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2011年9月7日水曜日

ファニーゲーム('97)     ミヒャエル・ハネケ


<暴力の本質的な破壊力についての、冷徹なまでに知的な戦略的映像の極北>


 1  ハリウッド映画の欺瞞と虚飾への最大級のアイロニー



 この世に蔓延(はびこ)る欺瞞・偽善・虚飾を撃ち抜く、ミヒャエル・ハネケ監督の真骨頂の一篇。

 暴力をテーマにした映画の中で、これほどの完成度の高い構築的映像は、かつて一度も観たことがない。

 サム・ペキンパーもスタンリー・キューブリックも北野武も、本作の、精緻を極めた人間心理の洞察力の前では、木端微塵に破砕されてしまうほどだ。

 恐らく、映像の完成度において、暴力をテーマにした最高到達点の映画であると言っていい。

 それほどの映像だった。

 そんな映像を構築したミヒャエル・ハネケ監督は、「ピアニスト」(2001年製作)のインタビューの際に、明瞭に言い切っていた。

 「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さを残すだけです。快適で親しみやすいものなど、現代の芸術には存在しません。にもかかわらず、映画にだけは気晴らし以外の何も求めないことに慣れてしまっているのです。だからこそ、気晴らしのできない映画を観ると苛立つのです。

 私の映画を嫌う人々は、なぜ嫌うのか自問しなければなりません。嫌うのは、痛いところを衝かれているからではないでしょうか。痛いところを衝かれたくない、面と向き合いたくないというのが理由ではないでしょうか。面と向き合いたくないものと向き合わされるのはいいことだと私は思います。結局のところ、いかに奈落に突き落とすような恐ろしい物語を作ってみても、我々に襲いかかる現実の恐怖そのものに比べたら、お笑い草にすぎないでしょう」(「テレビ東京 CINEMA STREET /ピアニスト <ミヒャエル・ハネケ は語る>」より)

ミヒャエル・ハネケ監督①
一切の物語は、「我々に襲いかかる現実の恐怖そのもの」によって相対化され、その虚飾を撃ち抜かれる類の何かでしかないと、ミヒャエル・ハネケ監督は言うのだ。

 多くの観客を不快にさせ、置き去りにさせた伝説的映像として「悪名」高い、「ファニーゲーム」の挑発性の狙いが、「驚かしの技巧」を駆使した、「視覚に訴えるだけの暴力的描写の連射」を、どこまでもエンターテインメントの範疇で観客の気晴らしを保証する商業戦略の一環として、コンテンツを提供し続けるハリウッド映画の欺瞞と虚飾への最大級のアイロニーであることが容易に読解できるし、当人もまた、「スリラーのパロディ」であるとも吐露しているのである。

 「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」

 これは、本作の中の、目的不明の2人の殺人鬼の主犯であるパウルの言葉。

 この時点で、既に、中流家族の3人の親子を殺害していて、次なるターゲットを屠るべく、2人は動き出し、カメラ目線のラストカットで閉じていくという流れにあった。

 注目すべきは、本作それ自身が「虚構の映像」であることを隠そうとしない演出を見せている点にある。

 それは、以下のシーンによって明瞭だ。

 そのシーンに言及する前に、稿を変えて物語を説明しておこう。



 2  「クローズドサークル」の極点を露わにして




 夏の長期休暇をとって、湖畔の別荘へ向かうショーバー一家。

 ヨットを牽いたワゴン車内には、夫のゲオルグ、妻のアナの夫妻と、一人息子のショルシと愛犬が同乗している。

 奇妙な「事件」が起きたのは、セーリングの準備をしている父子の留守のときだった。

 夕食の支度をするアナの元に、唐突に、肥満気味の青年が訪れて、「卵を分けて欲しい」と言うのだ。

 ペーターと名乗るその青年は、4個の卵をもらって帰ろうとした際、玄関前で卵を割ってしまい、図々しくも代りの卵を要求するが、その間にも、あろうことか、アナの唯一の携帯を台所の水の中に落としてしまう始末の悪さ。

 当初、礼儀正しい態度を見せていたペーターの厚顔さを目の当たりにして、次第に神経を苛つかせるアナは態度を硬化させていくが、そこに、もう一人の青年が出現することで、事態は一気に暗転していく。

 もう一人の青年の名は、パウル。

 痩身のパウルは、相棒をペーターと呼ばず、「デブ」と言い捨てていく態度を見れば、特段に悪相とは思えない二人組のリーダーがパウルであることが了解し得るだろう。

 アナを挑発するパウルの言動が、態度を硬化させていたアナの心に、経験したことがないような恐怖感が加速的に分娩されていく。

 まもなく、愛犬の鳴き声で、別荘での異変を察知したゲオルグが、息子のショルシを随伴して帰宅して来た。

 しかし、二人の不気味な青年を相手に手こずっている妻を見て、夫のゲオルグは仲裁に入ろうとしても困難であることを実感する。


 「タマ、取られるなよ」

 代りの卵を要求するペーターの傍らで、突然、恫喝するパウルの暴言に反応し、ものの弾みでパウルの頬を平手打ちにしてしまった。

 ゲオルグがパウルによって、ゴルフクラブで膝の辺りを打ち砕かれたのは、そのときだった。

 更に、車内に放り込まれた愛犬の惨殺死骸を見せるパウル。

 昼間、初対面のときに吠えられたリベンジである。

 彼はこのとき、カメラにウインクするカットが挿入されていたことで、本作が明瞭に、観る者への確信的視線に満ちた映像であることが判然とするだろう。

 ともあれ、礼儀正しい言葉遣いを捨てて、無差別殺人鬼の本性を剥き出しにするパウルとペーター。

 夜になった。

 「お前らは12時間で御陀仏(おだぶつ)かどうか賭けよう。生きてる方に賭けろよ。俺たちは死んでる方だ」

 「クローズドサークル」(出口なしのミステリー)とも言える、恐怖に満ちた殺人ゲームが開かれた瞬間である。


 「クローズドサークル」の極点を露わにした映像は、そこに内包する恐怖をいよいよ加速していったのだ。

 ―― ここで、オープニングから、約9分間に及ぶシークエンスの重要性について言及しておこう。

 まず、ファーストシーンにおける、オペラの音楽からヘビメタ的な音楽への転換は、労働の拘束力から解放され、夏のバカンスを楽しむ、ごく普通の「中流階層」をイメージさせる前者の「善」、「非暴力性」から、労働の拘束力とは無縁に、目的が見えにくい行為の過程それ自身を愉悦する、特定化された若者をイメージさせる後者の「悪」、「暴力性」への変容であった。

 既にそれは、この後に繋がる、見逃しやすいシーンの伏線でもあったと言えるだろう。

 その伏線とは、湖畔の別荘の隣に住むフレッド夫妻と、離れた車内から挨拶を交わしたゲオルグとアナが、そこにいた見知らぬ若者たちに違和感を持ちつつ、素っ気ないフレッドの反応に、「何、あの態度」と吐露したこと。

 更に、ゲオルグとアナ夫妻の子であるショルシは、フレッド夫妻の子供のシシーが不在らしいことに不満を持っていたこと。

 これは、セーリングの準備で父と湖畔に出向いた際にも、「シシーがいないとつまんない。休み中はいると言ってたのに・・・」と、父に不満を漏らし、父もまた、「なのに居ないなんて、確かに変だよな。シシーのママに聞こう」と答えていたこと。

 「フレッドの伯父さん、変だよね」

 これは、そのとき放ったショルシの一言。

 この一言が、決定的な伏線になっていたことが判然とするのは、「事件」が発覚してからである。

 要するに、この一連のシーンが意味するのは、別荘の隣に住むフレッド夫妻が、既に、パウルとペーターによる、「ファニーゲーム」の被害者になっていた事実を物語るものである。

 そこに突然、ゲオルグの家族が別荘にやって来たものだから、「事件」の発覚を防ぐため、急遽、フレッドを連れたパウルが、ゲオルグの家族に挨拶をしに来たという流れになるのだろう。

 ほぼ確実に、その直後、フレッド夫妻は殺害されていたばかりか、シシーはそれ以前に殺害されていたことも考えられるが(ラストシーンでも分るように、パウルらは殺人を完了した直後に、次のターゲットに狙いを絞って動く)、恐らく、殴打による怪我などの理由で自由が束縛された状態下に置かれていたのだろう。

ミヒャエル・ハネケ監督②(ウイキ)
もし、この時点でシシーが殺害されていたならば、両親の動揺は隠し切れない錯乱状態を示していたと想像できるからだ。

 ともあれ、シシーの死は、後にフレッド家に脱走したショルシが、シシーらしき少年の死体を見たシーンの挿入で明瞭である。

 このように、万全に張られた伏線が、物語内できちんと回収される知的映像の構築力こそ、ミヒャエル・ハネケ監督の真骨頂であることが了解し得るのだ。



 3  「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」



 「暴力」とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

 これが、「暴力」という概念についての私の定義である。

 この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くこと」であると言えるだろう。

 まさに本作は、こうした「暴力」の支配下に置かれた、ごく普通の中流階層の家族の悲劇を描く作品であることが分明になっていく。

 対象人格の自我を存分に甚振(いたぶ)ることで、物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くことであるが故に、「暴力」の行使そのものを自己目的化した行為の一切はゲームと化す以外にないということだ。

 ここで、物語に戻ろう。


 詳細は後述するが、子供を銃殺したことで一度は引き揚げた二人は、逃亡に頓挫したアナを連れて戻って来た。

 殺害の順番の筆頭がゲオルグと決めていたパウルは、その殺害過程や手段について、ゲームの続行を愉悦しようと言うのだ。

 「終わりにしよう。もういい。好きなようにやれよ。それで終わりだ」

 このとき、傷ついて苦痛に喘ぐゲオルグは、吐き出すように言った。

 「まだ、劇場用映画の長さに足りないよ。もういい?納得のいくラストを見たい?」

 ここでもパウルは、カメラ目線でそう言って、観る者を挑発するのだ。

 かくて、ゲームが延長されていく。

 「次に死ぬのは誰か、奥さんが決めていい。ナイフがいいか、それとも銃か」

 反応できないアナに、パウルは遊びの感覚で言葉を添えた。

 「へぇー、このゲームが面白くないか」


 ゲオルグをナイフで傷つけて、アナに判断を迫っていく。
 
 「ほんの短いお祈りを。お前が間違えずに逆さに言えたら、どっちが先に死ぬか決めていいし。こっちの方が切実かな。苦しまない銃を選んでも」

 パウルが、そう言った瞬間だった。

 妻のアナは銃でペーターを撃ち抜くが、慌てふためいたパウルは、「リモコンはどこだ!」と叫んで、映像を巻き戻し、物語を再駆動させるのである。

 既にこのシーンによって、本作そのものが「虚構の映像」であることを、作り手は敢えて見せている。

 これは、パウルのカメラ目線の挿入によって明瞭になっている。

 だから、パウルによって巻き戻された「虚構の映像」は、ここでリセットされ、アナによるペーターの銃殺以前の状態にまで、「クローズドサークル」の物語が遡及するのだ。

 リセットされた「虚構の映像」が映し出す、「クローズドサークル」の物語の恐怖はおぞましいまでに陰湿であり、醜悪極まるものだった。

 まさに、アナによるリベンジの立ち上げを阻む、このリモコン戻しのリセットのシーンこそ、「奇跡の逆転譚」を懲りることなく垂れ流し続ける、ハリウッドのスリラーへの最大級のアイロニーであることが了解し得るのである。

 物語に戻る。

 「ほんの短いお祈り」を言えないことで、夫を銃殺するパウル。

 このショットの呆気なさこそ、本作を貫流する映像構成の特色であり、言うまでもなく、そこにハリウッドのスリラーへのアイロニーが張り付いているのは自明である。


 これは、家族の中でただ一人生き残った、気丈なアナへの殺害のショットにおいても変わりなかった。

 そのアナをヨットに乗せた二人は、暫くアナの存在を忘れて、形而上学の議論に熱中するばかり。

 「全てが逆だ。予言は嘘で、人々はパニック。ケーヴィンは現実を知り、妻と娘に警告。難しいのは、反物質界と現実の行き来きが・・・」

 そこまでペーターが話したところで、アナがロープを切って逃げようとしているのを見たパウルは、「見ろよ。いい根性だ」とペーターに笑いながら言った。

 その直後、パウルは特段の感情投入なしに、「チャオ」と言って、あっさりとアナを海に突き落とすのだ。

 まだ一時間の時間の余裕があると言う相棒に、パウルは面倒臭そうに一言。


 「ヨットはかったるいし、腹減ってきた」

 「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」

 更にこれは、アナを海に突き落とした後も続く、ペーターとの議論の中での、パウルの言葉だ。

 虚構と現実のボーダーが見えにくい程に、リアリティに最近接する虚構の破壊力を、まさに「虚構の映像」によって検証して見せるのである。

 ともあれ、中流家族3人を暴力的にインボルブした、二人の男による「ファニーゲーム」は終焉する。

 最後まで、ゲーム感覚で理不尽極まる暴力が開かれ、呆気なく閉じていくのだ。

 しかしなおも、二人の男による「ファニーゲーム」が繋がっていく。

 今度はパウルが、夫婦の友人の別荘に行き、卵をもらいに行くのである。


 パウルがまたしても、カメラ目線になるラストカットが、そこに張り付いていたのだ。



 4  「正義・人道・弱者利得」という予約済みの理念の欺瞞性



 ハリウッド映画における暴力描写に、決定的に欠けるもの。

 それは、継続的に暴力を受け、人間の尊厳を傷つけられた人格の、その圧倒的な恐怖のリアリティである。

 「正義・人道・弱者利得」という理念が、物語の中枢を占有しているからだ。

 しかし、私たちが当然の如く決め付けている理念が、この映画には微塵もない。

 だから本作は、欺瞞・偽善・虚飾に満ちたハリウッドのスリラーを相対化し切って、それをお伽話のパロディとして屠るために、ハリウッド映画とは真逆の描写を随所に挿入していった。

 まず、ホラー効果を増幅させるための「驚かしの技巧」(注1)は、ここには全く駆使されていないし、暴力描写それ自身が描かれることはないのだ。

 何より鮮烈なのは、幼気(いたいけ)な少年を、その両親の前で、簡単に銃殺してしまうというシーンを挿入させていたこと。

 最初に、呆気なく子供が殺されるシーンなど、予備情報なしに、初めて観る者の誰が想像するだろうか。

 子供だけは助かるという、根拠なく勝手に決め付けている観客の、予約済みの物語の欺瞞を揶揄しいるのだ。

 その幼気な少年の遺体が、いつまでもテレビ中継の煩い居間の中に転がっていて、テレビ画面には、少年の鮮血がべっとりと張り付いているのだ。

 これは明らかに、ハリウッドのタブーとも言える描写の投入である。

 そして、我が子が銃殺されたその部屋には、両手足を縛られた母と、骨折して動けない父が、言葉すら出てこない恐怖に呪縛されて、「クローズドサークル」の狭隘なスポットに置き去りにされているのである。

 愛する我が子を喪った衝撃を受容し切れない二人の両親が、如何にこの危険な状況から脱するかという会話を交叉させた、10分間に及ぶ長廻しのシーンである。

 稿を変えて、以下、その辺りを再現してみる。
 

(注1)ここでは、二人組が再び別荘に出現するカットにおいて、ゴルフボールを転がしていくという、あっさりした描写の挿入で処理していた。



 5  ハリウッドの欺瞞性を撃ち抜く、継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖のリアリティ



 逃げようとしたショルシを撃ち殺したペーターに、パウルが文句を言った後、「ずらかろう」という言葉が、それを映し出さない画面から、洩れ聞こえてくるのみ。

 カーレースを放送するテレビ画面に大量の血が飛び散っていて、床には撃ち殺されたショルシの遺体が横たわっている。

 ここから、二人が立ち去った後の映像は、10分間に及ぶ長廻しのシーンが描かれるのだ。

 下着姿で両手足を縛られたアナが、何とか立ち上がり、ショルシの遺体に眼を向けることなく、腰を使ってテレビを消す。

 「行ったわ・・・行っちゃったわ」

 足を骨折して横たわっている夫に、確認を求めるように言葉をかけた。


 夫からの反応はない。

 この間、3分間。

 まるで静止画像のようだ。

 「ナイフを持って来る」

 そう言って、縛られた状態のまま、両脚飛びで移動するアナ。

 居間に一人残されたゲオルグは、動かせない体を半身立ち上げるが、そこまでだった。

 号泣するゲオルグ。

 そこに、ナイフで紐を切り落し、自由になっていたアナが戻って来て、夫を抱きしめた。

 「落ち着いて。深呼吸して・・・お願い、あなた!いいわね。深く息をして」

 この間、6分間。

 「ここを出なくちゃ。戻って来るかも。支えたら、歩ける?」

 このアナの言葉が出るまでの間で、8分間が経過した。

 「やってみよう」

 粗い呼吸を続ける夫が言葉を発したのは、そのときだった。

 アナは渾身の力を込めて、痛みで苦しむ夫を担ぎ上げ、一歩ずつ移動していくのだ。

 「アナ、見るな!」

 息子の遺体に一瞥した妻を、制止する夫。

 ここで、10分間に及ぶ長廻しのワンシーンが閉じたのである。


 凄まじいまでのリアリティに、観る者は圧倒されるだろう。

 継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖の現実が、そこにあった。

 このように救われようのない状況を、まるで記録映画のように冷徹なカメラが捕捉し、夫婦の恐怖感をマキシマムに表現していくのだ。

 殆ど死を覚悟している心境下にあって、いつ襲いかかってくるやも知れぬ恐怖に震えながらも、必死に助け合おうとする夫婦の振舞いを描く長廻しのシーンに、少なくとも、私は異様な感動を受けた。

 身動き取れない夫を、担ぎ上げて移動するシーンは、ハリウッドなら「スーパーウーマン」の馬力を描くことで簡潔に処理したはずだ。

 しかし、本作は違った。

 無様とも見えるような格好をして、苦労して担ぎ上げ、容易に移動できない描写を延々と繋ぐのだ。

 この何気なくスル―してしまうシーンを描き切った作り手の、その人間心理の洞察力と観察眼の鋭利さに、私は言葉を失った。

 長廻しのシーンの直後、思わず吐き戻す妻を案じる夫に、なお気配りして笑みを送る妻の、人間の限界を超える辺りの行動を、ギリギリまで描き切った一連のシークエンスに、私は言葉を失ったのだ。

 何という、完成度の高さなのか。

 これは、人間ドラマとしても一級品なのだ。

 この辺りが正当に評価できない批評家連中の偏頗(へんぱ)で、霞がかかったような劣化した能力よりも、遥かに高い映像作家の孤高性を感受した次第である。

 結局、二人は呆気なく殺害されるに至るが、その間、ゲームとして愉悦する犯人たちの心理の内奥は、最後まで闇のベールに閉ざされていて、そこには、不条理な恐怖劇が淡々と展開されるという物語構成を繋いでいくのである。

 そして前述したように、パウルによるリモコンの巻き戻しのシーンの挿入によって、本作が虚構の物語であることを、観る者に種明かしして見せるという禁じ手を駆使する離れ業のギミック。

 しかし、この虚構の物語は、ハリウッドの欺瞞性を撃ち抜くリアリティを存分なまでに持ち得ていたのだ。

 更に何より、ハリウッドの欺瞞性を撃ち抜くリアリティは、何気ないが、最も説得力を持ち得る一つのシーンによって検証されるのである。

 ゲオルグがパウルによって、ゴルフクラブで膝を打ち砕かれたシーンがそれである。

 パウルによるリモコンの巻き戻しのシーンに至るまで、ゲオルグへの身体暴力の直接的な描写が一切なく、最後まで映し出さなかった膝の打ち砕きという一撃のみで、完璧に破壊された身体の自由こそ、身体暴力の描写の極致と言っていい。

 それは、このような当然過ぎるリアリティを描こうとせず、歯が折れ、顔面が破壊されるはずなのに繰り返し殴打し合う、ハリウッドの愚かなバイオレンスシーンを想起すればいいだろう。

「暴力脱獄」より
例えば、「俺たちに明日はない」(1966年年製作)のフェイ・ダナウェイが扮したボニーは、瀕死の重傷を負うほどに、川で銃撃されても簡単に死ぬことなく、あっという間に回復するという離れ業のギミックを見せてくれたし、「暴力脱獄」(1967年年製作)のルークは、囚人同士の賭けで50個の卵を一気に食べても何ともないという、不屈の「スーパーマン」を立ち上げて見せるのである。

 この種の娯楽映画でなくとも、ハリウッドのバイオレンスシーンは嘘の洪水の連射と言っていい。

 だから、そんなハリウッドのバイオレンスシーンに馴致してしまうと、本作での、ゴルフクラブによる致命的一撃の描写が見せたリアリズムに気付くことすらないほど、私たちは鈍感になっているに違いない。

 膝の打ち砕きという一撃の描写なしに、かくも人間が、呆気なく壊されゆく存在であることの怖さについて、痛々しく感受させた映像の凄み。

 その凄さに圧倒されるばかりである。



 6  暴力の本質的な破壊力についての、冷徹なまでに知的な戦略的映像の極北



 ハリウッドでは到底到達できない、「虚構は現実と同じくらい現実だ」という、まさに現実の恐怖の臨場感に最近接する辺りまで、この虚構の稜線が伸ばされていったのである。

 そこにこそ、ハネケ監督の狙いがあったことが判然とするだろう。

「ナチュラル・ボーン・キラーズ」より
精緻に練られた知的戦略によって構築された映像の完成度は極めて高く、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(1994年製作)に代表されるように、殆ど同種のスリラー、アクション、スプラッタームービー等に張り付く、「過剰だが、実感的な恐怖とは無縁である」という、ゲームのように累加された暴力の集合でしかない気晴らしのエンタテイメントの物語を、その根柢において無化する程の力技の凄みを、本作は観る者に鑑賞させてくれたのである。


 ガス・ヴァン・サント監督の一部の映像がそうであるように、知的戦略によって構築された、この映像と最後まで対峙する者の如く鑑賞し得たなら、紛う方なく、暴力の本質的な破壊力によって、「無差別テロリズムを極点にする暴力が、如何に恐怖に満ちた不快な何か」であることが実感的に受容し得るだろう。

 そして残念ながら、私たち人類にとって、人間の手による様々な暴力が根絶不可能である現実をも認知せざるを得ないのだ。

 しかし、「白いリボン」(2009年年製作)で主題提起したように、「無差別テロリズムを極点にする暴力」の分娩が、如何に容易に形成され得るかという問題意識を持たなければ、ディストレスをストックした人間の感情がファナティシズム(狂信)に収斂されていく事態への恐怖をも、「正常性バイアス」(注2)の心理のうちに希釈化させてしまうのである。

「白いリボン」より
それが成就したか否かについては意見が別れるところだが、少なくとも、この問題意識こそがミヒャエル・ハネケ監督の一貫した主張であり、同時に、観る者を過剰に挑発した感のある本作の基本戦略であると言っていい。

 「ある思想がイデオロギーへと変異するときはいつも、そのイデオロギーは生活がうまくいっていない人々によって支持されます」(「ぷらねた~未公開映画を観るブログ」より掲載)

 このミヒャエル・ハネケ監督の把握は、ディストレスをストックした人間の感情が特定の思想と睦み合っていて、「絶対基準」を持つイデオロギーへと変異するときの怖さを想起させる。

 本作は、理不尽な暴力が容易に正当化される事態への告発ともなっているが、無論、この主張が映像総体を貫流するものでもない。

 しかし、ハネケ監督の映像には、常に、精緻に練られた知的戦略が内包されていることだけは押さえておくべきだろう。

 「虚構は現実と同じくらい現実だ」という程に、理不尽な暴力の真の怖さを、まさに、「虚構の映像」によって検証した本作の劇薬性は抜きん出ていたのである。

 従って、本作は「過激」であるが、「低俗」ではなく、「挑発的」であるが、「主題提起力」において群を抜き、「無秩序」なように見えて、驚くほど「精緻」であり、「粗雑」なように見えて、遥かに「構築的」である。

 因みに、本作が「粗雑」な作品とは無縁であることは、前述したように、その目立たないような伏線の回収の見事さにおいて検証できるだろう。

 観る者に、かくも集中力を要求するハネケ監督の映像のハードルは相当に高く、誤解を恐れずに言えば、数多の批評家やシネマディクトの鑑賞眼を試すかの如き構成力の戦略性は、殆ど一頭地を抜く程の知的武装において際立っているのである。

 その意味で本作は、人間の心理を巧妙に利用して構築された、冷徹なまでに知的な戦略的映像の極北だったのだ。

 この稀有な才能と出会えた喜びは、殆ど言葉に表せない程である。


(注2)危機に馴致してしまうと、もっと大きな危機が切迫しても、「大したことではない」と考えることで、自分の不安感情を処理すること。この心理が過剰になると、最適適応の中枢である自我が「感覚鈍磨」していく。

(2011年10月)

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

貴殿のレビューで、はじめてこの映画のなぞだった部分が理解できました。

感謝!

マルチェロヤンニ さんのコメント...

ハネケに関して、これほどまでに深く掘り下げている評論家がいるのでしょうか?
私は映画雑誌をほとんど読まないので、説得力はありませんが、下手な映画雑誌の評論家よりも深く理解しているのではないでしょうか。
ハネケが「ファニー・ゲーム」で、カンヌの本パレス会場を戦慄させたのは、もう18年も前の第50回カンヌ映画祭の事でした。
その年は「うなぎ」が「桜桃の味」とともにパルム・ドールを受賞しました。
審査委員長はジャンヌ・モローだったと思います。審査員には、コン・リーやティム・バートンがいました。
この年は、河瀬直美が新人賞監督賞も取っていたので、日本人としてはうれしい年でした。私が行ったからかな?なんてまじめに考えていました。

実はこの年のカンヌに、私は潜り込んでいました。
なんとかなるもんです。そういうと非常に問題のある人間と思われるかもしれませんが、誰にも迷惑をかけることなく、いろいろと見せていただきました。
その中でも衝撃だったのがやはり「ファニー・ゲーム」です。
巻き戻しが起こったときには、会場がスタンディングオベーション。は?っていう感じでした。私にはすぐにはどういう意味か処理しきれずに、帰り道ではどういう事が言いたいのだろうと考えていました。プレスは英語かフランス語ばかりなので、正直にいって情報が足りない。そんな中で私が出した答えが、主人公たちに主導権を握られた映画という実験映画なのかな?という事でした。実験映画の監督に学生時代にお世話になっていたので、そういう見方をしたのかもしれません。
リメイク版は怖くて見ていません。
これを機会に見てみようかと思います。

「白いリボン」や「ベニーズ・ビデオ」も見ましたが、こちらの解説を拝見するまでは何を言いたいのか、よく分かりませんでした。
映画をじっくり見る事が出来なくなっている気がします。
反省しております。