素」である、西岡とその情婦の、得体の知れない圧倒的な存在感が内包する「定着志向」の凡俗性。
そして、金の延べ棒を換金しようと金融機関に赴く西岡たちの間抜けな要求に、ただ失笑するだけの窓口係の無為無策さ。
まさに、このエピソードの挿入に見られるように、劣化した家族である鈴木一家は、この架空の地方都市に住む者たちの象徴として描かれたことは事実であるだろう。
しかし、ごく普通のサイズで生きる人間を、事態の根源を見ることをしないこの国の現実への警鐘という含みを持たせた、些かアイロニックな視座を投入しつつも、決してその日常性の有りようを、大上段に振りかぶって指弾することがなく、ネズミばかりが増殖していく様態を包括する物語を、淡々とした筆致で構築したのである。
何より滑稽なのは、「非日常の毒素」の本体が「定着」することで見えにくくなり、「松ヶ根名物 しあわせを呼ぶキンホルダー」を1ヶ5千円で売り出し始め、いつしか、換金するのを諦めた様子の西岡とその情婦。
彼らの存在の有りようもまた、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の生命線としての、「日常性のサイクル」のうちに収斂されていったのだ。
得体の知れない圧倒的な存在感を見せた、西岡とその情婦が提示した「毒素」が希釈化するや、呆気なく、「日常性のサイクル」を復元していくパワーこそ、良く言えば、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の本来的な生命線であるとも言えるのだろう。
そんな人間の、本来的に「不完全」であるが故に、滑稽な生き物の脆弱性を認知せざるを得ない現実の様態を、残酷含みで描き切った本作の鋭利な切れ味は、「買春」という悪さをしつつも、事態の根源を探るべく真摯な行動を繋いできた光太郎の、ラストシークエンスに至る一連の振舞いの決定的反転によって炸裂していくのだ。
以下、批評含みで本作をまとめてみよう。
4 「アンチ・ハリウッド」の気概すら感じさせる、切れ味鋭い映像の「自己完結点」
結局、ブラックユーモアとシュールな感覚でで包みつつも、要所要所で、「展開と描写のリアリズム」によって構成された映像の基幹テーマは、まさに、「ブラックユーモア」の本質のうちに還元される何かであった。
「肯定的批判」 ―― これを、私は「ユーモア」の本質と考えるが、「ブラックユーモア」の場合は、肯定性よりも否定性の濃度が深いものと考えている。
本作を読み解く場合、普通の人々が「日常性のサイクル」の時間を十全に繋げず、そこに「非日常の毒素」が侵入するや、その本来的なサイクルが破綻していくプロセスにおいて、その日常性への復元力が自給することが難しく、遂には、外部侵入してきた「毒素」それ自身が、「定着志向」の凡俗性を身体表現することで自壊していくという、「映画の嘘」をなぞるような偶然性に委ねざるを得ないという脆弱性を露わにしてしまうのである。
光太郎(右)と父 |
繰り返すが、ここで最も興味深いのは、物語を根柢から変容させていった根源の一つである、「非日常の毒素」それ自身が、この寂れた地方都市の自己完結的な小宇宙に同化していくことで、一切が閉じられていくという件(くだり)である。
呆気なく、「日常性のサイクル」を復元していく鈴木一家の中で、一人、光太郎のみが置き去りにされていく。
「ネズミばっか増えてよ」と嘆息し続けた挙句、遂には、「仮想敵」の曖昧さだけが累加されて、それがフラストレーションとなって飽和点に達したとき、物語の主人公である光太郎は、事態の根源である、「仮想敵」との闘いへの決着という基本スタンスからではなく、単に、絡みつかれた狂気にまで溜め込んだストレスを炸裂させるためだけに、派出所前の路傍で5発の銃丸を放ったのである。
「すいません。もう、大丈夫です」
それ以外にない「自己完結点」に流れ着いた、ラストカットでの、彼の象徴的な言葉のうちに一切が収斂されるのだ。
「アンチ・ハリウッド」の気概すら感じさせる、何という見事なオチか。
何という見事な映像か。
同時にそれは、訴求力の高さにおいて群を抜き、毒気なしの「リアル」を見事に仮構した、言わば、「半身お伽話の映画」であり、恐らく、山下敦弘監督の作品の中で最も人気の高い「天然コケッコー」(2007年製作)とは些か切れて、奇麗事を一切排した、切れ味鋭い映像の「自己完結点」でもあった。
無論、私は、あらゆる意味で面白過ぎる、本作の方に存分の魅力を感じる観客の一人である。
(2011年7月)
0 件のコメント:
コメントを投稿